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日の出に住んで

浦島 秀雄 大正五年十月七日生(六十九才)

子供の頃
上富良野駅の東側地域は、昭和五十八年に鉄道用敷地が売払われ、立派な公園や町営駐車場、更に工業団地として工場が建設されたが、私の子供の頃を思い出すと今昔の感がある。
私の家が基線二十七号にあったので、市街へ出てくるときは何時もこの附近を通る。大正年代のあの地帯の春は雪解け水の中には五尺ぐらい(一米五、六十糎)に伸びて枯れたよしが密生し、その中に木材が山の様に積まれて水に浸っていた。夏になると蛙がにぎやかだった。暗くなるとホタルがあちこちに飛び廻っていた。ビートの受入場(計量して貨車積にする処)があったので秋は受入期になると、ビートを満載した馬車が何台も出入し、二十頭も続いたこともある。
馬車道は水田の代撞きの様であった。ようやくそこを通り抜けると、輪だちに深く水が溜っており、長靴がすっぽりうまり、足がビシャビシャになった事が何回もあった。人家は吹上道路側に矢野勝己氏宅があるだけで、国鉄の線路側はよしわらと笹薮で駅に行く近道があったが、バラス(砂利)を採った穴の跡には笹が繁り、山ぶどうが自生していた。
この山ぶどうは早い時期からみんなが日を付けていたので、人に採られてしまう前に学校から帰る途中、まだ熟さないうす赤い実を沢山採って持帰った記憶がいまだに強く残っている。
基線道路の東側は佐々木頼右エ門氏(現政雄氏)の水田があったが、道路用地の一間程(約二米)の空地には熊笹が背丈程伸びて道路に覆いかぶさっている。雨降りの時は着物が濡れて困ったものである。
牛乳店
大正十三年迄、現在の本町児童公園(旧日の出会館の跡)の場所に門上牛乳店があった。私の父与一郎(当時三十六才)が権利と、乳牛十頭全部を買収し、浦島牛乳店を本家(浦島与三之宅)の処で開業した。富良野保健所の検定を受け許可もおりた。その後時々臨検もあるので、父は清潔、整頓にはとても厳しかった。当時母(当時三十三才)は朝三時に起きて大きな釜に湯を沸騰させ、一斗缶に入った牛乳を殺菌消毒して一合瓶(〇・一八リットル)百二十本程に一本づつ手詰めをして、紙蓋をした。冬は凍るのでブリキ(トタン)で作った一合缶であった。
この缶も零下十五度以下に下がると破裂して修理に大変手間がかかる。この百二十本前後の牛乳を直経二尺位(約八十糎)の丸いブリキ缶に蓋を付けた容器に振り分けに入れ、毎日兄与三之(当時高小一年〜十四才)が登校前に天秤棒でかついで夏は四時頃、冬は四時半頃市街の各戸に配達していた。姉も手籠に入れて牛乳配達をしていた。私は子供だったので、兄の出かける姿は見ていないが、空瓶の缶を天秤棒でかついで帰ってくる様子を、窓から眺めていた。
牛乳配達は朝早くから大変なものだと感じていた。
三年位続けていた兄や姉の配達も姉が嫁に行き兄も一家の柱として家業が忙しくなったので、原辰治さん(現錦町二丁目原次男氏の父)に依頼して天秤棒で配達してもらっていた。
父が亡くなり、乳牛も方々で沢山飼育する様になり駅前に集乳所が出来たこともあって、いつの間にか私の家では牛乳店を止め権利も消滅してしまった。
私は、牛乳配達の苦労をしないまゝ過してしまったのである。
その後牛馬商の松原照吉さんが、乳牛を飼育し松原牛乳店を開設された。

機関誌 郷土をさぐる(第5号)
1986年3月25日印刷  1986年4日 1日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一