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続石碑が語る上富の歴史その(五)

中村 有秀

「沼崎重平翁」彰徳碑

建立年月 昭和三十年六月十日
建立場所 国鉄富良野線美馬牛駅前



建立の由来
国鉄富良野線美馬牛駅を出ると真直ぐ道路が美馬牛市街地に向かって走り、駅右側の線路沿いに国鉄の営業が盛んであった頃の鉄道官舎跡地がある。
駅左側は、丘に続き農協倉庫・農協スーパー等がある駅前風景の中で、駅右側前方に沼崎農場主であり美馬牛駅の開駅に功労のあった『沼崎重平翁彰徳碑』が、十勝岳連峰を仰ぎ見、翁の数々のヒューマンな人生ドラマの何頁かを綴ったことだろう「沼崎農場」と「美馬牛駅」を物静かに見つめるが如く建立されている。
昭和三十年六月十日、翁に数限りない恩顧を受けた沼崎農場及び美馬牛の人々が相寄り発起建立した『沼崎重平翁彰徳碑』の除幕式が行われた。沼崎翁ご夫妻を中心に親族、病院旧職員、沼崎農場関係者多数の出席の中で、翁の徳を永遠に讃える彰徳碑が美馬牛駅前に建立されたのである。
『沼崎重平翁彰徳碑』の裏面に彫刻きれている趣旨の由来について原文のまま記します。
沼崎重平翁資性温良仁慈に富む明治三十九年北海道拓殖医として本町に移住医院開業爾来十有五年僻村医療の為専念其間村会議員を勤められ寸暇のない身で開拓事業にも尽瘁された功績は筆舌に尽し難い大正二年美馬牛駅を中心とする区域を沼崎農場とし開拓指導に力を注がれたが美瑛上富良野両市街には何れも三里余の行程を有し交通不便の為発展に支障あると痛感された翁は此処に停車場の設置請額運動を起し爾来十有数年間初心貫徹の為あらゆる困難を排除し大正十四年遂に停車場設置許可を得美馬牛駅と命名翌十五年九月開設された翁は又美瑛宇莫別川未曾有の水害復興に身命を賭しての功績に依り美瑛原野の一部貸付を得農場として開発された現在美瑛町沼崎農場が即ちこれである翁は其後本町を去り旭川市に於て沼崎医院を開設され専ら仁術に尽瘁されている是等数々の功績を刻名して永遠に伝える。
                       撰文並に執筆 美瑛町 正七位 石山替治
沼崎重平翁の生い立ち
沼崎重平翁は、明治十一年十一月十一日茨城県稲敷郡根本村字下根本二十八番屋敷(現在新利根村)にて歯科医師沼崎弥兵衛の七人兄弟姉妹の三男として生まれた。郷里で小学校を卒業後は私塾で漢学を学ぶがそれに飽き足らず、明治三十年に医を志して上京し日本医大の前身である東京医学専門学校済生学舎に医家の書生となったりして学ぶ。その頃の思い出を弟弥六さんは『遊学中の勉強ぶりは二宮金次郎の幼年時代を偲ぶものがあった。帰省中は人目も避けて根本村の養泉寺を借り本堂に立籠り専ら勉学に励み、三度の食事を運ぶのが私の勤めであった』と語っています。
済生学舎にて学ぶ頃、当時の「文学青年」に投稿し多くの同好の友を得たのであるが、社会問題にも興味を持ち、人道主義的社会主義を標傍する安部磯雄氏に私淑してキリスト教に入信している。温厚で誠実な翁のヒューマニティーはこの頃から着実に芽生えていったのであろう。
明治三十二年六月医術開業前期試験合格、明治三十五年五月医術開業後期試験に合格し同年六月三十日に医師免許証下付され、直ちに東京胃腸病院医員とし就職すると共に社団法人東京慈会病院研究員となる。
医師の免許証を得ると、今迄試験勉強で渇ていた読書欲を満すべく上野の図書館通いが始り、又、新思想、新知識の吸収の為に目ぼしい講演会や集会にはどんどん出ていった。その後も安部磯雄先生に師事すると共に門下生との交友を深め、片山潜氏にも兄事し、彼の妻の葬儀委員も勤めたという。
又、明治天皇暗殺の陰謀で極刑に処せられた幸徳秋水とも親しく交り、彼の老母に対する孝養、やさしい人柄にひかれたらしい。子息修氏が高校生の時に歴史写真集を見ていた折に大逆事件の記事がありその時翁は『彼は決してその様な人物ではない、稀に見る人格者であり、これは当時の桂内閣の陰謀のデッチ上げなのだ』と語っていた。
美瑛時代には東京での青年時代の友人荒畑寒村氏を講演に招き、社会主義と言えば危険視していた当時の警察に睨まれたり尾行されたりしたともいう。
翁の若き時代には、社会主義を理想としたが、あくまでクリスチャンとしての人道主義の立場を貫き、患者に接する時もそうであり、沼崎農場の解放も翁の思想信念の現れであった。
北海道の開拓医を志して
東京胃腸病院での勤務を一年半位で、郷里の根本村で自宅を改装して開業したのが明治三十七年であった。翌明治三十八年四月十五日同郡の君原村の旧家で東京の女学校を卒業した渡辺優子さんと結婚す。
開業の頃、利根川の三年続きの氾濫と当時の風習で薬代は盆暮の年二回で、金銭よりも農作物による支払が多く、それも未収が多く早くも経営は困難を極めたのであった。
当時の医家には飲酒家が多く、往診と言うと必ず酒食の接待があり、それに親類縁者まで加り、病人をそっちのけにして宴会になる有様で、患者を持つ家庭では薬代の心配もさることながら、この酒宴の費用の捻出に苦しむのがあった。
これを憂えて夫妻は禁酒会員となり青年達を教育すると共に、酒食の接待を廃したので、患者を持つ家に大いに喜ばれたが、反面同業の医家や好酒家の反対も起った。加えて前記の経営上の問題もあった時、友人の飯田喜平氏が旭川第七師団の将校として赴任しており、彼からの紹介で美瑛村の村医として是非出向いて戴きたいとの村民一同の懇望を受け、医家として理想の天地を求めて北海道美瑛村の開拓医として明治三十九年八月、弟の弥六氏(当時十八才)を連れ、翁(当時二十八才)は未知の北海道に向けて郷里を旅立つのである。
北海道美瑛村の開拓医として
重平氏と弟の弥六氏は親類縁者と水盃を汲み交わして別れを惜しみ、父母兄弟は涙を流して村境まで見送った。
青森から初めて見る津軽海峡を渡り、函館を経て室蘭に上陸す。鉄鉱鉄道に便乗し汽車は走る。沿線いたるところ山また山、人家も無く深山幽谷に入る心地して心細さを感じる。
一昼夜余で美瑛駅に着くが、一寒村であったが市街地をなしていた。
旅装を解いたのが、玄関付医院風の構えの園田干一郎氏別宅(上富良野町、園田歯科医院、園田守正氏の祖父で、守正氏の曽祖父は園田実氏といい、明治二十四年に永山に屯田兵四百戸が移住した時に大分県から医師として来旭、旭川最初の医師である)で、そこを借りて沼崎医院を開業す。開業一年余りの自炊生活の後、郷里から妻を呼び医院を新築して北辺のこの地で人道主義に基づいた開拓医として根をおろすことを決意した。当時の美瑛村は、四十三方里の広漠たる原野で交通は不便、加えて山間僻地、積雪厳寒時の往診などもあって、その苦労は言語を絶するものがあり『病めるものを助すく』で労苦を厭わず老若貧富の別なく、寝食を忘れて仁慈の精神で東奔西走乗馬がけて村民の診療にあたったのである。乗馬の術は名人の域に達したともいわれ、又、馬を七頭乗りつぶしたと後年になっての話しもあった。
大正四年四月一日、二級町村制が実施され、町民に勧められて村議会議員に当選したが、医術と村政の両立できぬ事を自覚して辞職して医療に専念した。
明治四十一年には、戸長、収入役、郵便局長、学校長と共に、美瑛村文化団体教談会をつくり、毎月五日、十五日、二十五日の三回、学校・寺院・青年会館等を利用し、精神修養等の講演を行った。この様な団体が他町村に先んじて生れた事は、翁の指導力が影響し、文化的に大きな意義があった。明治四十四年十月一日、勤倹貯蓄を主目的に、かね浮華驕奢の弊風を矯めんと、沼崎重平、藤島勝三郎、春日定次郎各氏の首唱により勤倹矯風会が誕生し、会は三ヵ年をもって満期とし、元利金の払戻を行うと共に、新規の組織をすることにし、第一期十六株、第二期百株、第三期三百六十株の好成績を上げた。
明治三十六年に日本基督教の講義所が美瑛村に開設されたが、大正四年に至り、建物も腐朽し構造も不備であったので新築の議が起った。敬虔な信徒であった先生は信徒代表としてその工事に着手し、大正四年八月に竣工、献堂式を挙行し、日本基督教美瑛伝導所として礼拝説教はもちろん日曜学校をも開設し発展を企図したのである。教会設立以来の功労者として、美瑛町史に『沼崎重平・同夫人』が記されているが、その後同伝導所は幾多の困難を克服しながらも昭和二十三年五月二十二日に光栄かつ多難なる歴史の頁を閉じたのである。
沼崎農場と解放
沼崎重平が経営した『沼崎農場』は美瑛町新区画と上富良野町沼崎の二ケ所があったが、上富良野町沼崎の農場について記す。
大正二年、第二マルハチ牧場(美瑛の田中亀夫の牧場で明治三十五年頃に貸下げを受け、彼の屋号丸八をそのまま−マルハチ牧場−とし第一は美瑛町美田地区にあった)を譲り受け開拓事業に着手したのである。
沼崎農場は、里仁地区のうち鉄道から東部で、草分に続く一部分を除くと、全く上川郡と空知郡の郡界まで達している。鉄道には江幌完別川が併行しており、郡界はまた美瑛町との町界になっている。ほとんど郡界にある美馬牛駅を頂点とし、草分地区の金子農場を底辺とする細長い三角形の地域である。
この沼崎農場の開拓事業に着手する頃、既に秋山、平田、山川久三郎が入植していたが、大正二年の入植者は長谷川理作、打越興三郎の二人であった。
沼崎地区は地味・気候ともに良くなく、南北に走る富良野線に阻まれて交通の便は悪く、陸の孤島の様で、当時の開拓の中でも生活は貧困であった。
先生は常に小作人のことを思い、開墾五ケ年間は無年貢(鍬下制度)とし、その後も他の農場小作料に比して極めて低廉で、冷害不作などの年には小作人の苦境に痛く同情し、小作料を免除するばかりでなく御見舞金まであげるという温い思いやりがあり、小作人が病気の時は家族同様に接し、医療や無料診察など他の農場に見られぬ、人間味深い温情溢れる翁夫妻であった。
小作人は、その温情に感激発奮し開拓と耕作に励んだので沼崎農場は飛躍的に発展を遂げた。
先生は農場経営に着意したのは、一に開拓精神から出発し、二には北海道開拓方式ともいうべき農場主〜小作人という搾取形態から、営農基盤を持つ自作農へと考えられていた。開拓さえ出来ればあとは直接開拓した『働く者に与えるべきである』という考えが強く、昭和九年には沼崎農場を小作人に解放し自作農実現に着手し、農場を全ての小作人に自作農になることをすすめて、惜しげもなく自ら地主としての地位を捨て道庁に移管し、小作人には年賦で償還する様にして自作農を実現したのである。
小作人は『沼崎先生の影はふめぬ』と言ったのは小作に対する長年の温情によることはもちろんであるが、病気をして入院しても無料にしてくれた先生の仁術によるものである。
この当時、全道でぼつぼつ小作争議が起きていたが、沼崎農場の解放は、「カインの末裔」「生れ出つる悩み」の北海道を題材にした小説もある文豪有島武郎(俳優森雅之の父)が持っていた狩太(現ニセコ町)の有島農場を解放する時と共通点が考えられる。武郎が小説「親子」の中で父に向って『農民をあんな惨めな状態におかなければ利益のないものなら、農場という仕事はうそですね』とあり、又、解放宣言である「小作人への告別」の中で『第一、第二農場を合して約四百五十町歩の地積に、諸君は小作人として七十戸に近い戸数を有している。今日になって見ると大底開墾されて、立派に生産に役立つ土地になっています。開墾当初のことも考えると一時代時代が隔たっている様な感じがします。この土地全部を諸君の所有に移すことになったのです。
諸君の将来が、協力一致と相互扶助との観念によって導かれ、現代の悪制度の中にあっても、それに動かされないだけの堅固な基礎を作り、諸君の精神と生活とが、自然に周囲に働いて、周囲の状況をも変化する結果になるように祈ります』とある。有島農場は明治三十年父が札幌農学校生である武郎にと入手した狩太の農場で、父武が大正五年に没し大正十一年に解放宣言をしたのであった。
小作人の立場を理解した人道主義者武郎があり、それはまた理想的社会主義者として農場解放へつらなる道でもあったが、沼崎重平翁の人生感と非常に共通していて考えさせられた。
我が国の農地法改正は終戦後はじめて実施されて自作農が実現したが、先生は小作の人々を考えて昭和九年にそれを自発的に実施したのである。
美馬牛駅の開放
美瑛−上富良野間に鉄道が開通したのは明治三十二年十一月十五日であったが、それが十八、九kmと長い区間にもかかわらず停車場がないので、沿線の住民より拓殖上からも駅の設置が要望されていた。
大正三年沼崎農場としても、農場小作人への農業資材運搬及び農産物の輸送に、開拓道路の開削と鉄道踏切許可の請願を農場管理人佐々木兵三郎氏が行った。沼崎農場主としての沼崎重平翁は村医、村会議員、学校医等の公職にあると共に、大正四年より鉄道院嘱託医にもなっていたので、佐々木兵三郎氏が提出した請願の促進をはかるべく、自から鉄道管理部や運輸部に出頭陳情につとめるうち、時の札鉄管理局長大村卓二氏から、踏切許可のみならず、停車場設置の可能性さえある事をほのめかされ、帰って早速その促進運動に取りかかった。しかしこれを聞きつけた市街地方面では、同方面の発展に支障があると反対の陳情書を提出する騒ぎのうちに、かんじんの大村も鉄道本省に転任して立消えのかたちになった。
それでも先生は初志を曲げず、単身上京して鉄道省方面に運動を続け、鉄道省の火災で最初の請願書は焼失し、再度これを提出するなどの幾多の苦心を重ねた末、とうとう停車場の設置許可の指令を受けたのである。
いよいよ設置個所の選定という事になって問題が出て来た。それは沼崎農場近くに停車場設置を考えたが地形的に困難とされ、止むになく現美馬牛駅周辺の土地十五町歩を沼崎重平が特別買収して鉄道省に鉄道用地として寄付して正式許可が下された。これが大正十四年八月のことで、開業は大正十五年九月五日というから、大正三年の請願陳情以来、実に十三年の長き歳月を費したのである。この時、先生は旭川市向井病院長をされ、沼崎農場は小作人に自作農として解放されていた。
九月五日鉄道省主催の開通式を挙行する事になったが、祝賀会計画も先生にまかされたので、その資金調達に苦労し、総額の半分は先生が支出し、部落始めての盛大な喜びの祝賀会が行われた。
開駅当時は付近に三、四戸の住家しかなかったがそれが貨客の集散につれて人家も次第に増加し、終戦後は特に陸軍演習場や御料地の解放による入植者の激増からいよいよ長足の発展ぶりを示した。そして部落の中心も岩本農場やロッコ部落から駅前に移動し、郵便局、巡査駐在所、農協支所、家畜診療所役場支所等が次々と開設され、いよいよ市街の形容を整えていったのです。
翁の初志貫徹の行動がなかったら、美馬牛駅の設置や美馬牛地区の発展はどうなっていたでしょう。
向井病院から旭川厚生病院
大正九年十月、渡道以来十五年青年医師沼崎重平氏も四十三才となり、多くの美瑛村民に惜しまれつ第二の故郷美瑛を後にし、旭川市二条十丁目の向井病院を引き続ぎ、吉池守太氏(向井文吉の義弟)と共同経営をする事になる。
向井病院は、向井文吉氏の創立で、外科、耳鼻科が専門で、レントゲン診療にかけては全国的に知られていた。
沼崎重平氏が経常する様になって、内科・外科・婦人科・皮膚科・耳鼻いんこう科・レントゲン科の六科となり、それぞれの専門医がいて診療に当った。
旭川で最初の総合病院で、外来二百、入院七十余、職員四十数名にも及んで順調な経営であったが、大正十二年四月二十五日中央院棟より出火し二様も類焼するも、二ケ月で復旧工事を完成させ病院経営を軌道に乗せたのであった。
昭和五年十二月共同経営の吉池守太氏が六条十丁目の自宅で開院したため、沼崎先生一人が病院経営をする事になり、寝食を忘れるがごとく診療に没頭する。当時五十五才の元気にて医師会の信望も深く円満なる人格者として旭川医師会副会長、道医師会の幹部として活躍し、北海道長官より医事功労者と表彰を受けたのである。
一方、昭和五年以降の冷害凶作不況で、医療界とくに総合病院は経営が苦しく、病院を内科・外科・産婦人科の三科に縮少し、職員数も減じ、病院も法人組織に改めた。
この頃、農村経済も行き詰まり、とくに医療費の支出が増えたため、当時の産業組合(現在の農協)を中心に組合病院の構想が出てきた。上川地方でもこの動きがあり、昭和九年に管内四十六の組合が医療利用組合設立準備委員会をつくった。
昭和十二年に設立の許可申請を受けるまでになったが、日支事変の拡大で難しい情勢にあった。開拓医として十五年、農村の実態を知っており、又苦労した経験から、無医地区の診療に常に気を使い、昭和十二年から無医村診療を実施していたが、産業組合の設立準備委員会の事を聞き、向井病院を産業組合に譲り渡す決意を沼崎氏は固める。
昭和十六年一月、向井病院は上川保健病院となり副院長であった藤井敬三氏が院長になり、沼崎氏は顧問となり、そのかたわら四条九丁目の阿部病院を買収し沼崎内科とし昭和十六年秋に開院する。
先生は六十三才であったが、戦時中の医師不足の折から日々健在で診療に追われていた。その頃、長男修氏は東北大学医学部在学中で、戦時下の中で早く一人前の医師になり父と共に診察する事を考えていた。
沼崎家の今日
明治三十八年四月十五日、渡辺優子さんと結婚した先生は一男六女の子供に恵まれ、次女、五女が医師に嫁ぎ、長男修氏は東北大学医学部卒業し、沼崎病院を手伝うようになったのは昭和二十年で、長い戦争の終った直後で、父の跡を継いで沼崎病院長になったのは昭和二十七年である。
昭和三十一年十一月妻優子さんが僅かの病臥の後に急逝され、沼崎翁の落胆失望は大きかった。
昭和三十四年四月八日四条九丁目より八条八丁目に新医院建設の上棟式に翁は出席され、いよいよ息子修氏の希望する医院が出来るのを楽しみにしていたが、同年四月十五日腸閉塞で亡くなられる。
享年八十二才で道北の医療向上に献げた一生を閉じられたのである。
父重平翁亡きあと、長男修氏は父の医師としての理念を着実に実践し、病院経営も順調で昭和五十五年十月、鉄筋コンクリート造り三階建一部四階新築落成して内科・小児科・消化器科病院として病院の態様を整えた。
修氏と妻康代さんとの間に一男二女があり、長女文枝さんは旭川医大第二外科助手及川巌氏に嫁ぎ、長男彰氏は旭川医大第三内科医師から今は親子で診察をし、二女潤子さんは上富良野町で内科を開業する渋江久氏に嫁いでおられ、沼崎の系譜は『医師一家』として脈々と伝わっているが、現在沼崎病院の会長となった沼崎修氏は『建物は変っても、思想、立場、境遇の違う患者を分け隔てなく診るという親父の精神は、今でも生き続けています。旭川厚生病院の理念は、親父の理念そのものといっていいと思います』と語っている。
修氏は昭和五十七年より旭川市の北海道療育園長に就任し、身障児の健康管理にも積極的に取り組んでおり、沼崎翁の精神は着実に引継がれている。

機関誌 郷土をさぐる(第5号)
1986年3月25日印刷 1986年4日 1日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一