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樺太引揚げの激動のなかから

数山 勇 大正十年一月八日生(六十五歳)

私は昭和十六年十二月八日、大東亜戦争の勃発とともに樺太(今のソ連領)の大泊港を基地として終戦まで、北方海域の警備の任に(満四年)ついたのである。
日本に只一隻の砕氷艦大泊は大正十年十一月川崎造船所にて造られ、千八百トン、乗組員は士官十五名、通訳一名、兵員二百名余りであった。
警備の任務についていた十八年の春迄は平常の任務であった。しかし春まだ氷も解けきらぬ五月二十九日、アッツ島の山崎部隊の玉砕以来(約二千六百四十人が戦死。太平洋戦争で最初の玉砕の島。山崎大佐たちが最後の突撃を行った虎山に慰霊碑建立の考えがある)重要な北方の守りとなった。
五艦隊はカダルカナル支援に巡洋艦多摩を旗艦として南下したのであった。その頃より戦火は次第に厳しくなり、我が海域にも潜水艦の出没がめだち、千島の船団の護衛砕氷と警備に昼夜の別ない出動であった。その当時まで二隻で警備していた特設砲艦千歳丸も青森方面に、又連絡船の亜庭丸も青森へと行き軍艦と名のつく船は我が大泊一隻となったのである。このほかには連絡船の宗谷丸三千五百トン(終戦後は南極大陸の昭和基地へ出向く砕氷整備の船となった)一隻となった。北方の樺太、千島、北海道方面の船舶は皆無に近かったのであった。
日々に船舶不足の度合は悪化するばかりであり、この頃千島キスカ方面の撤退引揚げが行われていたのである。二十年の春頃より樺太の島民の中に「日本危うし」の声が高まりつつあり、遂に八月十五日終戦を迎えて同時に島民の婦女子引揚げが開始されたのである。
一週間後ソ連軍の真岡上陸―さながら生地獄、真岡の悲劇―真岡町民のただただ右往左往の姿が今もなお目に映るものがある。島民の引揚げ中に小笠丸、泰東丸、新興丸の三隻が潜水艦の魚雷を受け、今まだ留萌〜増毛の沖に眠っているのである。北方艦隊の旗艦大泊は只一隻となって八月二十八日、横須賀田子の浦港に淋しく入港したのである。
樺太島民引揚げ
樺太島民の引揚げについて当時を偲びその様子をくわしく記述してみたい。
昭和二十年八月十五日終戦とともに樺太引揚げが始まるが、まず婦女子が優先され、毎日毎日桟橋駅には敷香方面の貨車を上下二段に棚造して運ばれてくる様は、誠に人間ではなくて動物扱であり、目玉だけが光っていたのであった。
そうした毎日が二十三日まで八日間も続いたのであるから、桟橋駅は何万人もの黒山の様子であり、一方引揚げ船は一日一回朝に出港し夕方稚内に着くと大急ぎで客を降ろし、トンボ返りで夜中に帰港、朝又八時に出港のピストン輸送だ。その為兵隊も大変疲労したのである。三食の食事も夜中にとるという状態であった。
引揚げの緊急輸送には大泊艦の外宗谷丸、小笠丸、海防艦などがあったが船不足で船倉もデッキも超満員、各船の定員オーバーは益々ひどくなり、樺太引揚港に急変した稚内港の混雑は想像を絶した。避難民は約十万人とも言われたのである。
大泊の港に艦船を横付けはしても客をすぐ乗船さすことが出来ない。便所がない為岸壁に用便をするのでそれを洗い流してから乗船しなければならないのである。悪臭と猛暑の中、それはそれは大変な状況であった。
ソ連艦隊が樺太へ向いつつあり、一方真岡にはソ連軍上陸の報に止むなく二十三日で引揚げはうち切られてしまい、島民は我が身の始末に迷ったのであった。
樺太婦女子最後の引揚げ
大泊の町より樺太桟橋駅までの約二キロ程の道のりは人人人の垣根で、歩くことすら容易ではない始末、何万の島民が一度に押し寄せたのであったから混雑そのものである。警察・消防の方々が整理にあたっており、橋のたもとにロープを張り、艦船入港の度に人員を数え送り出して乗せたのであった。
二十三日大泊港に入ると乗務員を前に「引揚げは本日で最後である」と艦長よりの言葉があり、「君達は永い間大泊の住民にお世話になったので、その方々に最後の御奉公として婦女子を特別に乗船させる。今日の出港は一時間遅れとするので至急町に出て迎えてこい」ということだった。
一同知り合いのある者は我れ先にと町へ走ったのであるが、永年住み慣れた我が家と懐しい故郷をすぐ様立ち去る事は後髪を引かれる思いでなかなか勇気のいることであり、まして父や息子は残されたのである。母親は背に子ども、手にも子どもと荷物、車の現代とは大きな違い様、私達も背に手に荷物を持ち二キロ程の道のりを暑さと汗にまみれて船の待つ桟橋へと走ったのであるが、人垣の中を思う様にならず歩く事さえ困難であった。乳呑み児を連れた母親は心配と疲労が重なり乳も出なくなり、誠に可哀そうな悲劇の八日間であったのだ。
小笠丸外二隻が潜水艦に撃沈される
二十四日稚内港を後に一路横須賀港へと我艦は南下することになった。今日は晴れ渡る北の海とも最後のお別れの日だ。昨日の樺太引揚者も全員下船させた。予定通り「錨を上げ」の艦板士官の号令、さようなら、さようなら帽子をふる。
静かな波をけたて、十六年以来五年間の北方警備の任が解けて真夏の太陽が輝く日本海を一路南下していたのであった。兵員も帰り仕度に多忙な時を過していた。
礼文利尻島を右に眺めながら通過、間もなく留萌沖に来た頃突如として二本の水柱が我が艦の横腹すれすれに通り過ぎたのである。その最中、十機編隊の戦闘機による機銃掃射の追い打ちをかけられたのであるが、引揚者の客は一人も残さず椎内に下船していたので、兵員一名の負傷で難をのがれたのであった。
その折、小笠丸が満員の客を小樽港に下船の予定で同じく航行中であった。我が艦と共に右に並んで出来る限り北海道寄りを航行せよとのことであった。
しかし、この小笠丸は一瞬にして潜水艦の魚雷を受けて、私の目の前で沈んでいったのである。戦闘機による機銃掃射の追いうちをかけられ犠牲者は更に多く出たのである。時を同じくして海軍所属船新興丸(千五百トン)、泰東丸(八百八十トン)も国籍不明の潜水艦の魚雷攻撃を受けむなしく撃沈されたのである。
終戦から八日も経過しているのになぜ攻撃を受けなければならないのか、憤慨やるかたないものがある。
ところでこの潜水艦は一体どこの船なのか。国籍不明ともありソ連艦ともいうが、戦闘機も無印の真っ黒な飛行機であった。
抗戦か降伏か
一方混乱と動揺は町民ばかりではなく軍隊の内部でも起った。終戦当時日本軍は本土防衛に備えて稚内市ノシャップ岬から宗谷岬にかけての沿岸に兵力を動員していた。現在の稚内市南小学校の校舎が陸軍の宗谷要塞司令部の隊舎で司令以下兵力約千八百名、海軍は庁立稚内女学校に宗谷防備隊司令部を置き約千五百名が本土決戦に備えていた。
終戦と同時にこれらの守備隊は抗戦派と降伏派に分れ混乱したが、特に海軍防備隊は好戦的で玉音放送の後も軍歌を歌いながら町を行進したのであった。
分遣隊長自決す
宗谷防備隊ノシャップ分遣隊長ほ抗戦派の一人だったが、終戦が動かないものと知った時「戦場に散って行った同期生の後を追う」といい残し、短剣で割腹し、更に小銃で自決した。その時新婚早々の若い妻も青酸カリを飲み夫の後を追ったのであった。誠に哀悼の極みである。
本道の他の地区ではほとんどなかった軍人の自決が稚内で起ったことをみても、当地海軍がいかに興奮していたかがうかがわれるのである。純真な海軍将校と戦時花嫁の悲しい墓標は、遺言によって宗谷海峡を見下すノシャップ岬の高台に建てられたのである。(後日米軍基地の建設で取り除かれ、市内の善徳寺に遺骨だけが納められている)
殉難の碑も建って
現在、増毛墓地には二十七年十一月に電々公社、増毛町が建てた「小笠丸殉難の碑」が静かに増毛の海を見おろし、七十五米の海底に横たわっている小笠丸を見守っているのである。同じく撃沈された泰東丸、新興丸も引揚げる事も出来ず、日本海の小平沖に故国の土を目前にして眠り続けているのである。
激戦をかえりみてお父さん、お母さん、とうとうお別れの日が来ました。今度会う日は靖国神社の桜の下で……と、心の中で誓って出発して行った多くの兵士、あれから四十有余年、祖国の勝利を信じつつ海底深く眠る戦友、これらの戦友こそ今日の日本の平和と繁栄の基礎を築いた尊い血潮である。この魂を永久に語り継ぐことこそ生き残った我々の責務であると心に念じ、思いのままに書かせて頂きました。
若くして散っていった戦友の英魂と、引揚げの犠牲者に心より哀悼の意を捧げます。
合掌

機関誌 郷土をさぐる(第6号)
1987年8月15日印刷  1987年8月20日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一