郷土をさぐる会トップページ     第07号目次

名誉町民 山本逸太郎氏を偲ぶ

金子 全一 明治四十一年五月十一日生(七十九歳)

山本氏は明治三十二年札幌市に生れ、明治四十年父一郎氏につれられて当町に移住、大正七年旧制函館商業学校を卒業し、一年志願兵を終えて、自家の木材業に従事、初代一郎氏逝去後家業を継ぎ、昭和二十二年には株式会社山本木工場と法人に改組して代表取締役となった。更に昭和四十二年九月山部の東洋木材を買収、上富良野工場を廃止し、昭和四十三年本店も山部に移し、社名も山本木材株式会社と改め今日の盛大な事業の基礎を作った。
又戦前は運送業もしていたが、昭和十七年統制により、西神楽より新得まで、二十三駅が統合して、富良野通運株式会社となり、社長に選任された。戦後は廃止されたので、上富良野農協や上富農産、北日本木材等と上富良野通運株式会社を作ったが、昭和三十九年富良野と合併、富良野通運株式会社となり初代社長に選任された。後三島保蔵氏が社長になったこともあるが、現在康夫氏が亡父の跡を継いで社長をして居られる。
軍人としては、大正十二年少尉任官、除隊後は在郷軍人分会長として活躍された。昭和十一年陸軍大演習の際、中尉で札幌大本営に於いて、御前講演をされた。今と違って当時は側にもよれない雲上の人で、非常に感激して涙が止らなかったと話して居られた。
戦時中に応召、千島占守島に中隊長として派遣され、九死に一生を得て帰って来られた。
商工会については、我々商工業者として一番お付合いも深いのであるが、当地の商工会は、昭和九年初めて申し合せによる商工会ができ、初代会頭は御尊父の山本一郎氏、後吉田吉之輔氏、佐藤敬太郎氏に次いで山本逸太郎氏が会頭になられた。途中応召等で一時抜けたこともあるが、昭和三十五年商工会法が制定され、改めて初代会長に選任された。
後に商工会館建設に非常に情熱をそそがれた。今と違って補助金も少なく、会館のある所も少なかったので、わざわざ当麻や北見枝幸まで視察に行き、町から五百万円、道から三百万円の補助をもらい、残り四百万円余りを会員の寄附で苦心の末、昭和四十三年遂に完成した。商工会の仕事の上で良くなったのみでなく、当時は今と違い大きな会場もないので、結婚式や色々な催物、会合等に利用され非常に喜ばれた。会館ができてから度々辞意を希望されていたのを、皆で何度も留任をお願いしていた。併し、意志は固く、昭和四十四年の改選に長年の商工会長をやめることになった。
山本氏会頭の時代、昭和三十年自衛隊が駐屯したが、PXへの希望者が多かったので、それでは商業者の円満が希めないと、たまたま名寄で商業協同組合の形で独占的に入店し、大変成功しているので皆で視察に行き、当地もそれにしようと、広報課とも交渉してきめたのであった。併しいざ駐屯してみると、売店も旭川より沢山ついてきて、当組合のはいる余地がいくらもない。その上扱い商品も減らされる等、すったもんだの末一時は引き揚げようと言う所まできたが、それでは自衛隊の方も困るとのことで、最後は色々折り合いをして開店した。最初は炊事をする火を焚く所もなく、役員も大変苦労した。
此の時も初代理事長は山本氏になって頂いた。山本氏にとっては大変迷惑のことと思ったが無理にお願いした。後に名寄は手を拡げすぎて潰れてなくなったが、当町は皆の努力で立派に経営している。商業協同組合によるPXは他に例がないのでないかと思う。
魚菜市場の場合も山本氏は皆のお世話をしている。戦前魚屋さん達は入荷が円滑でないので、魚菜市場を、今の中町の阿部家具製作所の所に開設し、山本氏は頼まれて社長、故毛利勝太郎氏が場長で、せりをしていた。後昭和三十年富良野と合併、魚菜類の入荷も益々円滑になったが、昭和三十六年には取締役社長に就任した。その他社会のため人のためになることは嫌な顔もせず頼まれるままに良くつくした。
大正十年頃から奔茂尻(今の滝里)の空知川の水力発電所から電気を引いていたが、終戦後電力事情が悪く、特に動力を使う人は困っていたが、山本氏は皆の先になって何回も北電本社に通い、遂に努力が実って上川の石狩川より電力を引き、町に変電所もできて、昭和二十四年十二月完成、富良野沿線皆に喜ばれた。現在滝里に発電所はない。
終戦後は外地引揚者も多く、町は沈滞しきっていたが、山本氏は皆に推されるままに昭和二十一年大成木工製作所を作り、外地より引き揚げてきた故会田久左ヱ門氏を工場長にして、若い人も沢山入れて一時盛大に行われた。会田氏は技術屋でもあり、なかなか情熱の人で後に艱難辛苦の末、初めて十勝岳温泉を開発し、町に大きく功献し、自治功労者にもなった。終戦後物資不足で各家庭で綿羊を飼っていたが、これを集めて紡績会社を作ったら助かると皆に言われて動いたが、これは成功しなかった。併し旭川では旭川紡績株式会社ができ、今では本社も名古屋に移って成功しているから、発想は立派なものであったと思う。
今では水道も完備して水に不自由している人はいないが、此処は水が悪く皆不便をしていた。市街は泥炭地で、七〇米位で岩盤にぶつかる。これをつきやぶると、奇麗な水が吹き出るに違いないと故佐藤敬太郎氏等に推されて、昭和二十七年ボーリング会社を作り、二百ないし三百米位の深さで所どころにボーリングしたが、軟石の岩盤はいくら掘っても抜けず失敗した。其の時の工場長であった今の上富ボーリング会社の先代はそのまま引き継いで、現在も水道工事等をして仕事を続けている。
此の様に自社の仕事が発展するに従い、公職や役職のみでなく、色々な事を頼まれるようになった。
それも世のため人のためと、嫌な顔もせず良く引き受けた。そのために随分迷惑を蒙ったこともあったのでないかと思う。山本氏は町長になったこともなく、村会議員も昭和十五年より二十一年までで短い期間なのに名誉町民に推されたのは、私心のない、奉仕の精神、深い人望人徳の結果と思う。性格は内剛外柔、芯は強いが外目はおだやかで、皆に敬愛された。非常に健康で洒を愛し、晩酌はガラスのとっくりとガラスの盃にきまっていた。思うにガラスを通して、お酒の色をながめながら晩酌を楽しんでいたのだと思う。仕事や役職上宴会に出ることも多かったが、場合によっては夜通しでも付合う程洒も強かったし、興がのると都々逸を歌った。此のように皆に慕われながら、遂に病魔の侵す所となり、昭和五十一年七月十一日満七十七歳を以て此の世を去られた。子供は一男四女にめぐまれ、長男健一氏は北海道大学医学部教授細菌研究所長だが今年停年で名誉教授。事業は二女の御主人康夫氏が引き継いで益益繁栄しているのは皆の御存じの通りである。
受賞の主なものをあげると、昭和三十八年紺綬褒章、昭和四十五年自治功労表彰、昭和四十六年名誉町民顕彰、同年勲五等瑞宝章等である。又色々の役職のことも書いたが更にその他の主なものを列挙すると、昭和二十三年上富良野町消防後援会長、同二十九年上富良野町法人会長、同三十年富良野信用金庫監事、同三十四年上川商工会連合会副支部長、同三十一年北海道通運株式会社監査役、同年富良野地方木材協会会長、同三十二年旭川地方木材協会副会長、同三十五年北海道木材協会理事、同三十一年上富良野教育委員長、その他上富良野町社会教育委員、都市計画委員、人権擁護委員等多数ある。

機関誌 郷土をさぐる(第7号)
1988年10月25日印刷 1988年10月30日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一