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開拓時代の木材の流送

佐川 亀蔵 明治四十二年七月五日生(七十九歳)

はじめに

開拓時代の木材の産地と云えば、まずは日新地区の新井牧場が思い出される。
ところが私の知るところでは、これも大正時代後半の事で、その以前は日新郷土誌を調べても、もはや調査が難しくなってしまっている。
私を含めて現存する各古老が、幼少の頃からその目で見たものは、おぼろ気ながら夥しい巨木の切株の数々と、飯場に使用した家の残骸と、十勝岳爆発以前、イワナや鰍(カジカ)を馬車の輪立ちで踏み潰したという豊かな川に、ゆったりと浮んだ流木、その流送のために、富良野川及びワッカピリカフラヌイ川に丸太の杭(アバ及びヤナ?と呼んだ)があちこち施工されていたという事である。
私の想像するところ木材の開拓は、富良野川に並行して、上流各支流の奥へ奥へと道を伸ばして行ったものと考えられる。
木材の搬送(橇の歴史)
木材の流送と云えば、本州では古い時代から最近まで、木曽川、天龍川及び紀州吉野川等大きな川を利用して、産出が栄えた事は誰しも知るところである。しかし、この北海道の上富良野では、長い冬期に雪を利用した馬橇が歴史をつくり、短かい夏の間だけ小さい沢の川を利用して木材の搬出が行われた事が事実であります。
こゝで冬期の馬橇の歴史について、私の周辺を思い浮べてみると、私共は、私が生れた明治四十二年に当地に入植したそうである。道もなかった当時は、「駄鞍(だぐら)」という馬の背に着けた運搬具で、主に日用品を街から買って家に運ぶものに使用したのです。
私共はこの駄鞍は、木材運搬には使用しなかったけれども、内地ではずっと後の昭和十五年の冬に、鳴子温泉の近くで長材(十二尺程)を斜めに積んで運搬していた事と、終戦後も山形の遊佐でパルプ材(四尺位)を搬送していた事を見た事があります。
上富良野における木材運搬用の一番古い橇は「玉橇」というもので、特徴は底の接雪面が、直経三尺位、長さが三〜四尺位もある随分大きな原木を使っていた事でしょう。これは、大正の初期から後半にかけて、長い間使用されたが、やがて大きな木が少なくなってくると色々と改良され、この橇に「カンザシ」といって、鉄角棒と二尺余りの木で折畳み式固定枠を橇本体に取付け、数本の丸太を一括して多く運べる様になったし、また馬と橇の間も鎖で強化された。しかしこれも改良され、今度は玉橇の後方に「バチ」という本橇の半分位の補助橇を連結し、長材でも容易に積載出来るように改良されていったのである。
大正十年か十一年頃この玉橇と並行して、現代に近い「馬橇」というものが流行って来た。
新井の沢ではこの馬橇に長材を斜めに載せ、「チャン積(づ)け」というマニラロープ(太さ五分位)で、長さ五尺余りの棒を利用し、積荷の丸太を何回も締め付けながら運搬したものであった。これには六尺位の短材も、ふりつけ(横に添えて積むこと)にして運ぶ事も出来た。
又、大正十三、四年頃になると、山部方面から馬橇の後方に、鼻のない曲った六尺位の補助橇をロープで連結した、「馬橇バチ」というものが流行して来て長材を運んだ事もあったが、これは一時的な流行で終った。
こうして改良を加えながら昭和の初期を迎えると、麻ロープもワイヤーロープに変り、木材を縛るにも「ガッチャー」という簡単で丈夫な道具に変り、当時の私共には大変便利に思えたものである。
道路も又時代と共に広くなり良くなっていった。
玉橇と馬橇は、私共の木材搬送の分野で冬の生活に密着し、中でも山道の険しい所と、西の方の二股御料は依然として玉橇に頼り、一方新井、細野の方は馬橇、西二線の今の布施さんの所からは、玉橇と馬橇の両方、という様にその地域の特性があった。
又共同の道路も降雪状況によって、片側は玉橇道、片側は馬橇道というように、西二線の合流点から土場まで使用区分があった。
昭和の初期には、東側も西側も可成り多くの木材が搬出され、西二線の合流点では、馬橇と玉橇の賑やかな競り合いがいつも行われたものである。
昭和十年頃、最後の橇が流行したのが「ベタ橇」といゝ、七、八尺もある幅の広い、丈の低い木材搬送用の橇で、バチ橇とも連結出来、特に軟かい雪道でも「ぬからない」のが特徴だった。
このベタ橇は近年車が導入するまで使用された橇である。
木材の搬送(川の利用)
川を利用した木材の搬送は、短い夏期に行われ、年代的には、明治の末期から大正十五年の十勝岳大爆発までの間で、フラノ川本流及びその支流、並びにフラヌイ川本流で流送が行われていたと推察される。(編集注:本流、支流の区分が現在のものと異なっているので、以下記述を参照して推察願いたい。)
十勝岳爆発以後は複旧作業に専念したためか、或いは川や施設が埋ってしまったので、消滅したのが本旨である。この流送については、古老の記憶も異句同音ではあるが、場所等はっきりしない。それだけ爆発が地域を変貌させたのである。
やむなく私も、伊藤鶴丸氏、船引与右ヱ門氏、旭川の菊池先生、熊谷 寿氏、片倉喜一郎氏、吉田クメさん等に話を聞いて回り、それでも結果は断片的に幼い頃見た丸太杭の「アバ」や「ナバ」の話をきゝ辿って記憶を甦らすしかないのである。
これによると、先ず新井の沢のフラヌイ川(現在は富良野川)、清水沢のピリカ富良野川、今の日新ダム入口付近、この上流の対馬本家付近、清富部落の柳の沢、鹿の沢の今の藤山さんの付近、フラノ川を利用した通学路で俗名通称忠次郎の沢等が、流送に利用した川として、杭の跡が確認されているところである。
又夏の暑い盛り、学校の前の川は子供の水泳場だったが、下駄材(二足分位の長さ、厚さ二寸五分〜三寸、幅五〜六寸)の細長い?の材木を疎らに流されるので、泳ぐ事が出来ず困った事を子供心に思い出します。
又、この川を利用した施設には、大正三年頃〈七伊藤木工場があり、取水用の水門もありましたし、西二線三十号付近の分部庫三(分家)宅付近には、流送陸上げに使用した、いわゆる「アバ」の跡があり、ここでエホロカンベツ川の流送木材を、貨車積みしたらしい、近くに鉄道官舎があった事も確かである。
その後、十勝岳爆発後は、〈七伊藤木工場の古い水車で従兄の伊藤誠一氏が、二股御料に水車を利用した製材所を建立したのが最後の記録である。
以上川の澱送について述べたが、十勝岳爆発以前の話につき、一部現地図とは一致しないので了解されたい。
造材師について
上富良野の明治、大正、昭和の前期と云えば、夏は土地の開墾が主であり、みんな造材といえば、冬期の作業としていた。従って土着する専門の造材師は育たなく、恐らく各地を渡り歩いた出稼ぎ造材師であったろうと思慮される。
私の調べでは、明治の末期から大正の初期にかけて、新井牧場の造材に先駆け、佐川団体の先発隊として、「佐々木卯左ヱ門」氏が現場の責任者として木材の搬出に従事していたらしいが、明治の末期か大正の初期ごろ市街に出て行ったらしい。又、大正十年頃から爆発時まで、高橋長助氏も造材に携っていたと聞くが、いずれも土着はしなかったようで、私の知るところその他の造材師の名前は聞き及んでいない。
おわりに
私は、この日新の地に入り今年八十年目になるが、子供の頃は、この辺りは大木の生い茂った原始林で、十勝岳の麓の山も、西の芦別連峰も冬でも見えなかったものである。
今は当時に比べれば、周りは全く禿山に等しく実に淋しく思う。今は輸入材が安く手に入る事もあるせいか、木材の景気が悪いので、山の手入れもおろそかになり、将来どんな事になるのか全く世の移り変りには予想も出来ない時代である。
又現在は、木材の搬出もヘリコプターを使い、山間避地からも素早く運び出せる様になったが、それだけに緑は補充しないと、やがて人間も住めなくなる事だろう。
私は今、入植八十年を偲んでこの薄くなった自然の淋しさとはまた別に、今も十勝岳を仰ぎ、富良野原野を眺め、近くの森に入れば知らずに心が和んで来る。誠に有難い心境である。
万恩に感謝しつつ拙ない筆を措く。
編集員:第四号の開拓と造林の中で西川牧場からも材木が流送されていたよう
   で……と記載しましたが、調べなおしたところ、コルクニ沢の西川牧場からは
   材木の流送はしていなかったと言う事で、訂正させていたゞきます。

機関誌 郷土をさぐる(第7号)
1988年10月25日印刷 1988年10月30日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一