郷土をさぐる会トップページ     第06号目次

私の思い出〜里仁沼崎

長谷川 八重治 明治三十六年七月十日生(八十三歳)

私は大正三年四月、十二歳の時親に連れられて、沼崎農場に入植しました。私の入植当時は、阿波団体が五、六戸、豊里団体には十戸余りありましたが、津郷農場には記憶がはっきりせず、何戸位入植していたか分りません。

沼崎農場

沼崎農場には、私の家族を含めて二十五戸入植しました。
沼崎農場は、元はマルハチ牧場で、沼崎重平さんが美瑛に住む牧場主田中亀夫さんから買い上げて、小作を入れたものです。当時、沼崎さんは美瑛村で病院を開業されて居りました。
入植の初期は、農場一帯は一面の熊笹に被われ、立木が繁り、根木が散乱して居り手のつけようもない状態でした。
開墾には、根を切り掘り上げて所々に積み重ね、乾燥するのを待って火をつけて焼いて処分しました。木の株間を一鍬一鍬耕していなきびや馬鈴薯を作り、僅かな食糧を収穫するのが精一杯で、冬には各戸共炭焼窯を造って炭を焼き、その販売代金を頼りにして日用品や食糧を買い求める状態でした。
何年か苦労して漸く立派な畑に築き上げたのですが、それ迄には気力も財力も尽き果てたようで、ほとんどが離農してしまい、その後に入地した者が現在まで残っているのです。
十勝岳爆発
大正十五年五月二十四日午後四時三十分に十勝岳が大爆発を起こし、日新、草分の両部落が壊滅的な泥流の被害を受け、上富良野、美瑛合わせて百四十四名の尊い命が失われたのです。
あの広い草分部落が一面の泥海と化し、又根こそぎにされた流木で見る影も無く無残な現場に、苦労の末田畑を拓いた人々の悲嘆が推し量られました。
一週間余り毎日毎日、町民が一体となり総動員で行方不明者や遺体探しに出たものです。この間、他町村からも大勢の方々が応援に来ていました。
鉄道より東側には一軒の家も残らず流失しておりました。詳細については、草分部落の方等から記録が出されている事と思いますので、そちらの方をご覧下さい。
美馬牛駅
美馬牛駅が出来たのは、大正十五年九月五日で、盛大な開駅の催しが行われました。美馬牛の駅名は沼崎先生が付けたものです。
沼崎地区から美瑛の町に出るには、この鉄道の他に旧国道を利用するしかなく、又ここを通る場合には両側に一面の草木が生い茂る中を進まなければならず、時には熊に出合う事もありました。
当時既に出来ていた新国道も、曲り曲りの悪路で、この道が改良されたのは昭和五、六年頃になってからと記憶しています。
現在の農協の菅野組合長宅の一寸美瑛寄りに小さな橋がありましたが、橋のたもとに一本の水松が青青と茂っていることから、水松橋と名付けられていたのを思い出します。
戦時体制の中で
昭和十二年七月七日支那事変が起き、更に昭和十六年十二月八日大東亜戦争が始まりましたが、最初の内は対岸の火事の様な気持で、人心は安定しておりいたってのんびりしたものでした。
しかし、戦争が次第に激しくなるにつれ、国民一丸となっての耐乏の戦いへと移って行きました。
沼崎でも、入植当時には立木や根木の処理に苦労する状態にあったのが、十年余りで早くも燃料が欠乏するようになっていました。
この窮状に対応する為、旧陸軍用地の薪の払い下げを申請することになり、以後私が責任者として永い間薪の払い下げのお世話をするようになりました。
戦時体制が長期化するに従って、生活物資は統制され、日用品更には食糧迄が配給制になって行きました。
軍用馬匹の徴発も農耕用の馬にまで及び、各戸では朝早くから馬の手入れに予念がなく、又軍用保護馬に指定されると馴致にも手間がかかったものでした。
農作物の生産も割当制とされ、私も毎年のように農事組合長又食糧管理委員の役を仰せつかったこともあって、農作物の収穫数量を各戸毎、作物毎に調査して廻りました。
その調査結果を基礎として生産割当がなされたので、責任は重大でした。
戦局悪化、終戦へ
昭和十九年の五月には、里仁小学校の生徒を避難させる防空壕並びにたこ壷を掘って、有事の際の生徒の安全を図りました。
又、東京からの疎開家族が町に三十戸余り割当てされ、当部落でも三戸を引き受け、沼崎、共進、豊郷組に各一戸づつ割り振りしました。各組では材料を持ち寄って、疎開小屋を建てて入居させました。
その頃、月に一回は必ず町で区長会議が開かれ、それに伴って部落では組合長会議、そして各組では総会を持って配給物資の分配などをしました。糸一本一本までを数えて、できるだけ公平になるよう配慮したものです。
戦局が拡大するに従って、農家の大切な働き手である若者が次々と召集されて行き、場合によっては一家族から二名も出ることがありました。
本土の至る所で空襲の被害が出る様になり、北海道も例外ではなく、工場や港を抱える地域では頻繁に敵機が飛来して来ました。
上富良野付近には空襲の対象となるものはなかったのですが、威嚇の為でしょうか、戦闘機による機銃掃射されました。
ことに旭川方面では空襲が多かったとみえて、しばしば早朝から高射砲の音が聞こえていました。
七月になると我部落にも敵機が襲来し、この時に美瑛小学校が機銃の掃射を受けて、女教員の方が亡くなられています。
戦況は益々悪化していき、八月六日広島に、八月九日には長崎に夫々新型爆弾(原子爆弾)が投下され、日本国土と国民は満身創痍の状態で、昭和二十年八月十五日正午の終戦を迎えたのです。
戦後の混乱
八月の末頃と思いますが、進駐軍の接収(差し押え)を免がれるため、丸通倉庫に保管されていた軍用物資の疎開作業が行われました。
夜中の十二時に部落全戸が馬車で上富丸通倉庫迄受け取りに行き、その場で各組に割当て、この割り当てられた物は各組で責任を持って持ち帰り、組内の各家庭で保管するというものでした。
ほとぼりも冷めた十一月になって、疎開物資の集荷をすることになり、再び元の上富丸通倉庫に集められました。しかし、中には缶詰を食べてしまって代りに落葉松の幹を輪切りにして詰めた物や、コウリャンを鶏に食べさせてしまってその空袋だけを持ってきた者など様々で、物の無い時期とはいえ、あきれ果てたものでした。その時、私は責任ある立場にありましたので、この収拾には大変苦労させられたことを記憶しています。
昭和二十二年二月二十八日に預金全額が封鎖されることになり、物価が上がっていてお金の価値は低くなってはいましたが、苦しい生活の中から貯蓄を心がけている方々には、どういうことになるのだろうかと不安はつのるばかりでした。
当時は物がない時期でしたが、特に冬場の暖房や炊事用の薪が不足しておりました。この解消のため美瑛二股の坂にある美瑛町森林組合所有林の立木を十五、六町歩も有ろうかと思いますが、部落の方々にお世話して、封鎖前の金で買い求めました。時期が時期だけに、大変喜ばれました。
この木を二年がかりで切り出し、暫くの間は燃料に不自由することはありませんでした。
里仁小学校二宮尊徳像
以前は、各学校には必ず御真影奉置所(又は安置所、泰安殿等)があり、天皇の御真影や教育勅語などが納められていましたが、昭和二十一年進駐軍マッカーサー司令の命令により、全国一斉に撤去することになりました。
この跡に、二宮尊徳先生の像を建立してはどうかとの話が持ち上がり、部落の方々に御相談しました所、全員の賛成が得られましたので、田浦金七さんと私の二人で旭川の松友石工に対し、早速注文をして建立の運びとなりました。
現在は、里仁のコミュニティ広場整備と西十一線道路改修工事の為、部落の人の手によって元の位置から少し移動され、里仁寿の家の横に安置されております。
里仁老人会
私は、現在里仁老人会に入っています。会員は四十名余りもいるのですが、毎月十日の例会には十二、三名ばかりが集るのみです。私が入った頃には、他にあまり楽しみがなかったのでしょうか、この月に一度の例会には大勢が集まり、演芸などをして過ごしたものです。
私が会長をしている時、昭和五十六年八月に東中の上村重雄さんに『豊生老人小唄』を作っていただきました。泉隆春さんに浄書していただいたものが、里仁豊里の家の壁に貼られており、例会の折にはこれを全員で合唱しております。
様々なことがありましたが、思いつくままの拙文に、昔の出来事を記してみた次第です。

機関誌 郷土をさぐる(第6号)
1987年8月15日印刷  1987年8月20日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一