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上富良野地方の馬車と馬橇

長瀬 勝雄 大正九年六月二十五日生(六十五才)

北海道の開拓は森林を伐採することから始まった。
明治二年明治新政府は北海道に開拓使を設置、開拓が進められた。本町の開拓も馬の力に依るところが非常に大きい。開拓の進行により内陸交通が便利になり、木材の需要も増加しその利用範因も拡大されると共に、林業はめざましい発展を示す様になったが、木材の輸送の中心であった鉄道は、昭和三十五年頃からトラック輸送に変って来ている。
私は少年の頃からこの道に入り、馬車、馬橇の製造を生業としていた一人として、馬車・馬橇について書くことを思い立った。先輩諸兄が健在でおられる中であるが、長瀬軽車輌橇農機具製作所の経営者として、社会経済の発展変貌に依り、馬搬は車輌運搬に変り、転業の止むなきにいたった時の経営者として、開拓以来の労苦を偲び、いささか導入の歴史と特殊な構造について記述する。
馬車・馬橇の導入
明治七年(一八七四)樺太在住のロシヤ人から、時の樺太庁を通じ雪道用の馬橇を一台購入し使用したのが、ロシヤ型馬橋が北海道へ導入された最初と思われる。その後明治十二年十二月黒田長官がロシヤを視察され、ウラジオストック市に出張した際乗馬車二台、馬橇一台及び馬四頭を購入し、それを見本に当時官有工場であった札幌工業局器械場である木工所で馬車・馬橇の試作に着手されたものが基礎となり、広く一般に利用されることになった。(明治三十一年七月二十七日北海道毎日新開発行の「札幌昔話三十四号」に登載)
馬車について
馬車については、ロシヤから購入した見本により研究を重ね、北海道の技術で立派なものが出来一般に普及される様になった。上富良野村で一番早く馬車の製作に着手された方は、岐阜県出身の杉山九一氏で、明治の末期現在の錦町に居住、大工である本業の傍ら、開拓者の要請に応え、馬車・馬橇の製作に取り組むことになったそうである。当時彼を慕って川田清作氏、坂弥勇氏、私の父長瀬要一が弟子入りして、大工の本業の傍ら、馬車・馬橇及び農機具の製造に本腰を入れたようである。
馬車の製造工程
馬車は材質として楢材を使用した長さ十三尺五寸の梯子に、四尺弱の両輪を組立て、骨格を作り、車胴は径尺丸の槐材を使用、木部、鉄工部共に一貫作業で行い木部は一年間乾燥した楢材で組み立てられる。
車の組立は車胴にアミダをさしこみ、これに櫛型に接続して八枚まとめて木の丸い輪をつくる。次に厚さ四分・巾三寸長さ十二尺の鉄材を丸くしてつぎ合せる。この鉄の輪は一寸五分程木の車輪より小さく作ってあり鉄輪に熱をあたえてふくらました中に本部をはめ込んでから急に水に入れて冷す、この工程を輪〆と言ってこれで仕上る訳である。
車と言うのは真丸につくるのがこつで、中心をとるのに細心の技術を要したもので、がたごととうねって進む様では良い馬車とは言えない。
このように、一般的な用途にはある程度規格化された馬車が使われていたが、中には特別注文のものも作られた。一般のものは三十円ぐらいでできたが、特注ともなると五十円から六十円もかかった。ちなみに、当時昭和十二、三年頃は、上富良野〜旭川間の汽車賃が一円二十銭であった。
特注馬車はコールタール塗り、腕木の前半はクレオソート塗で仲々大型の堅牢なもので、荷台をつけて米三十俵位つんでもぴくともせず、車軸迄没する様な悪路の遠い道を、早朝から食糧検査所前に集ったもので、検査の終った者から農協の倉庫に担ぎこんだものだった。
柴巻馬橇の構造と工程
昔、馬橇は積雪寒冷地に住む住民にとって、冬の生活の交通手段として、また山仕事の輸送手段として身近かな存在であり多くの人から親しまれており、かつ欠かせないものであった。
馬橇は前述の如くロシヤから購入したものを北海道の業者が工夫改良したもので、本町では明治三十四年の夏、杉山九一氏が製造を開始し、札幌型そりと言われたものが長く使用された。箱を戴せ人員の輸送をしたり、又広い台を戴せ農産物、肥料等の運搬に使用された。
馬橇を作るには、台木に楢の素性の良いものを選び、鼻造りと言う割材を曲げる工程から始められた。まず大型セイロに入れて七時間から八時間位熱湯でふかし、適当な時に取り出して曲げる木型におさめるのである。外側に鉄板をあて、鼻先からクサビでしめあげながら型通りに納めていくのだが、素性に依っては裂けてはじけるものもあった。この作業は滑車で巻き上げて一日三、四人で行う大仕事であった。
曲ったものは綱木(鉄棒)でささえて元にもどらないよう固定してから取り出し乾燥する。曲り方が固定するまで乾燥を続け、揃った曲り方をしたものを選び一対として馬橋の台木とする。この台木を斧とチョンナで削り出しをして束(つか)を五本づつ立て、赤タモの若木を曲部だけ芯をぬいて束に巻きつける。
これを〆替といったもので、これを乾燥して橇の本体が出来る。特に鼻の部分には入念に柴木を選んで造り出す。この辺の仕上げの程度が製品価値を高めるので、鼻柴の〆替は慎重に施工した。これに桁を組み裏金をはって柴巻橇は出来上るわけである。
毎年雪が降る時期になる.と古い馬橇の〆替と、新しい馬橇の製造に汗を流したものである。特別製で一台三十円代で取り引きされたが、貸付したものも毎年相当数にのぼった。
造材用各種橇
本町には山本木工場・伊藤木工場を始め数工場が操業されていた為、冬期間に東山の十勝岳国有林、西山の御料林から毎年相当数の原木が運救集積されたものであった。
造材から運搬に係る一連の作業は、各種橇を利用するものが多く、これに伴い薮出し用橇・バチバチ・馬橇(ヨツ)・バチバチ(改良鼻高バチ)、ベタ橇等稼人の需要に応え各種の橇を作った。
価格統制令施行される
昭和十四年には価格統制令が施行され、我々の業界にも鉄製品が統制となり、軽車輌協同組合の設立となった。父要一は、軽車輌の製作と農機具・スキーの製作の実権を継承することになった。その当時一諸に働いていた人は柳沢秀造氏、石川寛氏、長沼勝夫氏、会沢忠雄氏、松浦勝雄氏、細川弘氏(故人)等で、夫々大きな夢と希望を持って軽車輌の製作に余念がなかったわけである。
長瀬軽車輌製作所は健全な成長を続けていた。此の繁栄の陰には、今なお健在で此の苦難の時代を乗り切ってこられた母長瀬春代の力が誠に大きい。子供四人と職人、弟子七人の炊事、その他をとりしきった内助の功は大きな力となっていたのである。
兵役
男子は好むと好まざるに拘らず兵役に服する義務を課せられた。私は昭和十五年現役兵として北支山東省武定に入営、北支大陸に渡った。北支・南支の戦野に転戦、昭和二十年八月十五日満州国で終戦を迎え、シベリアでの抑留生活を終えて、昭和二十三年十二月十五日戦後の混沌たる中で命長らえて、七年半振りで懐しの郷里に復員したわけである。
帰って見ると、憲法も変り社会は一変していたが、長瀬軽車輌橇農機具製作所は健在であった。当時父長瀬要一は北海道軽車輌協同組合の会計理事として札幌常勤となっていた。北連及び開拓農協にホワイトプラウの菅野豊治社長と共に、農機具・軽車輌の売り込みに奔走した努力が功を奏して、戦後十年位は地元の需要にも応えながら北連開拓農協の製品の納入に多忙の連続であった。遠くは長野県の妻籠に十台程軽馬車を納入した記憶が残っている。
こうして内地府県にも販路を拡張し営業を続けていたのであるが、社会状勢の変化と押し寄せる機械化の波には抗しきれず、転業の止むなきにいたった。
少年時代より修業して磨いた技術に未練を残し、先代以来の努力を敬慕しながら美容業に転身、馬車馬橇の製造業も二代目で終止符を打つこととなった。
馬車馬橇全盛時代の思い出
馬車追一代と言うか、渡世人気質の方も当町には数人専業で生活されておられた。良い馬を持ち、特別製の馬車・馬橇を使用する仕事なら俺に任せておけと言うこの道のベテランも多かった。製作に当っては、私共も発注された方の心になって、立派で丈夫なものを作るよう心がけたものである。
此の方々は朝も早くから仕事に出て、荷物も普通の倍の量を積んで運擬する為、高賃金を得ていたが、散財も派手で、紅灯の巷を賑した方もおられたようである。
ベタ橇
本町は市街地を中心として泥炭地が多いため、毎冬土地改良区が力を注ぎ、広い面積に亘り客土事業が実施された。これにはベタ橇等が主軸となって活躍し生産増強の一翼を担った。特に十勝岳爆発災害に依る泥流被災地には長年の客土が施され、大きな力を発揮した。
日常生活と馬橇
各部落ではタマ橇などを使って、子供の通学時前に荒道を幹線道路迄道をあけることがされていた。部落の者同志、親子の絆は深かったものである。
また、新しい馬橇を娘のお嫁入り迄に間に合うよう注文する方もおられた。というのは、その頃の冬の嫁入りは馬橇を使うことが多く、可愛い娘のために新装の馬橇を奮発する者もけっこういたのである。リンリンと鳴る鈴の音に送られながら、橇にゆられてお嫁入りする晴れ姿を見かけることがあり、ほのぼのとした暖かさを感じたものである。
本町は大正七年軍馬購買地として指定されたため、馬の飼育頭数も昭和十年代には一、六〇〇余頭飼育されていた。しかし、世の流れとともに逐次姿を消し、現代においては輓馬競走用として少頭数飼育している実情であるが、輓馬競争に好成績を挙げている陰には、馭者がこうした環境に育った為でないかと思われる。
お正月の初売り
お正月の初荷は、十数頭の馬が出て市街地をねり歩き、気勢をあげたものである。我々業者も正月二日の初売りには、店の前の道路上に、二、三十台も山の様に積み上げた橇を売り捌いたことを思い出し愉快に感じる。
業者側では市街の四つ角に焚火を焚き、店先には馬繋ぎ用の杭を用意して歓迎したものである。
結び
本格的に北海道馬車と柴巻橇が出現し、改良されていき、明治の末期には北海道開拓にはなくてはならないものとなった。その頃で道内の馬車・馬橇が一万台を数える様になり、大正初期には五万台を越え、昭和初期には十万台にも達した。富良野地方でも昭和十年頃には年間製作数二〇〇台を数え、この頃から集・運材及び農作物の大半の運搬輸送に供され、積雪寒冷地帯の唯一の運搬機具として馬と共に北海道開拓に大きく貢献してきたのである。
現在では北海道の様に雪の多い地帯でも、内地府県と同様に車輌が利用され、また物資が運搬される様になったため、開拓以来交通機関として一般に親しまれ、利用されていた国鉄すらもその影響を受けて赤字経営を余儀なくされている。この国鉄も行革の主役として論議され民営移管となりつつあり、豪雪地帯で交通の花形であった馬車、馬樽の製作に余念のなかった人々と共に之等の原動力となり、黙々として働きわが国繁栄の底力となった馬も、まれにしか我々の目にとまらない時代となった。
世の移り変りがひしひしと私の胸を打つ次第で、今静かに郷土館に整然として陳列されている各種機具類を偲んで、感慨深いものがある。町政の一角で監査委員として往事を追想して結びといたします。
編集者註
昭和三十五年に、大正八年末年生れの者が四十二歳の厄払いの際奉納した御所車は、長瀬さんが丹誠こめて作ったもので、爾来毎年の上富良野神社祭の御神事に使用されている。

機関誌 郷土をさぐる(第5号)
1986年3月25日印刷  1986年4日 1日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一