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硫黄の採取と運搬

相良 義雄 明治四十一年二月四日生(七十六才)

父は福島県の生れ、日露戦争に参加したが帰ってからは世の中が不景気になって、生活が楽でなかった時に、北海道へ行けば仕事があると聞き、明治三十九年に思い切って渡って来たそうです。
最初の頃は、当時満州鉄道の広軌用枕木の需要が多くあったそうで、祖父と二人でナラ材の枕木挽きをして暮らしをたてたそうです。
母の実家は漁師でしたが、子供が多くて漁師だけでは食べて行けないと、母が十四才の時渡道したと言うことです。私は明治四十一年真狩村御保内で生れました。
大正十二年十二月、私が十七才の時、真狩で隣りに住んでいた人と樺太の留多加へ、製紙会社の下請けの造村山に出稼ぎに行き、翌十三年六月十五日に帰ったのですが、両親は既に上富良野へ来ていて、丁度その日は上富良野小学佼の運動会でした。
私は、帰宅して間もなくすすめてくれた人があって、十勝岳の硫黄採取をやっていた平山鉱業所で働くことになりました。その頃の従業員は百名位で、九州組と福島組の二つの飯場があって食事は一緒でしたが、九州の人とは話が合いませんでした。
九州の人達は、朝鮮に働きに行って二月から十二月まで働いた賃金と、平山鉱業で四月から十月まで働いた賃金が同じ位になるので、わざわざ上富艮野まで働きに来たのです。
朝鮮の人も働きに来ていて一台いくらと言う賃金でトロ押しをしていました。
硫黄の採取作業は、亜硫酸ガスのため鼻で息をすると目がまわるはど痛みました。特にひどい所へ入る時は手拭いで鼻を覆って行ったものです。しかし胃腸には悪影響がなく、かえって胸焼けなど治って帰ったこともありました。
硫黄の運搬
私が平山鉱業所に行った頃は、もう既に鉄索の施設が出来ていました。
採取現場附近には硫黄溜場があって、新噴火口の中からは人が背中に背負って運び出したり、上方の第三鉱からは手押しの鉄輪の二輪車で運びました。
硫黄の溜場から下方の第一鉱までの約二百間では軽便鉄索と言って、二本のワイヤーに二個の搬器が取り付けられていて、一個に硫黄を積み込んで降ろすと別の一個が空で戻ると言う方法でした。
第一鉱からは、山腹を緩傾斜で積切るように南西方向の前十勝岳中腹地点までの約二百間に、人力によるトロ軌道が設けられていました。
このトロ運搬は、ブレーキをかけながら降りるので、雨でレールがぬれたりするとブレーキの効きが悪くなって、スピードを抑え切れずに暴走脱線転覆事故となり、人間は辛うじて飛び降り難を免れたこともありました。トロは二台あったと記憶しています。
トロレールの終点から元山事務所までの七、八百間は自動複線索道で、搬器は上下線各五個づつ付いていて硫黄を積み込んだ搬器の降りる時の重力で、空になった搬器と循環するのです。
元山事務所から山加事務所(中茶屋)までの二千何百間かの区間も自動鉄索道でしたが、こちらは距離が長くて完全自動とはならず、フリコ沢から百間位の水路で取水して、十八尺の水車を廻して補助動力として運転したのでした。
夏になると暑さでワイヤーがゆるむので締めたり、また、毎年春先になると日光の銅山から技術者が来て、ワイヤー継ぎをしましたが、七分位のワイヤーの芯を抜いて、一尺位の釘の様なものを一本入れて、かみ合せながらより合せて継いで行くもので、熟練を要する作業のようでした。
硫黄の採取作業
私は第二鉱で硫黄を採取するのが仕事でしたが、硫黄を冷やす箇所は十ケ所以上あり、しょう油のような色をした夜体の硫黄が道(えんどう)の出口からたれ落ちてそれが自然冷却で固まるのです。夏のうちはこの硫黄はすぐ軽便鉄索に積み込んだのでした。
冬になると運搬作業は休止となるので、毎日各烟道の出口で固まった硫黄を叩いて落すのが仕事でした。作業は四人二組で一週間交代制で、積雪の浅い年内は元山の飯場から通い、正月から二月いっぱいは現場近くの小屋に泊りながら作業をしました。小屋は火山岩の上に半地下式にした三間に六間のものでしたが、酷寒猛吹雪の冬山も結構暖かく、しのぎ易く感じたものです。
私は三浦さんと同じ班でしたが、私達の班は要領がいいと言うのか、二日に一回しか落しに行きませんでした。また四人は一日交代で飯炊き、炭火おこし、雪を溶かして水を作るなど役目を分担しましたが、忙しいのは当番の時だけで、あとは退屈で雑誌をみたり、色々なことをして暇をつぶしました。そして一週間目の朝御飯を食べて次の班と勤務交代ですが、その頃はスキーなんかなかったので、かんじきをはいて歩きました。私達が下った足跡をたどって次の班の人達が登ってくるのですが、飯場から小屋までの所要時間は三十分でした。
当時の平山鉱業所の事務所の責任者は栃木県黒磯の辺見清と言う方でした。元山には松の大木の元に小さな神社があって、ささやかながらお祭りが催されたし、お盆には、それぞれ出身県のお国自慢の唄と踊り、九州のテンポのおそいのんびりした踊りと、福島のにぎやかな踊りが対照的だったことを思い出します。しかしその頃北海盆踊はまだ踊られていませんでした。(山加の飯場には青柳次郎さん、斉藤さん、舟木さんと言う馬追いの人がいたことも記憶にあります)。
危うく爆発の難を免がれる
大正十五年の爆発の時、数日前に仕事がないので山から下がっていてくれと言われて自宅待機中でしたが、そのお蔭で命拾いをしたのです。爆発の二、三日前私の覚えた人から、鉄索をやる人がいないので私にどうかと言う話もありましたので、もう一週間も爆発が遅れていたら、私も死んでいたかもわかりません。
噴火口には以前から爆発の前兆らしいものはありましたが、三月頃になって山が落ちついて来たので、私達は安心して仕事をしていたのでした。
因みに、爆発の後、案内を頼まれて夕張の人と一緒に、流失を免れた避難小屋に泊りながら山に登ってみましたが、爆発後噴火口のスリバチの上縁は、爆発前のスリバチの底に当るので、爆発で山容が一変しているのに驚きました。そして、噴火口の下の方から湧いていたお湯が、こんどは東の方に湧出場所が移動しているのです。
平山鉱業では大正十五年の硫黄の採取目標が三千屯だったそうですが、五月二十四日の大爆発によって、多くの従業員の人命と全施設が壊滅してしまったのでした。
噴火、泥流と言う自然現象の前には、人間は全く無力で何する術もなくおし流され、人の運命のはかなさを思い知らされたのでありました。
愛馬の想い出
私の家で飼っていた農耕馬が三十八才まで長生きしました。馬の年を人間の年令に換算するのは普通五倍とされていますが、それを仮に四倍として計算しても二十才の馬は八十才になり、三十八才となると人間では百五十二才にもなる驚異的な長命でした。
この馬は、昭和二十年終戦の年に佐々木剛さんから五才で購入しましたが、先方では妊娠していないと思っていたらしいのに、私の家に来てから子馬を産みました。名前は相良の名を取って親馬を相姫号、子馬に良姫号と名付けました。二頭はとても仲良くよく働いてくれました。
戦後農業は機械化が進み次第に馬を使わなくなってからも、家族同様の気持ちで大事に飼育を続けました。昭和五十年には珍らしい馬の長寿と言うことでテレビにも放映されたりしましたが、それから間もなく相姫号は老衰が目立ち始め、記録的な三十八才と言う天寿を完うして死にました。
町の獣医さんの御世話で酪農学園大学に寄贈しましたところ、皮が傷んで剥製には出来ませんでしたが、学術的に貴重な研究資料として骨格標本で保存されることになったのでした。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一