郷土をさぐる会トップページ     第07号目次

銃後の農村回想記 その2

岩田 賀平 明治四十三年十二月十日生(七十七歳)

交通事情の悪化
前号で述べましたように、戦争末期唯一の交通機関である鉄道が、戦略目標物として攻撃にさらされ、致命的損害を蒙るようになってくると、道民の絶望感はいよいよ深まるばかりでした。
国鉄では、万難を排して連絡船の応急修理に当り、傭船一隻を加えて終戦時には辛じて、三隻を運航することが出来たそうですが、このような状態でしたから戦争が終っても、輸送事情はなかなか好転せず、加えて、占領軍関係の輸送が優先され、或は、引揚者や食糧の輸送が重点的に行われた他、食糧などの買出し部隊や、闇商売の担ぎ屋の人達によって、戦争中にも増して交通事情は悪化しました。
明けて、二十一年一月からは、長距離往復切符の発売が禁止になったり、極度に制限されたので、どうしても汽車で出かけたいと思っても、乗車券を買うのに長い行列に加わるために、前の晩から座り込む人達で、旭川駅などの待合室はあふれるばかりでした。
漸く汽車に乗ることが出来ても、驚いたことに客車の窓ガラスが無くて、ベニヤ板が張られていたり腰掛けの布が剥ぎ取られているというひどいものでした。
その上、車内の乗客は定員を数倍する超満員振りで、座席の間や通路はもとより、洗面所、トイレ、デッキまで、人間と買い出し食糧をはじめとする荷物で、身動き出来ない程詰め込まれたのです。
従って、列車の乗り降りの大部分は窓からでしたし、子供や男性達の用足しは、窓から平気で済ませる始末でしたが、御婦人達は流石(さすが)にそんなことも出来ず、我慢するその苦しみは、男達の想像以上のものがあったようです。
そんな時でも、列車の一、二等車、寝台車、食堂車のすべてが、進駐軍に徴用されていましたから、占領軍関係者は日本人乗客の超混雑振りを余所に、ゆったりとした特等車への我がもの顔の乗車風景を見た私達は、被占領国の惨めさ情なさを、いやという程噛みしめたのでした。
ここで、新北海道史にも記録されている富良野沿線にあった食糧強制買出し部隊のことについて、ふれておきます。
昭和二十年十一月十四日のことです。食べる物がなくなった滝川沿線(今の根室本線)の炭鉱で働く人達を中心とした、食糧強制買出し部隊が大挙して押しかけて来たのです。この日の朝、上り列車が上富良野駅ホームに着いた時はびっくりしました。予め情報は入ってはいましたが、それにしても極超満員の人人人、客車、貨車からはみ出した人達は、機関車、炭水車から屋根にも上らんばかりに、鈴成りになってこぼれ落ちんばかりのあふれ方には、度肝を抜かれました。
部隊の行動は意外に平静でしたが、それでも無言のうちに只ならぬ無気味さを感じたのでした。おそらく各乗車駅に集った集団は、駅係員の制止も開かず、無法乗車になったのだと思いました。
下車した群衆の一隊は、最初に農業会の管理する政府米倉庫に押しかけ、倉庫を守る職員と扉を開けろ、開けられぬの押し問答をする緊迫した場面もありましたが、係員の必死の説得に、改府米開放を思い止まった群衆は、矛先きを澱粉工場(当時町内には十数工場があった)に転じ、何隊かに分かれて東に西に北に長い行列をつくって、遠い部落にある工場に向いました。澱粉も全量政府買上げなのですが澱粉袋の山を目の前にして、窮状を訴えて迫る大勢の声に屈した形になって、工場主(農家)の自由裁量で一人当り何貰までと、限定して販売することで話し合いがついたのです。
リュックサックを背にした群衆の中には、婦人や子供も混っていて、売る人、買う人の立場は異なっていても、お互いに事情がわかるだけに、違反とは知りつつも誰が悪いと決めつけられない苦しさがあったのです。
狂乱物価と社会不安
第一次世界大戦の時、敗戦国ドイツでは、物価は何千倍にもなるインフレに悩んだといいますが、日本の敗戦でも衣食住の窮乏にも増して、生活を一層圧迫したものは物価の暴騰でした。
終戦当時の日銀券の発行高は、三百億円であったものが、翌年には六百億円にふくれ、政府は対策として預貯金を封鎖し、新円を発行して、一たんは百五十億円まで縮小したものの、二十二年には一挙に二千億円を突破したのです。
当然物価は高騰し、公定価格は改訂を繰り返すことになりました。二十一年頃米一升の公定価格二円八十八銭が、都会では三十円から六十円に、正油一升の公定六円が六十円から百円に、砂糖百匁九十銭が旭川では何と百三十円にもなるというように、物資の絶対量の不足は闇価格の形成となって、公定価格と二本立が続くことになりました。
インフレと共に、社会問題として最大なものは失業問題でした。戦線からの復員軍人、海外同胞の引き揚げ、軍需産業の壊滅などから、失業者数は二十二年全国で八百万人、北海道でも二十万人と推定されました。
生産、流通統制のすき間に都市では焼け跡、駅前広場などに沢山の闇市や青空市場が立ち、大変繁盛しました。市場には統制品、禁制品、進駐軍物資の衣料、食糧、たばこ、日用雑貨が並べられ高値でしたが、何でも手に入るので大衆からは、結構重宝がられました。
これら、闇市の商人の人達は、職のない引揚者が多かったようですが、実権を握っていたのは、中国人や朝鮮半島の戦勝国の人達で、敗戦国の警察は微力でしたから、闇市は治外法権地帯のようなものになっていました。
ちなみに、生活水準を表わすのに使われるエンゲル係数を調べてみましたら、日中戦争直前の昭和十一年には三十五%でしたが、戦後の二十一年には実に七十二%にもなりました。そして、五十五年には二十五%まで向上したのですから、敗戦時の国民がいかに食生活の支出に追われたかが、この数字からもうかがい知ることが出来るわけです。
終戦の混乱期の様相
破れることを知らなかった神国日本が、遂に敗戦の憂き目を見ることになりました。「一億一心火の玉となって戦う」や、物資窮乏のドン底生活の中でも、銃後の国民は「欲しがりません勝つまでは」の合言葉で歯を食いしばって耐えましたが、大陸、太平洋の全域に拡大した戦線からは、玉砕、転進が相次ぎ、更には、人類初の特殊爆弾(後に原子爆弾であることを知らされた)の洗礼を受けるに至って、戦局は、いよいよ窮迫し、本土決戦が必須の情勢になっていきました。
昭和二十年八月十五日正午に、天皇陛下の玉音放送があることを知らされたとき、私どもの直感では「いよいよ本土決戦、一億玉砕の決意を国民に呼びかけられる」のだと思ったのでした。
しかし、ラジオ放送は雑音がひどくて聞き取り難い中に、自分の耳を疑いながらも「耐え難きを耐えしのび難きをしのんで…‥」どうやら連合軍に対して無条件降伏する意味に取られましたが。
戦争に負けた日本は、これから一体どうなるのだろうか、疑心暗鬼のうちにさまざまなデマが飛びはじめたのです。
「稚内にソ連軍が上陸して南進中である」とか、「米軍が上陸して来たら男は去勢、婦女子は連れ去られる」などの流言や、反対に占領軍は我々の意表をついて、甘い手で来るかも知れない。「賠償金は取らない」「大陸からの復員将校には帯刀を許すだろう」だから、日本は決してその甘い懐柔策に乗ってはならない。或は、降伏には応ぜず「道内の残存在郷軍人を糾合して最後の抵抗を試みるべきだ」と言う意見が、旭川第七師団に持ち込まれて、いや、「最早その段階ではないと師団長から説得された」とか、いろいろな話が巷に飛び交いました。
また、終戦の翌日の新聞論調には全く戸惑いを感ずるばかりでした。前日までの「国民は最後の一人になるまで戦おう」といった戦意高揚一辺倒の論調が、一夜明けた翌日の新聞に、「一億総儀悔」だとか占領軍寄りの記事に転換しても、私たちは、いろいろな気持が錯綜して、素直に同調する気にはなれないのでした。
終戦になって様々な変化が現われたのは、進駐軍が役場や農業会に種々の調査にやって来るようになってからですが、一般村民との接触では、次のような場面もありました。
旭川方面から国道を南下して来たらしい、占領軍のジープが私宅のお隣りの家の前に止ったのです。
初めて見る進駐軍に家人はびっくりして、家の中に逃げ込みましたが、米兵は家には近づかず、道路で地図らしいものを手にしながら、身を屈めて低い姿勢で手招きするのです。
隣りの親父さんが恐る恐る近づくと、片言で「ナカフウラアノ」を繰り返します。こうして、帯広に向う米兵に道を教えてホッと胸をなでおろしたわけです。
当時、私が初めて見た米兵の印象は、軍服の上衣を脱ぎ、上半身裸体、帽子もなく、ガムを噛みながらの応待には、それまで見馴れていた我が軍隊との差の大きいことに驚きました。
またその頃、捕虜収容所から解放された中国兵やそれまで、抑圧感の強かった半島の人達が、旧軍服姿で三々五々グループをなして、上富良野駅を下車し、(いずれも無札乗車)農業会で保管中の統制品を、戦勝国兵顔で強制的に買い出そうとするのです。
配給統制品の趣旨を説明し、体裁よく拒否するのに幹部職員は大変苦労しました。
旭川では、百人を超える大集団で不穏な行動が行われたりしましたが、私はたまたま旭川の旅館で、医師を志望だと称する半島の一青年と相部屋したとき、彼は同族の人達の傍若無人の振る舞いを苦々しく思う、自重を促したいと洩らしていたことを思い出します。
北海道は、本州に比べれば戦災の程度は軽かった筈ですが、それでも住む家のないルンペンが駅の待合室を山根城にして、昼は街の盛り場の一角に屯したり、或は青空市場を繁盛させたりしましたが、他方には、気が利く連中が旭川の例では、美瑛川の河川敷に廃材、古トタン板などで雨露をしのぐ小屋を建てはじめ、次第に膨張してやがて無法部落が形成されていったのです。
敗戦国民の表情というのか、自己防衛意識のみが強く、投げ遣り、無気力、無責任時代に入り、GHQ、連合国総司令部の最高司令官マッカーサー元帥が、日本人を幼稚な十二歳の小児だと評したのは、この時期のことです。
昭和二十二年、総司令部のアドバイスを受けながら、主権在民、戦争放棄、自由民主主義、基本的人権尊重を骨子とした日本国憲法を制定し、二十六年には、アメリカなど連合国側四十八ヶ国と平和条約を調印。翌二十七年四月発効、占領が解かれて、七年振りに独立国となることが出来ました。
講和条件としては、かねて予想された、領土の割譲の他に、第一次大戦の時、超巨額の賠償金に苦しんだドイツの前例を想起しましたが、報復的賠償は要求しないとの、蒋介石の言明でその恩情にホッと胸を撫でおろしたのでした。
平和条約締結によって、漸く気を取り直して戦後復興に立ち上った日本人は、その持つ知的能力と、勤勉さ、常にベストをつくす努力に加うるに、国際環境の然らしめたこともあって、世界から驚異的といわれる程の繁栄をもたらしました。あの敗戦のドン底にあった時、今日の発展は誰しも、夢想だに予想出来なかったことです。
おわりに
終戦四十年のこの機会に、我が国の近代になってからの戦争への歴史を、振り返ってみることにいたします。
日本は、徳川幕府が大政奉還して、鎖国から世界に目を見開いて、欧釆文化との格差の大きいことに驚いたばかりでなく、列強諸国の殖民地にされかねない国際情勢に恐れおののいたに違いありません。
維新政府は、開国と共に積極的に西洋に追いつけ、追いつけを合言葉に、あらゆる制度文物の導入に力を入れることになりました。
まず、最初に教育制定、ついで、軍事、立法、司法、財政等は、英、仏、独にその範をとったのを始め、鉄道、郵便の制度や、また、風俗習慣の変革にもつながる太陽暦、或は庶民の苗字の採用、男子の断髪や帯刀の禁止等の、大改革を矢継ぎ早に断行した他、重工業を中心とした産業の変革も大胆に行いました。
アジアの小国日本が、富国強兵を国是として、近代国家の形態を整えていく過程で、人口食糧問題にからんで大陸への発展政策は、日清・日露の両戦役となり、その勝利は、日本の国際的地位を急速に高めることになりました。
大正時代、第一次世界大戦では連合国側に立ち、戦勝国となると共に、益々軍備強化が図られることになり、陸軍は世界五大強国に数えられ、昭和時代になって、海軍は英・米・日が五、五、三の比率の軍縮条約案が示すように、世界の三大強国になったのでした。
昭和六年、満州事変勃発、翌昭和七年満州国成立宣言、昭和八年国際連盟の満州撤退決議案を、四十二対一で孤立して脱退。昭和十二年には支那事変が始まり、昭和十五年、日独伊三国同盟調印。昭和十六年四月、日ソ中立不可侵条約調印。同年十二月八日米英に対し宣戦布告、大東亜共栄圏平和確立のための聖戦となったのです。
緒戦は機先を制し優勢のうちに、戦線を大陸、太平洋全域に拡大していきましたし、戦果も目覚ましいものがありましたが、やがて、体勢を整えたアメリカは物量に物を言わせて反撃に転じ、昭和十七年六月ミッドウェー海戦で、我が軍は一挙に航空母艦四隻を失ったことが、戦局の致命的転機になり、以後太平洋戦線全域の各地で、玉砕、転進を余儀なくされ、制空権、制海権を失った我が方は、本土決戦を決意して、昭和十九年八月国民総武装が閣議決定となり、竹槍訓練を始めるという、破滅の道をたどったのです。
そもそも、太平洋戦争を考えると、無理なことが多かったようです。何といっても、戦略物資に圧倒的差のあった日本が、戦争に突入したのですから、長期戦になったのでは勝ち目がない筈で、このことは、軍部内でも特に海軍は世界の情勢に、精通していたらしく危惧を表明したとの話を、耳にしたこともありました。
開戦当時の噂さ話では、一番問題なのは石油であるが、国内の産出量は少なくても、我が権益下にある北樺太のオハ石油は年産五十万トン、ボルネオ島を制圧すれば、パレンバン製油所だけでも五十万トン、これを運ぶには、ゴム袋に詰めて海上に浮かべると、潮流に乗って本土に漂着するから、船がなくても、ゴムの原料と石油が、同時に確保出来るということでした。
今日、日本の年間石油総消費量を二億トンとすると、時代の相違があるにしても、百分の一にしか当らないのですから、アメリカとは、とても比較にならないものだったのです。
鉄鋼生産をみても、満州事変当時の年産四百万トンは、現在の二億トンに比べると五十分の一程度のものですから、開戦に当っては、予め相当量の備蓄があったとしても、劣勢下の戦法としての、竹槍戦法は論外として、対戦車には火炎ビン戦法、一機一艦の神風特攻隊(飛行機二千三百機、特攻隊員二千五百人以上が玉砕した)をもってしても、アメリカの桁外れの膨大な物量作戦の前には、とても対抗し得ぬまま、しかも最終的には、人類初の原子爆弾の洗礼が、止めとなって屈服したのでした。
戦中派の国民には軽重の差こそあれ、すべての人に戦争責任があったと、言わなければならないと思います。十五年間に亘る戦争は、近代戦、総力戦と言われるものですが、動員された兵員だけでも、昭和二十年には八百二十六万人に達し、物的損害を別にしても、何物にもかけがえのない二百二十万人の人命を犠牲にしたという、悲惨な結末を認識しなければなりません。
ここで、よく考えてみると、誠に不可解なことがあることに気付きます。
どこの国家社会にあっても、一人の人間を殺したら裁かれて死刑が宣告される、それは人命の尊厳の故であり、しかも、罪を憎んでも人は憎まずと、死刑の執行が猶予されることが多いのが実状です。
また、捕鯨禁止にみられる自然保護運動は、動物といえども、無為にその命を絶つことを戒め、人類との共存を主張しています。
しかるに、戦争は何百万人の大量殺人が行われても、罪の意識が働かない。それどころか、国家には交戦権があるということで、国際間の紛争を解決する手段として、正義の戦だ、聖戦だ、平和のための戦だと理由づけして、開戦に突入し、勝敗の決がつくと勝者は戦争の正当性を誇示し、敗者は戦争犯罪として勝者によって裁かれるのです。
世界中の人達が、個人としては例外なく、戦争を嫌い平和を希っているのに、それが国家となると、ほとんどの国が、表て向きは必ずと言っていい程、平和を標榜しながら、実際には国民生活を圧迫しても、軍備競争に熱心なのが、実状ではないでしようか。
地球上の、五十億の人間を数回皆殺しにするだけの、原子力兵器が蓄積されていて、その優位保持が戦争を回避し、平和への条件であるといわれて来ましたが、今や、核兵器は超大国の独占ではなくなりました。地球人類の自殺行為に等しい核戦争への突入の鍵は、超大国以外の国が持つ可能性がないとも限りません。
戦争という非人道な大罪恵も、平和共存への道もともに人間の作り出すもので、単なる願望や、スローガンでは、平和は訪れるものではありません。
世界中の国々は、地勢、気候など異なる立地条件の下に、人種・人口・食糧・天然資源も多種多様、加えて、言語・思想・宗教・習俗・文化・経済・改治体制の異なる中で、平和共存の道を探究するのはなかなか容易ではないでありましょう。
なかでも、近代科学文明にとって、大きな役割を果している石油資源が、あまりに、特定地域に偏在し、かつ、将来の供給にも不安があることが、世界秩序の不安材料の根底にあります。
それにつけても、最近主要エネルギー源になりつつある、原子力発電は、惜しいかな原爆と同質で、人類にとって危険極りないものであり、しかも、その資源も有限。これを、人類科学による最終のエネルギーといわれる、核融合エネルギーの利用(原料が無限に等しい水であり、かつ無公害)が、実現すれば、資源問題もその大半が解決されるでありましよう。
地球の誕生から四十六億年、人類発生から二百万年、創造の神から与えられた環境の中で、人間はその持つ知恵と努力によって、近代文明を築き上げたのは、僅僅一世紀に過ぎないといっても過言ではありません。
私達人間は、造化の神と祖先の努力によって築き上げた、文化遺産の恩恵に感謝するとともに、これを、現在に生きる全人類の責任において、子孫に伝える義務があります。
国際間の平和の道は、人類愛を基調とし、他国の異質な立場も相互に理解し、大国はエゴを自制し、協調の精神で信頼関係を築くことが、大切だとされていますが、今の国際環境はどうみても、陰湿で、満足出来るものではありません。
人類社会の進歩発展のためには、自由競争の原理までも否定出来ませんが、危機線上にある国際情勢の現状を脱するには、超国家、全人類の立場で、世界平和の基礎理念について論議し、国際紛争の処理に当る機関が出来ないものでしょうか。その提唱者として最適任なのは日本のように思われますが……。
一日も早く、大量殺人兵器拡大に狂奔して、地球の破滅を急ぐのを避け、先づ軍縮の方向、そして、真に万物の霊長としての人類が、その知恵によって平和な繁栄を享受したいと、念願するものであります。
(昭和六十一年稿)

機関誌 郷土をさぐる(第7号)
1988年10月25日印刷 1988年10月30日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一