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ある日の荼毘(だび)

村上 国二 明治三十八年三月十日生(八十一才)

今から六十年程前、私が二十才の頃、大正十四年秋の現在墓地での露天焼きの出来事を書いて見ます。
其の頃は人が死ぬと墓地での土葬が多く、現在のような火葬場も出来ていないし、火葬は少なかった。
当時、江花にAさんが農業をしていた。まだ三十才位の若い血気盛んな青年で、軍隊に入隊し、成績も良く上等兵となって除隊し、嫁をもらって農業を営んでいたが、或る日風邪をひいて、それがもとで肺炎を起し、突然世を去った。
部落内に飛脚が走った。現在のように電話で知らす事は出来ず二人宛で手分けして知らせ廻る。昔から飛脚と言うのは一人で廻らず、必ず二人以上で歩くのであった。私も早速お悔やみに行き、手伝いに加わり火葬係の役が命ぜられた。火葬の手伝いは十名であった。
其の頃の葬式は、現在のように午前十一時出棺と言う事はなく、太陽が沈んでからでないと葬式は出さなかった。
露天焼きだから、薪を一敷位馬車で焼場まで前以って別の者が運んでおくのだが、この薪は二尺二寸の長さで三方六寸と言って三角に割った物で、六寸が三方あるもの百本を一敷と言っていた。火葬場までは座棺を土橇に積み、馬で運んだのであった。
当時の墓地は楢の大木や雑木が沢山生い茂っていて、夕方にもなれば何んとなく淋しい所で、棺を伴なうともなれば尚更淋しさと不気味さが募った。
墓地の火葬場は一定の所で焼くのではなく、所々で焼いていた。私達十名の者は、まず火葬場で薪を割りたき付けをこしらえて、下の方に薪と共に並べ其の上に座棺を置いた。次に、棺の上にもたき付けを積み石油をかけて火を付け、火の廻わりを見ながら薪を置いていき火勢がついた頃を見計らって初めて次々と薪を置くのであった。火葬場には酒や菓子、にしめ等を持って行き、皆で飲んだり食べたりしながら火が赤々ともえ死体が焼けて行くのを見守っていた。
丁度其の時、同じ手伝の中にBさんと言う小柄で小太りした五十前後の男がいた。これが仲々の悪い男で酒好きで更に大酒豪であった。
墓地は次第に暗く成り星がまたたいていた。焼けている火の聞から死体の頭が焼けはじめると脳が白い油のように流れ出した。この時Bさんが長い棒の先でこれをつつくなどのいたずらを始めたのを見て一同顔をそむけたが、なかなかやめようとしないので皆で、Bやめろ、Aが怒り出すぞと言ってとめた。
Bは酔いがまわっているので、何くそ死んだものが怒るかと言って又棒をさしだした。とたんにバリバリドーンという大きな音と共に燃えている死体が火の中に立ちあがった。その形相はものすごく、まるで不動明王の姿である。皆は驚いて四方に逃げて雑木林の中に身をかくした。
そうこうしている内に恐る恐る戻って来て見ると、まだ赤々と燃えている火の中に立ったまま全身から油を流し、それが燃え上って炎は体より高く上っている。
Aを倒せと声高に各々長い棒を持って来て、こらA静かにしろと棒で押し倒し、又その上に薪を積み重ねて焼きはじめた。
Bは酒の酔いも一度にさめて顔が青白く体がふるえて止まらない。火を付けてから四時間ぐらいはかかったが、もう大丈夫焼けたから帰ることにしようと火も段々下火に成ったのを機に一同腰を上げた。
遺骨は翌日身内の者が拾いに来るのである。
もう夜の十時ごろ、あたりは暗やみで前の人の影を日当に歩いていると、誰が言ったのか、おいAの幽霊が後からついて来るぞと言って走り出した。そんなことを言わなくっても気味悪く恐る恐る歩いている一番後の者が走り出し真先に出る。やみの夜には先に走る者が一番先にころぶ。すると続く者は一斉に将棋倒しに成って皆がころぶ、起き上っては走り、走ってはころび、江花道路へ出るまでには三回もころび着物も泥だらけの有様。江花道路へ出れば道も広いし道も良いので一安心して自然に走る者もなくなった。
暫くしてAさんの家に着き座敷に座ると、ご苦労さんでした先ず粗末なものですが召し上って下さいと言われたが、あまりにも不思議な出来事と恐ろしさで、その話もそこでは誰も口に出す者もなく、酒もご馳走も口にせずそこそこに引上げて帰って来た。私も帰りは二千米程一人ぼっちで帰らなければならず、後からAさんの幽霊がついて来るように思って、うしろを振り返り乍ら家に帰りついた。
其の後間もなくBさんも病死した。あまりにも不思議な出来事と恐ろしかった事は六十年を過ぎた今でも忘れることができない。
時代の変遷に依り葬式の形態も変っているので、その比較を次に記述します。
大正初期の火葬場の施設のない時代は埋葬か露天焼にした為、燃料も良質の薪を一敷程燃したものです。お通夜と告別式には参列者全員に精進料理のお膳を出し、お弔いのお酒を振舞い接待していました。
昭和の半頃までは、ほとんど自宅で葬式が行われました。
お葬式は出身県の習慣によって違いもありましたが、衣装は遺族親戚の者は皆、白装束で、男は白衣に白袴、女は白のお高租頭巾を着用、葬儀が終わり野辺の送りは白装束の親族の方が担ぎ、野辺送りの道順の四つ辻には、必ずローソクを立てたものでした。柩は墓地迄徒歩で葬列をつくり、別れを惜んだものです。見送る子供達には「まんじゅう」を配りました。
柩の形もその頃は座棺が多かったので、遺体の硬直する前に膝を座曲し納棺していました。
現在の火葬場の施設は皆、寝棺用に作ってあるので、座棺は使用されなくなりました。
上富良野橋が涙橋と呼ばれた所以は、前述の如く葬列をつくってこの橋を通過し、江花街道に出た処で一般会葬者にご挨拶をして、親族、近親者は墓地迄見送り、一般会葬者はそこでお別れしたので、涙橋と呼ばれていました。
乗物も今の様に専用の自動車もなく、人力、馬車、馬橇で墓地まで送ったものです。
現在では葬儀会場もお寺を利用する者が多く、葬儀が終るとその場で喪主に代わり葬儀委員長の挨拶があり、ご遺族、近親者は自動車で火葬場迄お送りするので、一般の会葬者はお寺の前でお見送りをし別れを惜しんで引取っています。
現在では火葬場の設備もよく、短時間で灰になりその日の内にお骨を拾い、骨上法要迄済ませる様になりました。
合掌

機関誌 郷土をさぐる(第5号)
1986年3月25日印刷  1986年4日 1日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一