郷土をさぐる会トップページ     第04号目次

開拓と造林

佐川 亀蔵 明治四十二年一月五日生(七十六才)

北海道の開拓は木を伐る事から始まったと言う。おそらく上富良野もそうだったのに違いない。他部落の事はあまり知らないが、日新の部落も木を始末するのが開拓の始めだった、と父母も言っていた。
私の母は朝起きると東の空に向かって太陽を拝み、夕方には西の方を拝んでいた。この山に入った時は大木が密生していて、十勝岳の煙が見えなかったと言っていたから随分あったに違いない。着手小屋(二間に三間)を建てるのにも、樹林の中の空間を探さなければならないほどであったと聞いている。
家を建てるのにも太い大木ばかりで、屋根の垂木にする様な細棒が無かった。青木の細木を取りに裏の沢(牛舎の沢又は炭屋の沢)に行って、初めて家の前後に深い沢があるのを知り驚いたと言う。前の沢はコルコニウシュベツ沢、又は熊の沢とも言っていた。
開拓小屋は、佐川団体が入った時に柾屋と木挽きを連れて来たと言うから皆柾葺であり、笹葺きは一年あとから入った人一軒だけであった。
本家の佐川団体長の佐川岩治の家は、四間に八間とかで大きかったが、あとは皆二間に三間位の小さなものだった。強い風が吹くと、山の中の人達は自分の家では危いので、本家に集まったのを覚えている。
壁はたいてい三尺の割柾で、本家の家は木挽きが挽いた板張りであった様だ。私の家も表の方が板張りだったが、裏側は三尺柾であり、屋根も下屋を下した分は三尺柾で葺いてあった。本家と私の家の屋根は一寸足とか言って厚く葺き、他の人は二寸足とか言っていた。私の家と本家のは二十年位は長持ちした様だ。(注・屋根の柾葺の一寸足、二寸足とは葺足を言う。)その間に柱の入れ替えをした。床は松だったかシコロだったか解らないが、割木で凹凸があり、じかに茶腕など置けなかった。お膳は副木で手造りのものを使い、十才位になって初めて町から赤い塗膳を買って貰った。
物置棚も壁に割板を一尺位のを打ち付けて作ってあった。窓は美濃紙二枚位張ったのが一ケ所で、外から急に入るとしばらくは暗くて何も見えなかった。
入口の近くには土間続きに四尺に六尺位の炉が切ってあり、二尺薪を小割りにして焚いていた。ストーブを付けたのが大正四、五年頃になってからだったが、長さ三尺のもので二尺薪を小切りせずそのまま割って焚いた。ストーブを使い始めた頃は、直接火が見えないため寒い気がして、焚口を開けて叱られたこともある。又、土間の炉と違って、芋を灰に入れて焼いて食べられないので、不便なものだと思ったりした。
家は天井が張ってなかったし、壁も隙間から外が見える様な有様なので、一年に三方五寸とか三方六寸とかいう薪を二十敷(一敷は百本)も焚いた。この量は大変なものだが、秋から冬にかけて家の近くに塀の様に積んだのを全部焚いてしまった。薪作りも冬の仕事の一つであった。
佐川団体は村内でも知られた良材の産地だったと聞く。富良野線の鉄道が割合早く出来たので団体には石楢(注・富良野地区に生育する、ミズナラ、モンゴリナラ、カシワ、コナラのうち、ミズナラなどの軟質のものを除いた硬いものを材木取り扱いの際に石楢と呼んでいる)の良材が多く、函館築港の杭材や鉄道の枕木に出したらしい。インチ材(ビール樽の材料)にも出したと言う。
父の話に聞いていた三重団体の船引与左ヱ門さんのところに行き話を聞いたが、熊の沢や鹿の沢によく運撤に来たと言っておられた。流送も行われており、聞くところによると、新井さんがやったとの事であった。作作部(さくさべ)牧場事務所の下のヤナ(木や竹、石などで流れを変え、魚を集めたり導いたりする仕掛)の事はよく覚えておられた。私共子供の頃、十勝岳爆発の災害で流れる前までは、よくそこに行ってイワナや鰍を釣った。
本流の沢にも、元伊藤八五郎さんの居た下にも、丸太を立てヤナを造った跡が十勝岳爆発前にはあって、後日聞いた時に菊地先生も覚えておられた。流送した材木は何処で陸上げしたかは、船引さんも伊藤鶴丸さんもハッキリ判らないと言われていたが、鶴丸さんのお話では 木工場が出来てからは、水門があったので、(明治の終りか大正の初め頃でないかと思われる)その前二十六号か市街裏あたりらしい。
私が尋常科三年生の時、同級生の女の子の父で曽我と言う旭川の下駄屋さんが、鹿の沢や忠次郎さんの沢で下駄材を取っていた。冬は山で穴をほり横木を渡して材料を桟に積み、雑把を燃やして乾燥させたものを馬車で運んだが、夏はフラノ川を流送していた。子供の頃水泳ぎするのに材木が浮いているので、邪魔だと思っていた記憶がある。今の日の出ダムの処、西川牧場からも流送されたようで、狩野円蔵さんの話によると、鰍が随分いたので木材と河床の間に狭まれて潰されていたということである。
親達が新井牧場へ入った頃は、随分木があったらしい。佐川団体の先駆者で、事務所の近くに住んでいた佐々木右左衛門(後に市街に出て造材師になった)、白鳥長治、佐々木末治、佐々木留治、佐々木忠次郎さん達が入った時は、隣の家が見えなかったと言う。その奥に及川万治郎さんが入り、菊地長衛門さん達も次々と奥に入った。
佐川団体が入ったのは明治四十二年の秋だが、その頃今の日新神社のある峰は、官林まで青木が密生した見事な林だったが、四十三年に山火事があって官林近くまで焼けたと言う。私共が学校に通った頃(大正五年)学校の裏山には青木の枯損木が沢山あって、学校の授業が終ると、高木先生が薪を取っておられたのを覚えている。
フラノ川左岸の山も、大正十年頃まで混交林で、北向きの方にはかなり青木があった。新井の下請けを高橋長助さんがやり、その時は馬橇で搬出した。
私共が学校に通う頃は、山の上の平らな所はほとんどが拓かれて畑になっていたが、傾斜のある処にはまだ自然の大木が残っており、風が吹くと千切れた枝が飛んでくるし、冬には枝に積った雪玉が落ちるので危いと思いながら通った。
開墾当時にはよく山火事があった。伐った木を五〜六尺に玉切り、積んで火をつけて処分していたから、この火を扱う時の失火が原因だった。私がまだ学校に行かぬ頃、コルコニウシュベツの沢から出た火が家の近くまで迫ったので、家財道具を全部外に出し、大人達が屋根に上って火を防いでいた。その後も何回もあった様だ。
五〜六年生の頃、枯損木のガンピの皮を祖母や母が炊き着け木として売っていた。一把八銭から十銭位だった。私も手伝い、ガンピを背負って売って歩いた。恥ずかしい様な気もしたが、今ののんきやさんや北川の宿屋さん、下駄屋さんなどが沢山買ってくれたのを良く覚えている。
団体が入植した年か次の年かわからないが、物凄い大風があり、団体長の叔父が事務所へ用事に行った帰りに、立って歩けなくて這った程だと言っていた。子供の頃その時の風で根ムクレになった風倒木の間を、地面に降りないで次々に渡って遊んだものだ。開拓後も根ムクレの穴から木を焼いた炭が出たり、今でも畑にならない所には穴が残っている。東南東の風らしく、ちょうど先年の大風(昭和五十六年八月二十三日台風一五号が富良野地方を直撃し、町内では重軽傷者七人と上富良野神社の大木三十本余りを含む全町に亘る山林に膨大な風倒害を与えた)の様な気がする。佐川団体は昔から風の強い所で、春と秋には一度や二度は作物に被害が出るほどだった。昔、村一番の軍用燕麦の産地と言われていたが、秋になって刈り遅れると風に全部落とされて刈り取ることが出来ない事も度々あった。
昭和四年だったと思うが、吉田村長さんの薦めで防風林を作ったら良いと言われ、土屋農会技手の設計で延長八百間の苗木を申し込んだ。当時上富良野に苗木が無かったので中富良野の安藤苗圃へ馬車で一日掛かりで取りに行って来た。畑に植える段になって耕地が惜しくなり、二〜三百間分を佐藤繁夫さんに分譲した。苗木代は全部補助して貰ったので助かった。
昭和八年、民有末墾地開放で各自所有地が定まり百間〜百五十間の間隔で全戸揃って防風林を造った。
その後一回目の植林が高く伸びたので伐採し、今残っているのは二回目の木が大部分である。去年の台風にも少しは役に立っている様だ。
入植当時は食糧獲得の為に一坪の畑でも惜しみ、新地を拓いたものだが、戦後、時の移るにつれて団体はほとんど植林地に変り、昔の面影は無くなった。昔、事務所の坂を上ると、高台は奥の方まで見事な畑だったが、今では落葉松林ばかりが目立つ。大正の終り頃からかなりの傾斜地まで除虫菊や軍用燕麦を作っていたが、戦時中は農業労務者も頼めなくなり、耕地もだんだん荒れてきた。しかし戦後、食糧増産で耕地が一時拡げられたりしたが、近年は世の移り変りとともに再び木を植えるようになった。
植林で思い出すが、吉田村長は早くから農家に備荒林又は薪炭林として造林を薦めておられ、自らも植えておられた。一時、木の値段も下って植林地を畑に戻した処もあったと聞く。
私が知っているものでは、大正十四年に土井元治さんの植えた樹林(今の白井清氏所有のトウヒ)が村一番だと言っていたが、台風で全滅したのは惜しかった。基線の奥に高畠さんの山もあるが、数回の暴風で傷んでしまった。村長の吉田さんが所有していた山林は元小林さんの住んでいた所にあったが、戦時中軍用材として伐り出し、戦後になってからは、今の江幌の佐藤政幸さんの所のも伐ってしまったので、今はもうほとんど残っていない。
日新では白井弥八さんがよく「木を植えろ」と言っていた。私共青年時代にも、「子供が一人生まれたら落葉松一町植えておけ、二十年したら立派な山になり、どんな不景気でも一町歩の山林があれば結婚費用には間に合うから、山は絶対に裸にしておくな」と言っておられた。鰍の沢の元の住宅の所に、東中から持ってきたポプラが七〜八本あったが、いつも「一年に何石づつ伸びる」とか言っておられた。
今日、日新・清富が町内でも植林が多いのは傾斜地が多いこともあるが、白井さんが植林を薦めた功績も大なるものがあると思う。
昭和十二年落葉林に大量のプランコ毛虫が発生し翌十三年も続いた。西一線の土井元治さん(現在は内田酉松さん)の山もひどかったのでトド松を補植したが、後、落葉松は全部伐って、今はトド松だけが残っている。岡田さんの所にはトーヒを補植したが、今は全部伐ってしまったようだ。山本武平さんの所は伐採して二回目を植えたのがあったが、今はどうなっているかわからない。
その頃、佐川団体の人は帰りの近道に西一線道路を通ったが、木から落ちた虫で馬車が横すべりする位の所もあったと言う。当時そんな状況を目にして毛虫の恐しさを知ったので、トド松を植えようと思ったが、森林組合にも苗木が無かった。高橋貞之丞さんからトド松の種子を一升三百円で買って、苗を仕立てようと播いてみたが失敗してしまった。
翌年も組合には苗木が無かったので、幼苗を頼んだ。五千本ほど欲しかったので一万本取寄せて頂いたが、残りの五千本は誰が植えたのか探しても判らなかった。
苗床でこの幼苗を四、五年かかって育ててから昭和二十年春植林したものが、現在まで順調に育っていたのだが、先年台風で全滅してしまった。根元の方で一尺五寸位に成長していたので残念でたまらない。
上富良野町内には、現在ではもう手の入らぬ自然林は無くなったようだ。私が小さい頃は、東の十勝岳麓は六、七合目あたりまでが自然林で埋まり、又西の山々は芦別岳頂上付近がわずかに白いだけで、あとは北の方も美瑛方面は山の陵線まで、冬でも雪が見えないほど薄黒く、山肌がほとんど見えないほど青木林だった記憶がある。昨今では裸同然の淋しい山になってしまった。
昔はこの村も材木の搬出が多く、高等科に通っていた頃は、駅構内には、三、四尺もある立派な木が桟橋に積んであり、次々と十勝岳や御料地から運び出されていた。ことに大正十二年の東京大震後の翌年からは、大量に造材されたようだ。カネシチ伊藤木工場とマルイチ山本木工場の払下げだけでも五万石ずつ出したと聞く。
朝早くから桟橋の土場捲きや貨車積みのヨイトマケの音頭が、遠いこの山の奥にも聞こえてくるほどだった。馬追いの玉橇の列も、町の中から駅裏の工場までギッシリと続いている事もあった。木材景気が良かったのだろう。今は、良材が少なくなった上に、安価な外国材の輸入に押されてか、造材の町上富良野も昔の思い出話になってしまった。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一