郷土をさぐる会トップページ     第05号目次

乾パンに寄せて

高橋 七郎 大正九年三月十五日生(六十五才)

四月も半ばともなれば、北国の遅い春が訪れ、庭先きに福寿草が黄色い花びらを一杯に開いて、うららかな陽を浴びている。
これとした定職もない今旦久方振りに自分だけの時が流れる・・・・。古女房も十五年間のヘルパーを退き、老境に入った二人暮らしの静かな昼下りである。
奥間の方でガサゴソと物を探していた女房が「有った!!」と二袋のビニール袋入乾パンを見付け出して持って来た。金米糖入りの昔懐しい大好物の小型乾パンであり、旧軍時代のなじみの品でもある。
丁度コーヒーを飲んでいた時だけにタイミングよく、早速開封し一粒を口に放り込む。パリッと音を立て、日の中に拡がる。これは七、八年前に自分が自衛隊事務官勤務の折りに、事務所勤務の陸曹から分けて貰ったものである。
その頃は、月に一、二度宮内食堂の昼食に、非常用乾パンの献立が入れられていた。「ウヒャー、今日は乾パンか!!」と陸曹が情けない声を出している。
『それじゃー売店食堂のラーメン著るから乾パン呉れよ!!』二つ返事でOK、多いときは二十袋位貯めていた者から頂いたものである。
戦後の経済成長後に、あらゆる物資も豊富になった現世にも、自分にはこの上もない貴重な食料であり、又乾パンの味は、戦中、戦後を知らない若い人達には分ろう筈もない。然し、例えば冬山の遭難か猛訓練とかで、飲まず喰わずの一週間、雪穴に閉じ込められ、やっと救出されて後、この一袋の乾パンを与えられたら、その価値も分ってもらえるものと考え、乾パン食で消沈している若い隊員によく語ったものである。
今開袋した袋には昭和五十年十二月製と記されているので十年前の代物である。湿気もせずに残って居たものと喜こびもひとしおだ。
その昔、小学五年十一才頃だったか、旧軍隊旭川第七師団の演習地の隣村、美馬牛駅附近から十勝岳山麓一帯に広がる高台で、当時野砲射撃訓練や、騎兵、歩兵の演習や行軍が行なわれていた。又民宿地としての家庭サービスの折などにもその都度隊列に付いて回り歩き、休憩時に兵士が差出して呉れた四角な乾パンを、嬉しくて目を輝かせ、押頂いたものである。
今の小型乾パンより九倍位の大きさのものが五枚日本紙に包まれていた。表に製造月日が大正九年某月と記されてあり、自分の生れた年に造られたのだと記憶しているので、昭和四年頃に味わった最初の乾パンの味である。
圧縮してあったのか歯も立たず、金槌で砕いて口に入れ、溶けるまで含んでそのほろ甘さと、香ばしさを味わったものである。その時の味も、造られてから十年経っていた筈で、乾パンとは十年経って食べるものと?覚えた次第である。と共に今度は四十年前の終戦直後の話に遡ることになる。

◇       ◇

シベリヤ抑留の輸送中のことである。囚人でもないのに、シベリヤ奥地に連れて行かれようとは夢にも思わなかったが、敦化から汽車に乗せられ、北へ北へとそして客車から貨車におし込まれ家畜同様の惨めな旅が続く。海拉爾を過ぎ、十月末とは申せ、北満の初雪に驚きながらも、途中雪かぶりの葉っぱを僅かな停車合間に失敬して、チャッカリ飯盆に漬けこんで食べている者が居て、飲まず喰わずの車内一同の羨望の的になっていた。
五年過した満洲里を垣間見ている内に国境を越えて隣りのソ連邦へと進む。でもシべリヤ鉄道を経てウラジオからダモイ?!、誰云うとはなしに望みは捨てない。チタを過ぎて貨物輸送列車は東へどころか反対の西へ西へと驀進する。
日増しに不安と空腹に苛まれ、疑心暗鬼の極みの中で、遂にバイカル湖が見えてきた。程なく臨時停車となる。絶望とは裏腹に、初年兵組であろう、希望捨てがたくウラジオの海が見えた!!と走り出し、水をなめては見たものの塩辛くないのでガックリしていた。
何時発のかわからない。又何処まで走って停るか皆目わからぬ囚人列車?輸送間の食料として二日前に全車輌宛に配られた唯一の糧である僅かなトウキビ粉を、急ぎ団子やら炒めるやら飯盒片手に、流木、小枝をあつめての俄か焚火。マッチすら看視兵から借りなければ手持ちは何もなし。湖畔のあちらこちらで細々と煙が上り始め、煮炊きに入って約五分、発車の合図だ。早々に貨車に戻ったが、口に入れた半焼きにもならない団子の苦味に思わず吐き出し、到底喉に通る代物ではない。いや増す空腹に、口惜し涙の出る許り。
終戦後二ケ月経っているが、未だ満洲内では何とか秋の実り、なけなしの物交等で少しは口に出来たものの、入ソ以来十日程之と云った食物は口に出来ない。ソ連民間人が各駅頭で日本兵相手の物交に、黒パン、馬鈴薯のむしたもの等を籠に差出し、万年筆、靴下、石けん、鉛筆の果まで欲しがっていたが、車内では、殆んどの者が身につけた衣服と体一つの哀れさで交換する者は一人も居ない。生つばをのみ、覚えかけた黒パンの味とジャガイモを恨めし気に見ているだけである。
翌日の夜だったか、人家もない所で又停車、用便のため一人が貨車から降りて車輌と車輌の間にもぐり用をたす。食べてもいないのに出るものだと寒心?!。停車毎に昼夜の別なく、人が居ろうが憚からず、貨車の間にしゃがみこんでいたが、済まない内に発車となり、袴下、ズボンを挙げながら列車と並んで小走りするみじめな姿を再々見かけ、勇者の片鱗すらない、これが又自分の姿でもあったのだ。
用を済ませて戻ってきた者が何やら隣りの者に話かけている。逃げる相談かな?! まさかここまで来ては到底不可能な筈である。と車の外でロシヤ語が聞こえる。扉のすき聞から見ると独りのソ連看視下士官が箱を肩に隣り貨車の入口で、物を要求している様子だ。暫くしてこちらの入口に来た。
「チャスイニエト?エトークーシャチ、ナー、スカレーチャスイダバイダバイ」(時計を持っていないか、持ってたら時計一個とこの食物をやるから早く出せ出せ)見ると箱は旧軍の乾パンである。久し振りに見る乾パンに、ああ時計があったら……と吉林の街角で取上げられた時計が日に浮かぶ。箱には五十袋は入っている筈だ。と云っても今の車内は誰独りとして貴重品を持つ者も居ない筈である。今迄に何度となくガタクリ剥奪されて、残るは空の難のう、飯盒位である。
隣りの初年兵Aが耳元で「あのBが持ってる様だ」と小声で云う。まさかとも思う。今日迄無事に持ちこたえているとしたら、飲み込む位しか考えられない。奇跡的な話である。喉から手が出る乾パンだがお互いにこの貨車内で始めて顔を合わせた連中達だから、年功や班長づらもないところで、Bに声も掛けられない。又思えば、今時計が出ても次にはこの貨車が睨まれて、走る列車の屋根をやぶって侵入するマンドリン(機銃)を持った看視兵の強盗事件は前例もあり、うかつに物も出せない時だ。列車内全員にも悪影響となる次第でもある。一刻の満足感でもありつきたい、乾パンの歯ごたえと味が浮かんで、一段と空腹に拍車をかける。
「ナー交換して皆にすこしでも分けて呉れよ…、ヨー出して呉れよ!!」Aが同年のよしみか盛んに促している。だがBを見ると具合も悪いのか青い顔をひきつらせて、膝を抱えたまま身じろきもせず、うづくまり日を閉じて、黙り込んでいる。外では執拗な声が繰返され、それでも案外気の弱い下士官なのか、小声もせっかちに「チャスイダバイダバイ」と次の貨車の方に移って行った。
狭い貨車内ですし詰め状態なので「時計」の話も次々と伝わり、恨めしい視線が一斉にBに注がれてBの躯が一段と少さく見えて来た。やがて発車となり、誰が乾パンを手にしたことか気に掛るが、汽車は腹も空かずに、つっ走るのみ、飛び去る白樺林の白い幹の間に乾パンの粒の影が一諸になって遥かな暗闇に消えていった。
その後、Aの語るところによると、あの時は実際にBの着ていた防寒外套の胸ボタン八個の内の一個に布で覆い隠されて時計は有ったと云う。スイス製で祖父の形見とか由緒ある高価品だった由。その外套も入ソ一年日の冬は着たきりで、寝布団代りと有効に身につけていたが、春早々に全員剥ぎ取られて二度と戻って来なかった。問題の時計も何処でどうなったか知る術もない。然もそのBが哀れな末路を迎えるに至って、ことさらに乾パンに寄せて懐い出される彼のあの時の姿である。
「食べ物の恨み」?とは裏腹に、その後Bと再会したのは六ケ月を経たピースク収容所の病床に伏し明日をも知れない気息奄々の状態で痩せ衰えた彼の姿である。二ケ月前に岡曹長の推薦で炊事係としてもぐり込んだものの、このような境涯を迎えていたのである。私もミイラの様に体力、気力の限界まで落込み、地獄から辛うじて這い出した状態から、一ケ月余の残飯給与のお蔭で復元した折りでもあり、一部の移動があって医務室炊事係に廻った時のことである。当時大腸カタル増発でバタバタと多くの同僚が逝った後でのことで、若くそして錬えられていない体力気力の貧しいBがこれまで生きていたことが不思議でもあった。
病床には三十人近く就いて居り、炊事係は自分独りで、特に病人食と云っても米の配給があるではなし、マンナ(大麦の粉)とキシミー(乾ブドウ)少量で、後は黒パンに一般の者が食していたスープである。
Bの枕元で、同県の誼(よしみ)とかで、丸山兵長が面倒を見ている。Bはうわ言ばかりの様子だが意識は郷里に還っている様だ。
『何が食べたい?!、何、何んだって?丸福の、丸福のうどん?!、うどんが食べたいか!、よーし今すぐ買って来るから元気出せよ!!』丸山兵長はBの口元から耳を離すなり『班長!!すまないけどスイトン用の粉をすこし下さいよ!!』、黒パン粉でフスマ入りの赤い粉だ。食器一杯分の粉を練り、のばしきざんで十p程の赤いうどんらしい物が出来た。茹で揚げたが、ねばり少なく、半分にちぎれ五p位になった赤うどん一皿をもってBの口元に持って行く。『ホラ!!丸福のうどんが来たぞ!!今やるからなー』短かい一本の赤うどんが、微かに開いたBの口元に入れられた。静かにロが動く。二本目、どうやら喉を通ったらしい。『どうだ、美味しいか?!』日を閉じたまゝ僅かに頷く。目尻から一条の涙が流れている。
三本目が口に入れられたが半分が外に出て垂れている。『まだ有るぞ、早く食べろよ!!』ロは動かない。
『オイッ!!鈴木!!』一声……絶句。
遂に二度と口は動かず鈴木二等兵は故里の丸福うどんを食べながら、静かに永遠の眠りについたのであった。
若冠二一才の短かい生涯だった彼も、入ソ以来極度の飢餓と孤独に苛まれ、そして不安と焦燥の明け暮れに草臥れ果てて、暗い切ないまでの日々が、どれほど辛く長い感じであったことか、我身と共に想いめぐらす。
今は穏やかに眠る鈴木兵士の顔を見ても涙を流す余裕すらなく何時自分もこの姿になるのやら過酷な運命の最中のことであり、暗澹たる気持ちを拭う術もない。暫らく呆然と枕元に立ちすくんでいる自分であった。

◇       ◇

追 記
シベリヤ物語等を書き始めはしたものゝ、当時を偲んで次から次に想い許りが先行して、意の如く書き現わす事も出来ず、誤字、脱字又送り仮名使い等無茶な点も多々有ることをお詫び申し上げます。戦後広範囲の各地で、人様々な難儀は枚挙に暇もありませんが、前述の通り、一兵士として青春時代の忘れ得ぬ想い出の一端として記した訳なので、御寛容の程よろしくお願い致します。

機関誌 郷土をさぐる(第5号)
1986年3月25日印刷  1986年4日 1日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一