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私の歩んだみち その1

村上 寛次 明治三十年五月三十日生(九十二歳)



昭和六十三年六月十一日、新装の社会教育センターで、上富良野町開基九十年記念式典が盛大に挙行された。
私は、長寿と在町五十年以上ということで、受賞の栄誉を授けられたが、くしくもこの町の開基と同じ年齢である。
十六歳のとき、両親と姉、弟妹四人と八人の家族を挙げて北海道へ渡ったが、そのときは、現在と比較して、南米かアフリカへ移住するような思いであった。


少年の頃
明治三十年五月三十日、村上幸次、ヒデノの長男として、徳島県那賀郡富岡町大字七見村で生れた。富岡町はいま阿南市となっている。
家は代々小さな農業をしていたが、父が十四歳のとき祖父を亡くし、続いて祖母も亡くなったので、大字黒土いまは黒津地と言う小さな集落に移転して乾(いぬい)と言う床屋を開業した。父は器用な人で独力で床屋をおぼえた様である。七見村にいたとき、同族も含めて村上姓が多く、村の北西に住んでいたのでその方位が乾のため「いぬいの村上」と呼ばれていた。床屋の家号を「乾」とした由来である。封建的な当時として先祖から引継いだ田畑を処分し、転業することは容易なことでなかったようである。
床屋だけでは収入も少ないので、母は少しの借地で野菜をつくり、日雇に出て次々と生れる子供のために、せい一ぱい働いたと聞かされた。私の上に姉がいた。また下に妹と弟がいたがどちらも幼児のとき亡くなった。私も余り丈夫でなかったので母には大変迷惑をかけた。祈祷師に行ったり、人から聞いては煎薬をつくって与えられた。子供心にも神様の御護符を飲んだときや、にがい煎薬を飲んだときは良く効く様に思ったものである。幼な児を二人続けて亡くした母は私を心配して、「こんな弱い子は学校へやらんでもいい」と言ってこぼしたが、才路見の小学校へ入れてくれた。小学校は義務教育が四年であったが、子守や奉公に出て学校に上らない子供が沢山いた時代である。
棒縞の木綿の着物に藁草履、学用道具を風呂敷に包んで背負うのが児童の姿であった。
三ツ違いの姉は、早くから徳島の紡績工場に出ていた。亡くなった弟妹の下には、六ツ違いの妹と八ツ違いの弟国二が生れていた。私は一、二年生は欠席の多い児童であった。三年生から丈夫になり学校は休まないで通った。
日露戦争(明治三十七、八年)の真最中で、激戦の様子を先生から聞き、大きな国を相手に大変な戦争をしているものだと思った。勝ったときは旗行列に出た。
尋常四年で卒業証書をもらい高等科へ行くことになった。高等科は半里(二q)程離れた富岡のまちにある。当時は義務教育で終るものが多く、才路見からは何人も行かない。女は誰も行かなかった。
私の家の近くに徳島で二番目に大きい那賀川がある。子供達はよく魚釣や海老すくいをした。鮎が溯上する。家で食いきれない程とって帰ったこともある。海に近いので舟つき場があり、荷物を大阪へ運ぶ舟が行き来していた。のどかな田舎まちの子供の頃を今でも懐かしく思い出すが、機会がなくて一度も故郷へ帰らないでしまった。
高等一年の終業式の前日のことである。外は雨降りだったので式の準備が出来ている屋内で、友達とふざけて相撲をとり、教壇の机に花を生けてある花瓶を落してこわしてしまった。この花瓶は式のときだけ使われる学校の大切なものである。気が転倒する思いであった。学校の躾はきびしいので、どのような厳罰が科せられるかと思うと、家に逃げ帰ってしまった。それっきり学校へは行かない。
木炭屋と飾屋
時々桟橋に遊びに行く。荷物の積み降ろしや人の動きを見ているのが好きだった。顔見知りの船頭さんから大阪へ行って働かないかと誘われた。何処かへ行きたいと思っていたときなので、両親に相談したら、よいということになって、船頭さんに色々とたのんでくれた。十四歳の春である。大阪西区の茨住吉(いばらすみよし)神社の近くに木炭屋の店があった。丁稚(商家に年季奉公をする幼年者)である。四国の田舎から大都会に出て来て、見るもの聞くものが全て珍らしかった。
初めは大阪弁が解らず、都会に馴れるのにしばらくかかった。掃除と木炭の配達が主な仕事で、朝から晩迄木炭運びである。当時この辺ではどこの家でも煮炊は木炭で、生活には欠かせない必需品である。
木炭はかやの俵に四貫匁(十五s)入っている。自転車もリヤカーもない時代なので、荷車で曳いて行く。木炭屋夫婦は良い人であった。小さな女の子が二人いたが私を家族と同じように扱ってくれた。
半年程過ぎた或日、長吉さんといって私の知らない人が尋ねて来た。同郷だと言う。話は飾職人にならないかとのことである。その後、再三立寄っては奨められた。私は決心しかねていたが、長やん(四国では「さん」という呼方を「やん」という)は店の主人と会って、了解を取付けてくれた。長やんは二十二、三歳の飾職人であった。
金・銀細工をする店を大阪では「飾屋さん」と呼んでいた。
私は十四歳の秋、飾屋に弟子入りすることにした。南区安堂寺町三丁目、中田という店で「金銀細工」と書いた木の看板が下がっていた。木炭屋では真黒になって働いていたが、飾屋は貴金属の大店か金持が得意先なので、小ざっばりとした着物を与えられた。木炭屋とは雲泥の差である。長やんは弟子入りしたことをとても喜んでくれた。
年号も明治から大正にかわり、世の中は平和に見えた。西洋の流行もどんどん入って来た。当時の女は、小粋な日本髪に、金か銀の平打の簪(かんざし)を差すのがはやっていたし、名士や金持は金側の懐中時計に金鎖をチョッキの前ポケットに振分けて飾ったり、金の太い指輪をして、殊更に誇張した時代である。この様な高価な飾ものは庶民には高嶺の花であり、縁の遠いもののように思われていた。
親方と長やんの細工は見事なもので、注文も多かった。出来上った品物を先方へ届けに行くときは、常に緊張したものである。
私の仕事は掃除、≠モいごの火入れ、火起しと遣い走りであった。炉に火を入れて、三十分位ふいごを押すと赤い火がみかん色に変ってくる。金塊を耐火練瓦の小さな容器に入れて温度を上げ、溶けたところで流し込む。熟練している親方は、寸分違わず型からはみ出すことはない。彫金の部屋は別棟になっていて、厳重な戸締が出来るようになっていた。
地金屋に金塊を買いに行かされた。余り大きなものでなかったが、ずっしりした重味が、今でも感触として残っている。
飾職人は高尚で良い職業と思い、彫金の技術を覚えて早く長やんのように、一人前になることを夢見て励んだ。
職人の休みは一日・十五日と月二回あった。活動を見て、うどん一杯食べるとなくなるような小遣いしかもらえなかったが、つらいとか、苦しいとは思わなかった。
弟子入りして一年はまたたく間に過ぎた。仕事も少しずつ覚えてきて、これからという十六歳の春、突然、一家は北海道へ渡るからすぐ帰る様にと連絡が来た。大阪へ出てから一度も家に帰っていないので様子は解らない。北海道へ渡る不安と、大阪を去り難い思いが交錯して眠れない一夜であった。
北海道への移住
徳島の家へ帰ると、姉も帰って来ており、出発準備が出来ていた。大正二年二月上旬のことである。
一家は北海道に向って出発した。船で神戸に渡り汽車に乗り継ぐ。汽車は北へ北へと走り、連絡船で函館へ上ったときは、真白な雪景色と寒さに驚いた。
徳島は梅が咲く季節である。汽車が進むにつれて冬枯の灰色な景色と、窓は凍って氷が付きだるま<Xトーブは赤々と燃えていたが車内は寒い。奥地へ奥地へと引き込まれて行くような暗い気持と、余りにも遠い所へ来てしまったと、複雑な印象の残る旅であった。
中富良野駅へ着いたとき、これから行く田中農場より迎えが来ていた。農場主の田中亀八さんは、父と同郷の徳島県那賀郡富岡村大字西路見村出身で、初めに弟の米八さんが明治三十年五月に此処に開拓の鍬をおろし、数年後に亀八さん一家が移住して農場を開設した先駆者で、村会議員、農会長をはじめ沢山の公職を勤めた村の名士である。
迎えの馬橇に乗って、深い雪道を分けながら、徳島より先に入地していた東五線北十五号村上和裁さんの家にお世話になった。暮れるに早い冬の寒い夕方であった。
一ヶ月程して、東五線北十六号の小作人の出たあとの家へ移った。三間に五間の家で、一棟の中に馬小屋が付いていた。ストーブはまだない時代で囲炉裏である。薪は近くに官有の風防林があって、立木で払下を受けた。大工鋸で丸太を切りに行ったが木が太くてとても切れない。国からはこの鋸しか持って来なかった。近所の人に大笑された。薪は人に額んで造ってもらった。手間賃は五尺高さに六尺巾を一敷といったが、一敷いくらということで支払った。
後日近所の人が見て「村上さん、この薪は一敷の七分目位しかないよ」といって教えてくれた。なるほど薪の角と角を重ねて積んであり、空洞だらけである。だまされたと思うと腹が立った。食うか食われるかという世の中の厳しさを知った。
小作地は畑五町歩、離れた所に田一町歩を借りた。
種子は地主が準備してくれたが、馬がいないので隣の人に耕してもらった。姉も私も初めての農業である。母は徳島で経験があったので助かった。しろかきのあと籾を少しずつ手で蒔いて行く。畑は燕麦、小麦、裸麦、豌豆、いも等が主で、自家食用にいなきびとそばを蒔いた。すべて手作業である。
大正二年は大凶作の年で、夏は寒く稲は皆無であった。此の地へ来たばかりのわが家は、途方に暮れてしまった。
冬に救済事業が始まった。姉と二人で出ることにして、風防林から木を切って手橇を二台つくった。
石油函(石油缶二ヶを入れる函)を四個用意する。姉も私も藁のつまご≠履き、十四号道路の砂利運搬である。一日三十銭ぐらいと思う賃金が、わが家の貴重な現金収入であった。
小作農から自作農へ
大正三年八月、欧州で戦乱が起きた。英・仏・露の連合国と独・墺同盟国の間である。ラジオもなく新聞も特殊な人しか読んでいない時代であるが、情報は人づてに入って来た。戦争が拡大するのにつれて各国が巻き込まれて行き、世界大戦になった。
田中農場は早く拓けた処で、土地が良く作物は良くとれた。馬を買った。どさんこ≠ナ小さかったが正直で良く働くので、開墾や運搬がはかどり、大いに助かったし賃耕にも出掛けられた。
十八歳の冬に、この馬で丸太運搬に行くことになった。隣家で徳島から入植していた松田筆三郎さんとである。松田さんは三十歳前後だったと思う。
風防林から払下していた一番大きな楢の木を切って来て何日もかかってたま≠造った。巾は一尺五寸位だった。会田造材の山土場はヌノッペの奥で富良野岳の裏側である。中富良野駅から貨車積みするので片道は五里(二十q)はある。家に時計のない時代だったから、鶏の鳴声で起き暗いうちに出掛ける。
松田さんと私は馬が小さかったので、尺丸(経三十p)以下を運ぶことになった。えぞ松の三尺かみのもあったが強い馬の人だけが運んだ。運搬賃は石数(容積)で計算される。良い馬を持っていると普通の人の三倍位の賃金になる。(たまにかんざしを付けたり、バチになったのはずっと後のこと)
吹雪の日や、道路が高くなり、たまが横にすべって側溝に落ちることもあり、この様なときはみんな手伝って引上げた。馬が何頭も連らなって運ぶので、一頭が道を塞ぐと後続の馬は待つようになり、それだけ遅れるので、たま曳は連帯責任のようなものである。何かで遅れ真夜中に帰ったことも再三あった。馬のがら≠ノ鈴を付けており、遠くからでもその昔で誰かを判断出来る。遅く帰ったときは支度を解かないでそのまま炉端で寝て翌朝早く出る。山へ着くのが遅れると良い丸太がなくなり、運搬が後列になると益益遅れてしまうので、朝の出掛けは皆競争であった。
父に「燕麦代(馬糧)にもならんでないか」といわれたが頑張った。
小作人は地主に年貢を納める。水田は平年米は四俵位であった。豊作年でも五俵とることはむずかしい。水田の年貢は反当り米一俵であった。何とか自作農になり度い。これが小作農の悲願である。北海道に馴れるに従って作りも上手になり、収穫も思ったよりあがった。
欧州の大戦が長びき、日本も連合国側に加わって独乙に宣戦を布告し、青島や南洋諸島を占領した。
戦争のため世界中の物資が不足して農産物はどんどん上がった。
大正五年の春、村木農場(江花)に売地が出たので買求め自作農になった。西四線北二十号の村木さんの出た跡だった。湧水があり、北側の裏は高い山で南が開けて日あたりが良く面積は三戸(十五ha)で耕地が七町歩程あった。父は大変気に入った様である。姉は嫁に行き、末に弟秀雄が生れ、十九歳の私を頭に子供は六人おり、田中農場での少しの蓄えと、馬を持ってきたので、その年は小作料以上の収入があがって土地を買ったときの借金をある程度埋めることが出来たし、怪我がもとで大手術をした弟の足も良くなり、わが家は春の訪れを感じる良い年であった。
大正六年春徴兵検査で甲種合格になった。此処へ来て二年目になり、天候が良く作物も順調に育ったが、私が兵隊に行くと鍬頭がなくなってしまうのである。農家の男手がなくなることは二分〜三分の不作よりもひどい痛手である。妹は十四歳、国二はまだ十二歳で足が悪い。家のことが心配でならなかった。当時徴兵検査に合格しても籤逃(くじのがれ)といって兵役を免除される制度があったが、個人の意志で決める訳には行かないことである。
秋になって現役入営の通知が来た。母はこの窮状を手紙に書いて徳島の那賀郡長生村大字宮内村の実家に送った。当時本州の村々では人をたよって、北海道に渡り、開拓に従事したいと言う青年がいた。
幸いこの様な青年が見つかり、しかも同郷であり、実家がさがしてくれた人である。来年の開墾から手伝う事に決った。私は嬉しかった。何の心置きなく兵役に服することが出来るのである。後日妹婿になった勝頼本吉さんであった。
(次号へつづく)

機関誌 郷土をさぐる(第7号)
1988年10月25日印刷 1988年10月30日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一