吹上温泉往来

六平 健 大正六年五月二十四日生(七十歳)

生い立ち
私の父健三は、上富良野村本間牧場で乳牛飼育の指導のため畜産技術員として勤務していた従兄弟の六平忠男氏を頼り、大正四年春秋田県由利郡院内村小国八番地より母を伴い渡道しました。従兄弟の元で農作業を手伝い、大正五年、六年の二ケ年は富原の本間牧場、現在の大場惣七氏の住居している処で農業を営んでいました。
私は大正六年五月二十四日健三の長男として富原で生れました。幼児期、小学校時代をそこで過し昭和四年小学校六年生の時市街地に転居、現在の錦町銀座通りの一角で父は家畜商を営む傍ら農業を営んでいました。私は父の元で家事を手伝いながら成長し、昭和六年上富良野尋常高等小学校を卒業後も引続き家事の手伝いをしていました。乳牛も飼育していたので搾乳部門を担当する傍ら、昭和十年頃からは広い畜舎を利用して軍用候補馬の育成を始め、常時五、六頭を飼育育成、調教に励んでおりました。
客馬橇でスキー客の輸送
大正十五年五月二十四日十勝岳の爆発が起こり、前十勝の樹林地帯は泥流に依って根こそぎ流されましたが、その跡が格好のスキー場となりました。世界の有名なスキーの権威者等が続々と来山し、ここを滑った方々に依り雪質の良さが宣伝され、スキー客も年々増加しました。
十勝岳には吹上温泉旅館が飛沢辰巳氏により経営されていました。私が始めて客馬橇でスキー客を輸送したのは、小学校を卒業したばかりの昭和四年三月のことでした。佐藤芳太郎さんの依頼で、佐々木源之助さんの馬と隊伍を組んで連れていって貰ったのでした。
最初の頃は佐藤芳太郎さんからの依頼で二、三台のことがほとんどでしたが、客の多い時は五頭、七頭と依頼されることもありました。この場合には自己保有馬だけでは間に合わず、予め農家の方と契約を結び、必要の都度連絡して出て貰っていました。
その後、佐藤さんからこの事業を引受けないかと言う話が寄せられ、父はどうせ引受けるなら許可をとってやれと言い、乗合馬橇の運行許可を北海道庁から受け、私が輸送の責任を持つ様になりました。
輸送区間は片道一八粁で、地形・道路の状況は天候によって大きく左右されました。市街地の標高は二百米余りで終点の吹上温泉の場所が千百米の位置ですので、およそ千米の標高差があります。好天の日は美しい山を眺めながらの輸送なので楽しく従事したものですが、一度荒天になり、大雪・吹雪になったりすると、見通しのきかない道をただひたすら目標物を求めて進むこともたびたびでした。
普通一台の馬橇には大人が三人乗ったのですが、道は坂道を登ることになり、その上天候が荒れたときには馬の動物としてのカンに頼る割合も高くなって、汗びっしょりになって黙々と馬橇を引く姿に愛着が増したものでした。
忘れられない思い出は、まだ若い三歳の馬に他の馬と同じ人員を乗せて大雪の悪路の中を目的地まで送った時に、その馬が疲労甚しく動けなくなり吉永唯幸さんの馬橇にのせ山の麓の中茶屋迄運んだ事です。
あの頃は大雪の時には馬橇道をあけるのに、丸太で橇の様なものを作り、除雪兼踏み固めのため先にこれを引き、その後に馬橇を通したものです。
馬の明け三歳とは、一般農家でもその年始め、農作業を教え農耕に使用するので、一人前の成馬扱いは出来ず、子供として労って使役する年代です。
昭和十二年七月七日の支那事変勃発後旧軍の要望に依り年間の軍馬購買回数も増え、購買頭数も増加し馬の飼育は益々忙しくなって参りましたが、馬の育成と客馬橇の輸送業務は両立出来るので忙しいが楽しい日常でした。
著名スキー客の思い出
昭和四年、スキーの巨人ハンネス・シュナイダー(オーストラリアのサンアントスキー学校初代校長)が十勝岳を滑り、これがきっかけとなりスキーの十勝岳が広く世に知られるようになりました。その頃北大スキー部が十二月十日から十二月二十八日まで吹上温泉を会場とする合宿訓練をするようになりました。戦時体制の中を含めて毎年定期的に実施され、昭和十五、十六年頃迄続いたと記憶しています。
この時代には、一般の人はスキーは山岳に使用するものとは思っていませんでしたが、ヘルセット中尉が旭川鉄道局・第七師団の軍人を連れてきて、十勝岳の吹上温泉で十日間のスキー講習会が催されてからは、村民の山岳スキーに対する関心もたかまった様です。
山が有名になるにつれてスキー客も年々増加し、私共の仕事も繁昌しました。一般の人の休む時に働かなければならない日も続きましたが、自分の仕事を通じ上富良野の観光開発の一翼を担っていると言う誇りを以って、お客さんの気持になって勤めました。
有名人が大勢来山されるようになり、この中から印象に残っていることについて二、三記述します。
北海道庁長官佐上信一閣下は吉田村長の要請で来られた様ですが、十勝岳が大いに気に入られ、これがきっかけとなって北海道庁の手で白銀荘が建設されました。続いて村では勝岳荘を建設し、この二つが姉妹ヒュッテとしてスキーヤーの宿泊施設に長く利用されました。
朝鮮李王宮殿下が馬橇に乗られた折、一本松の処を通過するとき此の木は何と言う木かと尋ねられ、私はオンコと言いますと答えると、水松と書くんですねと言われた事を記憶しています。
(注)一本松は道々吹上線の旭野部落の入口上川隆氏の南側地先に、開拓以来から存置されていた大木で、直径二米位もあり、十勝岳登山者、部落の人々から一本松と呼ばれ親しまれていた名木でしたが、昭和三十年頃枯れて今は思い出の木となっています。
北大の中谷宇吉郎博士は、雪の結晶の研究で世界的にも著名な方ですが、時々来られていました。ある時途中の雪の状態、気温等を観測しながら白銀荘へ馬橇を進めていたのですが、今日は良い写真が撮れると大喜びされ、途中、観測と併せて馬橇の上で顕微鏡やカメラの準備を進め、白銀荘に着くや否や一休みもせず深夜に及ぶ観測に取りかかりました。先生の仕事へのご熱意は今も記憶に新しいものです。
東本願寺の聡子裏方がお出になった時は雪が深い日で、馬橇から吹上温泉旅館まで負んぶしてお届けした事も印象深い事柄でした。
昭和十三年三月一日現役兵として満州独立守備隊に入営、昭和十五年八月三十一日現役満期で除隊しました。昭和十八年五月十六日臨時召集を受け熊九O二三部隊(旭川二十六連隊)に入隊、昭和二十年八月十五日の終戦に伴い九月十日召集が解除され帰郷し、再び家業に就きました。
終戦後の昭和二十二年から種牡馬の育成を始め、農家の繁殖牝馬に供用していました。これを冬期間客馬橇用に使いました処、もともと重半血種で歩様がよく持久力のある馬でした。温泉往復の上中茶屋迄十粁の道を加え四十六粁の行程を走破してくれ頼もしい馬でした。
今街頭に立って眺めると、大雪の日でも雪が止むと直ぐ排雪車が出動、国・道・町が各路線を夫々の分担に依り僅かの時間内に奇麗に除雪され、部落の奥地迄乗用車が往復し、その中にはハンガーにスキーを積載し、カラフルな服装をしている姿を眺める時、全く今昔の感に堪えません。

機関誌 郷土をさぐる(第6号)
1987年8月15日印刷  1987年8月20日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一