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上富良野橋(涙橋)堰堤 生命線を守る

水谷 甚四郎 大正二年十一月四日生(七十二才)

山紫水明を誇り、平和な理想郷であった私達の村も、あの恐ろしい、十勝岳の大爆発に依り、一瞬にして、その様相を一変させられる憂き目に会ったが、あれから六十年を経た今日では、各所に完成したダムと、ラベンダー等に依って、往年の美しさに戻り観光の町として、栄えつつあることは嬉しい限りであるが、然し、その間にはいろいろな災害もあった。
終戦後間もない、昭和二十二年の八月半ば、本町未曽有の集中豪雨に襲われて、各方面に大被害を受けたが、私達水田農家の生命線である灌漑用水の取り入れ堰堤も、フラノ川の大氾濫により跡形もなく流失してしまった。
時期的に、水田用水には支障はなかったが来年、どうしたらよいか、頭痛の種を残しながら、どうにか泥田の中から、収穫を終えた。
さて翌春、雪も融け愈々水田の本番を迎えたのでここぞと思われる箇所を選んで、築堤作業に取りかかり、杭を打つもの、土俵や石を入れるもの、門扉を作る、用水路を掘る、それぞれが、農作業を顧みる暇もなく、頑張り抜いて、どうにか、代かきに必要な取水には成功した。
然し、これらは、堰堤本工事が出来るまでの仮工事に過ぎない。翌々年、堤防の完成と共に、木工沈床工事を施行し、新水門を作り、通水をしたが、久々七月の豪雨に、大損壊を受け、応急の大修理を余儀なくされた為、遂に意を決して、当時、村長兼土功組合長でもあった、田中勝次郎氏等の陳情が功を奏し、災害復旧工事として認可となり、我々の想像もつかない程の巨大な最新型の大工事が、それぞれの、順序と経過をたどり、落水後を期して行われる運びとなった。
涙橋下流には、取水堰堤と扉門及びローリング工事、用水路はフラノ川をサイホンで横断して従来の用水路に合流させるという二つの工事であったが、何しろ、百%に近い国費を投じての、大補助工事であるだけに、涙橋の通りすがりに「やっとるわい」ぐらいにしか思わず、新用水路工事の方には、余り関心を持って、近寄った事もない程であった。
しかし収穫も終り、根雪も近づく頃になって、突然霹靂の如き大事件が、私達受益者の頭上に降りかかって来た。フラノ川を横断しての、用水路工事を下請けしていた或る業者が、工事を中途半端にして投げ出してしまったというのだ。
上流の堰堤工事が完成しても、用水路が出来なければ、通水不可能な事は、一目瞭然、組合員一同、鳩首協議の結果、「ようし、我々一同最善を尽してやり遂げよう」と重大決意をして、早速工事に取りかかった。
現在の様に大型機械があるでなし、すべてがスコップ、ツルハシ、モッコかつぎ、といった手作業である。
幸にも、モーターで水の吸い上げだけは出来たが、それも停電の時には、旧式の発動機を動員して、どうにか作業が進められた。
口径九十センチの、ヒユーム管を敷設する為には基礎工事が重要なのだが、これも、エンヤコラ、ヨイトマケ式で玉砂利で地固めをして、捨てコンの上に管を入れる。それも即刻にしなければ、砂利が崩れて埋まってしまう。勿論掘さくは、手掘り、スコップではねつけをするか、モッコでかつぎ出す外はない。従って当然、大勢の流れ作業になる。雪もだんだん深くなる。誰が責任者という事もなく、我が事の様に真剣そのものである。戦場の様な忙しさでどうやら川岸迄たどり着いたがさてこれからが、問題の川底掘り、川の流れを二分して、工事を進める算段は良かったが、何と言っても、田吾作の集まり、中々簡単に、川の水が思う様に分流してくれない。
そこで又々、全体合議の結果、丁度川の西側に空き地があったので、そこに大きな溝を掘って、川の水を全部放流する事に一決して、直ぐ川の切り替工事に取りかかったが、何しろスコップ一丁の、手作業である。立木の根掘り、埋没している流木の除去等思わぬ障害にもめげず、人海戦術によって、漸く川の形ができ、直ちに流れを切り替えて、九十センチの管を敷設する作業に取かかった。
何しろ砂利と岩石で埋まっている川底を相当掘り下げるのは容易でない。前述の様な流れ作業を繰り返しながら川の半分迄進んだ。
この様に書いてしまえばそれ迄であるが、役員の分担があるとは言え、共同請負の形態である。労災保険があるわけでもなし、一人たりとも負傷者を出しては後の祭りである。厳しい寒さも何のその、みんな真剣そのものだ。
年の瀬は近づくし、検定日も迫った。今だから言える事だが、実は其の外にも、是が非でもコン管の敷設作業だけは終らせなければ公私共に、一大事になる理由があったのである。従って、昼夜兼行の交代制で、電燈だけを頼りに、掘る、入れる、継手を固める、埋戻しをする。アンパンと牛乳で腹を満しながらの、突貫作業、どうやら最後の、ヒューム管を据えつけて、もう検定官が来ても大丈夫という段階に達し、ほっと一息ついた時は、東の空が白みかかっていたが、誰からともなく万歳の声が揚がり、冷や酒とスルメの酒盛りとなり、交代要員が、出勤してくる迄続いた。
ここ迄やればもう用水路とコン管をつなぐ貯水槽を作るだけで、年内の作業を打切る工程であったが検定が終って気が緩んだものか、急に人夫が少なくなってしまった。
枠組みさえできれば、コンクリートを打込むだけの作業だが、機械のない悲しさ、大釜で湯を沸かしながら進めるのだから仕事の捗る筈がない。私と松下君は、いつの間にか責任者の様な形となり、除夜の鐘を聞きながら餅つきをして、どうやら年を越すことができ、複雑な思いで、昭和二十六年の屠蘇を味わった。
想えば、もう三十数年前の事になってしまったがやれば出来る、という自信がついた事は確かで「今時の若い者は」とつい言いたくなるのを、胸にしまい込んで、書き尽せない辛苦の体験をここでどうにかまとめ上げた。
当時の土功組合も、今では草分土地改良区となり前述の辛酸を倶にした松下君が、理事長の職に就いている。当時の関係書類を閲覧すると活躍された役員の方々は、既に故人となられたが、手に重いくらいの部厚い書類の筆跡は、紛れもなく故久保茂儀氏の手書きによるものであり、今の様にコピーやタイブのなかった時代だけに、スコップと、ペンの違いこそあれ、苦労の程が察せられ、ジーンと胸にくるものがある。
当時の書類に依ると、工事費の総額が四百二十五万円、一般土工夫の平均賃金は、僅か三百円程度で昨年涙橋のローリングを塗装した金額が二百五十万円というから、歳月の変遷がいかに大きいものか、想像に難くない。

機関誌 郷土をさぐる(第5号)
1986年3月25日印刷  1986年4日 1日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一