郷土をさぐる会トップページ     第04号目次

続 石碑が語る上富の歴史その(四)

中村 有秀

長谷川 零餘子 の句碑
「鬼樺の
       中の温泉に来ぬ
                   橇の旅」
建立年月 大正十三年七月(昭和四十二年改修建立)
建立場所 十勝岳吹上温泉玄関横(現在 白銀荘前庭)

大正時代から昭和初期の日本、そして北海道の俳句界に多大の影響と足跡のあった俳人で、ホトトギスを離れて俳誌「枯野」の創刊主宰「長谷川零餘子」の句碑が、十勝岳吹上温泉の玄関横に建立されたのが大正十三年七月であった。
長谷川零餘子は、大正三年からホトトギスの地方俳句欄の選を担当していたが、大正十年に「枯野」を創刊し、立体俳句を唱導して多くの俳人を集め、ホトトギスに対する有力な俳誌となった。
北海道へ来たのは「枯野」創刊の翌年の大正十一年であって、北海道の新天地に新しい読者を求めてきたものである。
最初の来道では、旭川、浅茅野、栗山、札幌、小樽、室蘭、函館などの各地を巡り、石田雨圃子(俳人で旭川市慶誠寺住職、石田慶封師、郷土をさぐる第三号掲載)ほか多くの歓迎を受けたが、これをきっかけとして翌十二年には二回、十三年一回、十四年一回と熱心な来道をつづけた。
またこの頃、零餘子は「小樽新聞」の北海俳壇選者をも担当していたため、その影響は全道に及び、ホトトギス系投句者の大部分もまた一時「枯野」に指向したという風潮を築いたのであった。その当時石田雨圃子は小樽の石井輝女と共に「枯野」の課題句選者であった。「枯野」への投句者は北海道から九州、台湾、朝鮮、支那までの広範囲で、五年間に八千人以上を数え、俳壇での活躍は著しかった。
なぜ十勝岳にこの句碑が建立されたか
長谷川零餘子と石田雨圃子は、前記の関係で深い親交を結び俳諧活動を進めていた。零餘子の第一回来道の大正十一年五月の折りに、ぜひ冬の北海道での馬橇の旅をしたいとの希望が雨圃子に漏らされていた。
翌大正十二年二月、零餘子から雨圃子に、馬橇に乗りたいので案内を頼むとの連絡があって雨圃子は考えた。
冬の馬橇の旅で北海道の大自然の景観を味う事ができるのは十勝岳だと考え、その春夏秋冬を全て知り尽している浄土真宗本願寺派(西本願寺)の同門である門上浄照師(門信寺先代住職)にその案内を依頼したのだった。
門上浄照師は石田雨圃子の依頼でもあり、又長谷川零餘子は日本の俳句界の指導者であると常々雨圃子より聞いていたので、即時快諾の返答をしたのである。十勝岳吹上温泉まで馬桓で行くということなので、門上浄照師は夜なべをしながら橇の箱を作り、「零餘子氏を迎え」と橇箱の横側に書き(写真参照)歓迎の意を表したのである。
大正十二年三月二日、長谷川零餘子は二番列車(当時は朝の一番目に発着する列車を一番、次を二番と言っている)の午前十一時少し前に旭川から石田雨圃子の案内で上富良野駅に到着、門上浄照師の歓迎の挨拶を受けた後、直ぐ橇の人となる。
この日は積雪が多く、天侯はだんだん猛吹雪になる様相を呈していた。
午前十一時、上富良野駅前を出発した。馬橇を曳く馬は、聞信寺の壇徒である和田兵九郎氏(前町長和田松ヱ門氏の祖父)のを借り、馭者として和田家で働いていた林勝次郎さんが馬を追った。零餘子の橇の旅の唯一人の生存者である林勝次郎さんについて若干記す。
林 勝次郎さんは
明治三十七年五月二十日 岐阜県郡上八幡の林 長太郎家長男として生れ、四歳の時に父母と共に渡道し、父長太郎は兄である和田兵九郎氏を頼って上富良野に住む。
父は一時和田農場で働き、勝次郎は和田松ヱ門氏、正治氏と良く遊ぶと共に、松ヱ門氏の祖母に育てられたようなものでしたと述懐する。
門上浄照師とは岐阜の同県人であり檀徒であったため、勝次郎は和田家の馬で浄照師の冬の檀家廻りの送り迎えをした。檀家廻りの時は、藁靴のために雪で濡れ、それが凍って足の指が凍傷になったこともあったという。
零餘子の橇の旅は勝次郎が二十歳の時で、「赤川商店でパンを買い、一本松の所で昼食、中茶屋でうどんに卯をかけて食べた。がんぴ坂にさしかかった時は夕刻になり、だんだん吹雪が激しく馬橇を曳く馬も五、六間から十間位進むと休みの繰り返しで、馬は発汗も甚だしく口から泡を出しており可哀想でした。温泉近くになっては二、三間歩んでは止まるという状態で、吹上温泉の灯が見えた時の気持は今でも覚えております。長谷川・石田両先生からは感謝の言葉を何回も言われました」と語っている。
大正十四年三月、勝次郎一家は約二十年お世話になった日の出地区より現在地の中富良野町東一線北七号に移住し農業を続け、営農は成功して今は八十一歳の高齢であるが元気で悠悠自適の余生を送っておられる。
馬橇の旅は、零鈴子が期待していた牧歌的なものでなく、大雪のために道は日の出から旭野へと入る所から雪が深くなり、馬橇を曳く馬も体からもうもうと汗を出し、大曲りからは十メートル進んでは休み、又進むという状態を繰り返した。
雪はますます激しく、視界は僅かで黙々と歩む馬橇の中で詠まれたのが次の句である。
   「喰うものに パン二つあり 橇の旅」
こうした悪天侯のもと馬と馭者の林勝次郎さんの頑張りで、約十二時間を費やして、夜中の十一時過ぎに難行苦行の末にやっと吹上温泉にたどりついたのだった。
冬の北海道が初めての零餘子は、大雪をいだいた原始林の山中での雪の猛威に遭難も考え、その不安な気持が「喰うものに パン二つあり 橇の旅」と詠わせたのであろう。
翌三月三日は、咋日の天気が全く嘘の様な快晴となり、十勝岳の銀世界と原始林の静けさは、零餘子と雨圃子の心をなごました事であろう。
零鈴子は本館から風呂場へ行く度り廊下の窓から外の情景を見ながら詠ったのが、表題にも書いてある「鬼樺の……」の句である。
温泉宿の窓からの鬼樺を見、昨夜の苦労からの安堵感がこの句に表現されているように思われる。
この句碑は、十勝岳をこよなく愛し、明治四十二年以来自ら年に何十回となく踏査し、山と仏の道を結んで十勝岳を霊山にしようと、数々の努力と苦労を積み重ねられた聞信寺先代住職、門上浄照師が建立されたのである。
大正十二年三月に十勝岳でこの句が詠まれ、翌年の七月には句碑を建立と、その旺盛な実践力は、十勝岳でその後着々と発揮されたのである。
〇昭和二年
    石田雨圃子句碑の建立
〇昭和三年
    十勝岳爆発記念碑の建立(記念堂建立と共に)
○昭和四年
    九條武子歌碑の建立
〇昭和十七年
    十勝岳山頂の記念碑建立
消えた「長谷川零餘子の句碑」
終戦前に吹上温泉の建物が解体され、玄関の横に建っていた零餘子の句碑は、永年の風雪でいつのまにか倒れ土砂の中に埋もれてしまった。
終戦後も永く町民や俳人からも忘れ去られていたが、永年の土砂の中から、この句碑を見つけ出す糸口を与えてくれた人が、「村田吉雄氏」であった。
村田吉雄氏は、昭和十八年から昭和二十二年まで、上富良野小学校に在職され、その後上川教育局長、国立大雪青年の家所長を歴任され、現在は旭川市教育委員会教育長として活躍されておられ、石碑の研究家としても知られる方である。
発端は村田氏から、氏の上富良野小学校時代の教え子であった工藤七郎氏(現在、役場総務課長)が企画課長の時の昭和四十年、「元吹上温泉の所に長谷川零餘子の句碑があったが、何んとか調査してほしい」旨の依頼が寄せられたことであった。
工藤課長は個人で、又職員を同伴しての何回目かの調査の時に、句碑の碑面を下にして土砂に埋っていた碑石を発見したのである。工藤課長は早速、村田先生に報告すると共に、句碑の再建について相談し、又役場関係機関と協議を始めた。
昭和四十二年、上富良野町と上富良野町観光協会によって、永年の風雪と土砂に埋って傷ついた碑面の句を白エナメルで刻字面を埋めて、鮮やかに零餘子の句は蘇がえったのである。
ここに二十余年振りに、長谷川零餘子の句碑が、村田吉雄氏、工藤七郎氏の力、そして上富良野町及び上富良野町観光協会の援助によって、十勝岳白銀荘前に再建立されたのである。長谷川零餘子そして同行した石田雨圃子、馬橇の旅のお世話と建立に尽力された門上浄照師は共に既に亡き人となっているが、この再建を天上でさぞかし喜んでおられるだろ。
又、村田吉雄氏は十勝岳にある「九條武子の歌碑」についても、歌碑の台座基礎部分が非常に危険な状態であり、早急に補修を要する旨を、当時の教育委員会管理課長の竹谷岩俊氏(村田先生の教え子)に語られ、その後補修が行われた。
当町には、数多くの文化的遺産があるが、永年の風雪に腐食が進んでいるものもあり、これらの保護、保存に関し早急に再検討を進める時期に来ているのではなかろうか。
「長谷川零餘子」とは
本名を富田諧三といい、明治十九年八月二十日、群馬県多野郡鬼石町で生れる。明治二十九年頃から俳句に趣味を持ち、その後、富田翠邨と号して「秀才文壇」とか「新体詩集」といったものに投句して上京の機を待っていた。
明治三十六年、漸く上京して東京神田の大学館という書店に勤めながら苦学し、井上唖唖、永井荷風、伊藤竹酔等の七草会に加わって俳句に熱中し、初めて零餘子と号するようになったのである。
零餘子は俳人になろうと苦学したのではなく、薬学の道にと物理学校や正則英語学校に学ぶと共に、「新声」俳壇(碧梧桐選)、「ホトトギス」「万朝報」俳壇(鳴雪選)に投句、明治三十八年、七草会の会報が初めて「ホトトギス」一月号に載り、明治四十二年「国民新聞」俳壇(東洋城選)に句が入選。
その間、検定試験に合格して薬学専門学校に入学したが、学費等の捻出に大変苦労し、正則英語学校時代の英語の家庭教師先であった長谷川家(長谷川かなを教える)の援助を得て、薬学専門学校を卒業すると同時に、東京帝大薬学専科に進むことができたのである。
明治四十四年、学費の扱助をしてくれた長谷川家の長女「かな」(俳人長谷川かな女)と結婚し、長谷川家の養子となる。
明治四十五年、東京帝大薬学専科を卒業して零餘子は初念を貫いた。そして品川の薬品研究所の研究員になったが、自分の目的が遂行出来て心に余裕が持てたのか、その頃から句作に一段と熱が加わり、所々の句会に出席するようになったのである。
松根東洋城選から高浜虚子選に移った「国民俳壇」「日日俳壇」等には蛇笏、普羅、松浜、零餘子の名は常時上位にあった。そしてホトトギス発行所にも出入りするうちに編集を手伝うようになる。
東京帝大卒業後、一年にも満たないで高浜虚子より「二兎を追うものは一兎を得ず」の意味を教えられ、俳句の道に生きることを決心し、ホトトギス発行所に通うようになる。
大正三年からホトトギス地方俳句欄の選を担当し、「電気と文芸」の俳壇選者、「東京日日新聞」の俳壇選者にもなる。大正八年ホトトギス選者、大正九年三井物産「三友吟社」の斡旋で「小樽新聞」の俳壇の選者となって、全国的にその俳風を広げ、かつ影響の輪を大きくして行ったのである。
俳人が自分の主張する俳誌を持つことは夢であり大変なことで、零餘子は大正十年十月俳誌「枯野」を創刊主宰して「俳句は自然観照の文学である」と標榜し、当時のホトトギスの客観写生のあり方にあきたらず、「立体俳句論」を提唱し、「物の分子はみな立体で成り立っているので、これを概念的に見てはいけない。人間の眼は不完全で物は立体に見えない。それ故、物を心眼で見なければならぬ」と説き、単なる客観写生を斥けて多数の誌友を集め、ホトトギスと対抗する有力な俳誌となり、北海道にもその大きな影響力を与えた。
大正九年七月二十七日は、零餘子が「枯野」を創刊しようと決心した日である。
それから九年後の昭和三年七月二十七日の全く同じ月日……。零餘子はチブスで四十三歳の生を閉じたのであった。
零餘子の妻であり、俳人の「長谷川かな女」が、その時のことを次の様に述べている。
「僅か九年、命の火を燃しつづけて自分の業を成し遂げんとして、稍完成に近づいた時に倒れたのは、琴線子も口惜しかったろうが、それに連なる弟子達には最も非情な辛いことであった」
夫、零餘子の立体俳句の火を消してはならないと「長谷川かな女」は昭和三年十月、「枯野」を「ぬかご」と改題して俳誌を発刊し、昭和四年十一月に俳誌「水明」を創刊主宰、こうして「枯野」の系譜は受継がれた。
かな女の永年の俳句活動に対し、昭和三十年に浦和市名誉市民、昭和四十一年に紫綬褒章を授章したのである。
かな女は北海道には、昭和七年(小樽、旭川、美唄)、昭和十一年(函館、小樽、旭川、美唄炭山)に来道して各地で歓迎句会が行われ、その後昭和二十六年五月、美唄市空知神社境内に長谷川零餘子、かな女夫妻の句碑が建立され、その除幕式に出席されたのが最後の来道であった。
美唄市の空知神社境内に建立されている句碑には、次の様に詠まれている。
「雪を見ねば 蝦夷物足らず 秋の蝶」
                  長谷川 零餘子

「花路を 別けて石狩 川となる」
                  長谷川 かな女


機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一