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水田農作業の移り変り

床鍋 正則 明治四十二年二月二十二日生(七十五才)

水田農家の農作業は、冬のうちから秋の取り入れのための俵あみ、縄ない、サン俵作りを済ませたあと、雪上での堆肥運びから始まって、晩秋から初冬にかけての籾摺り作業で終る。
俵あみと縄ない

俵あみは、大抵は女達の仕事で、寒い納屋で湯たんぼをかかえての作業だった。
縄ないは、むかしはすべて手ないであったが、足踏式の製縄機が出来て大いに助かった。そのうちに縄のヒゲ切りのついた改良型が現われたり、動力源として小型水車が出現したので、それまでのつらい作業も大分楽になった。

堆肥出し

雪解け前の堅雪を利用しての雪上堆肥出しは、朝五時頃から始める。堆肥を橇に積み、前で綱を曳く者、後押しする者が力を合せて運ぶのだが、太陽が昇るに従って暖気になり、堅雪もゆるむので、作業はほどほどのところで中止されるのであった。
その堆肥出し作業も、やがて人力から馬に変っていった。暖気で雪触けが進んだ日の夕方、早目に馬橇の通るだけの幅を、ツマゴを履いて踏み込むと、雪は一尺位沈んで締る。また、その雪道にそって、稲株の出るまで適当な雪穴を掘っておく。朝早くから運んだ堆肥は一台を二ケ所におろしていった。こうして耕地全体に万遍なく堆肥を施したものであった。
馬耕
早い年は四月十五日、おそくとも二十日頃から馬耕にかかった。乾いた田んぼに堆肥を撒いて、一頭三分か一頭五分のプラウで、朝六時から夕方の六時まで続けた。田並びの悪いところは一日に五反歩、よいところでは八反から一町部も耕した。
砕土
泥炭地は楽に砕土出来るのだが、粘土地はなかなか砕けないので、方形ハローの上に薪を何本も乗せたりして、馬には苦労させたものだ。そのうちに、鬼ハローが開発された。鬼ハローは通常台の上に乗って作業するが、台に固定された枠部には、木製の回転軸が二〜三本取り付けられ、回転紬には五、六寸程度の先の尖った鉄棒が放射線状に打込まれていて、これが土にささりながら回転するので、砕土効果が高かった。それでも、もっと堅いところでは、一たん田んぼに水を入れるか、降雨の後で土が軟らいでからでないとよく砕土されなかった。
代かき
泥炭地は、水田に水を入れるとぬかり易くなるので、馬にわらじを履かせて急いで馬鍬で代かきをした。それに泥炭地は土に粘りがないので稲株が浮く、そこで下駄踏みというのをやった。一尺に二尺もある下駄の先に縄をつけ、両手で交互に持ち上げながら田面を歩くと、稲株はよく落ちつくのである。
粘りのある堅い水田では、荒代をかいてから二、三日して畦塗りをする。これは、馬耕後に窓鍬で畦の内側を削るので、水もれ防止や、畦の補強のために行うもので、独特の畦塗り鍬を使った。次に臼で搗き砕いた鰊粕や過燐酸石灰など、肥料を全面に散布して仕上げ代かきにかかるのであった。
現在では耕地整理をして、一枚三反以上になった田んぼは耕鋤から代かきまでの作業は、すべてトラクターで行われるようになった。
籾まき
この地帯の稲作りも初め頃には、すべて水苗代栽培であったが、第一次世界大戦後急速に造田が進み、水田経営が本格化する頃には、画期的に能率の高い直播栽培が一般化していた。
種粗は反当一斗二升位、予め十日程用水路の水に浸けておく。
直播器は、「たこ足」と称して、トタン製の浅い粗箱の底から八本のパイプ二列が、たこの足状に伸びているものである。種下しは籾箱に取り付けられた均し板と、セキ板をカタン、カタンと一回操作する毎に、七寸五分角に十六株分が点播されていく。
この作業は大抵女の人が受持ったが、一人一日五反歩から、田んぼが大きいと八反歩も播くことが出来た。
それにしても、当時は代掻きも、種播きも素足のままだったので、冷たくて足の感覚がなくなったり、ゆでだこのように赤くなったことを思い出す。
その後、冷害対策の一環として油紙障子による温冷床苗代が生まれ、つづいて各種の育苗様式や方法の改良変遷を経ながら、今日のビニールハウスによる箱育苗や、田植機の出現進歩によって作業形態は一変してしまった。
泥負虫
水田面積が少ない時代には、全く見られなかった泥負虫が、ようやく水稲栽培が盛んになって来た或る年、突然新害虫の発生加害となって農家を驚かした。
稲がやっと水面から二、三寸伸びた頃から発生食害して、葉を白くしその後の稲の生育を著しくおくらす。府県では、ほうきや柴でこすり落したそうだが、最新の防除法は舟形網ですくい取る方法であった。朝四時から起きて、朝露のあるうちの朝飯前の作業は、意外に体力を消耗するきつい仕事だった。
それが、昭和十年代になってから薬剤防除時代に入った。ニホナードという砒素剤を二重瓶式背負型噴霧器で散布した。ついで薬液を入れた二斗樽に噴霧器を取り付け、長いホースと十二尺位の竹竿の中に金属パイプを通し、その先に多頭噴霧口をつけたのを左右に振りながら進む。更に改良が進み、薬液樽をスキーに乗せて、ポンプを押すと同時に自然にスキーも前に進む。次にはもっと改良された加藤式が出現した。それまでの竹竿を振る代りに、十二頭もついた金属パイプを横に固定したもので、一層省力化されて行った。
イネゾウムシ
この虫も昭和になってからの害虫で、直播田でようやく稚苗が水面に頭を出した頃、稲葉を水際から食い倒す憎らしい虫であった。防除法は、わらの小東を畦に六尺間隔に水面に少しつけて配置し、翌朝わら東に集った成虫を灯油を少し入れた石油罐の上ではたき落とす。後には毎年発生し易い水田には、代掻き時に水面に浮び上る成虫に対して、重油など散布攪拌する方法も行った。
この他、泥ツト虫、イトミミズなど種苗時に大害を及ぼす害虫があって、株立ち不良や生育遅延で間接的に冷害を助長するなど、手痛い被害を蒙ったことも再三あった。
草取り
造田当初は、ひえなど畑雑草は少々あったが、本来の水田雑草がないので草取は楽であった。
ところが四、五年して熟田になる頃から、水田雑草のひえ、ホタルイ、ハリイ、マツバイなど増殖力の旺盛なものがふえ始め、殊に直播では雑草も稲も発芽のスタートが同じだから、うっかり草取が手おくれになったりすると、一面にすき間なく密生した雑草に稲は圧倒されてしまう。
それが、「八反ずり」という手押し除草機が考案されてからは、うね間の除草は解決し、株間と根元だけ手取りすることになって大分助かった。それでも暑い最中のお湯のようになった水田に入ると、とたんにムッとする。ゴザを着て直射日光をさけたが、水面から反射してくる暑さで六尺と進まぬうちに汗が目に入る。腕抜き(肘から手首までの布製のもの)で顔を拭くことの繰り返しであった。
八月一日の村祭りまでに終らせるのが目標で一、二、三番草と三回廻った。六月から七月一杯の長期に亘る雑草との戦いは、素手で四つん這いになっての作業だから、肩こり、腰の痛み、暑さ、睡眠不足も加わるので稲作で一番つらい作業であった。
その除草作業も、昭和三十年代になって除草剤が開発されるに及んで、正に水田経営に一大変革をもたらしたのであった。
出穂
最初の稲作りの頃の品種は、赤毛種や黒毛種ばかりだったが、直播時代になると無芒の坊主、チンコ坊主、さらに改良されて多収良質の農林二十号、富国等が普及されていった。出穂は平年で七月末頃に走穂が出てお盆頃に出揃った。
稗抜き
稲の穂屈み始めに落水して、田んぼの土がややかたくなった頃に、手取りで取り残した稗その他の雑草を二回位抜き草する。およそ一反歩五枚位の田を縦畦にそって進むと片手で持てない位になる。それを家まで運んで根元の土の付いた部分を切り除いて馬の飼料にした。
ハサ(稲架)木立て
稲刈りが近づくとハサ作りをする。一間位毎に縦棒を立て横棒を二段か三段と、ハサ縄を五、六段張って合せて八段かけにこしらえた。縦棒一本か二本おきに強風にそなえて、ツッパリ(斜に支え木)もした。
稲刈り
黄金色に稔った田んぼには、朝早くから家族総出で稲刈りに精を出した。稲刈りの最盛期には小学校も農繁休暇になり、低学年の子供達まで束には出来なくても刈り倒して手伝った。稲刈りの能率は普通六把づつ島立てして一日一反位のものであった。新田で出来すぎになった田んぼは、倒伏の程度によっては一日三畝しか刈れぬこともあった。
稲刈りは、重労働だが収穫のよろこびがあるので、体は疲れても苦痛には感じなかった。
ハサかけ
刈り取った稲は、二、三日して少し乾いて軽くなるのを見計らってハサかけするが、稲刈りは毎日暗くなるまで続けるので、ハサかけ作業は夕方暗くなって稲集めから始める。ハサに近いところは手で抱えて集め、遠くなると十二尺位の縄を二つ折りにした上に稲東を積み重ね、それを肩の上までこじ上げて運ぶ。ハサかけは六段までは一人で、上の二段は台を使って一人が一把づつ上の人に手渡してかける。
秋の夜長のハサかけ作業は四時間以上も続いて、終るのが八時を過ぎることもあった。
稲入れ
ハサで二週間位して乾いた稲は納屋に収納する。馬で運べる所は土橇を使ったが、近いところや、馬の入れないところは二十四把づつ、束ねたものを四個位背負って運んだ。納屋の中は屋根裏までうず高く積み込んだ。
稲扱(こ)き
むかしは、千歯扱きで一把の稲束を四つに分けて引張って扱いた。それが足踏みの「シート式」というのが出来て、一人は稲の束締めをして扱き手に渡すやり方で、当時としては画期的な進歩であった。
品種は毛稲が多かったから扱き落した籾は毛落しといってカラサオ(唐竿)でたたいて、トオシにかけて毛を篩い落した後トウミ(唐箕)にかけて精選した。精選した粒は筵三枚をついだ円型の立て筵に入れていく。七割程溜ったところで縄で帯をしてパンクしないよう補強した。
このトウシかけ作業の時の納屋の中は、ホコリが充満してすごかった。手拭でマスクしても吸い込んだホコリで喉が痛み、鼻汁や痰は真黒く眼も痛む、どこから入るのか体中がはしかくなって、その不快さは堪え難いものであった。
やがて、坊主種が主体になってからは、はしかい不快さも大分緩和されていった。
そして、動力源が人手から足踏み、カラカサ式畜力、天掛け小型水車、石油発動機と急速に進歩し、脱穀機も上扱き、下扱き、一人扱き、二人扱きなど変遷を経ながら、横尾式と言うのが出て来て三尺もあるチェーンにはさんでやれば、自動的に稲は扱き落されて藁は一ケ所にはじき落され、籾も精選され籾つぼに導かれる。防塵装置も出来て脱穀作業は飛躍的に進歩発展したのであった。
籾摺り
そのむかし、籾摺り作業は人力用土臼によって行われた。土白は上臼と下臼から成り、直径二尺五寸位に、厚さ五寸位、床板の周りにそって木と細く薄割った竹で編んだかご状の中に、予め粘土と塩、苦塩汁とを搗き混ぜたものを充填する。摺り合わされる面の歯の部分は樫材を一分位の厚さに割ったものを一定の角度で、五分位の間隔に粉挽臼の目のように粘土に打込んである。
上臼には、籾を入れる桶と枠木が固定され、下臼には固定された心棒が上臼の枠木の中心に伸びている。そして、つり木とやり木を取り付けて人手で少しずつ籾を入れながら上白を何人かで廻す。籾は摺られて上下の臼の間から落ちる。八割位が玄米になるのでこれを唐箕にかけ籾殻を飛ばす、一番口から出た玄米は荒万石(金万石)を走らせて籾を除き、ついで仕上げ万石(糸万石)に静かにかけて完全に籾を取り除いたものを、最後に唐箕にかけて俵につめる。
一俵の量目は正味四斗、俵装は横二本縄で五ケ所、縦縄は二本縄で十文字かけで総仕上りとなる。
なお、動力源(原動機)の移り変りを振り返ってみると、大正八年頃からカラカサと称する(馬廻し)畜力回転動力装置が普及した。高さ七尺位の心棒の丸太から放射状に傘の骨のようにタル本が振り出され、心棒のやや下の方からそれぞれ斜に支え木がつけられている。ただ一本だけ傘の上端から心棒を経て、馬の引きかせのつけ易い高さに斜めに太目の丈夫な桟木が取り付けられた。馬をカラカサの下を時計の針と逆方向に歩かせると、傘の周りに張られたクサリによって、納屋の中の中間車で回転動力に替るのであった。
このカラカサ式は当時としては面期的なものであったが、あまり長くは続かず、畜力もいらない水車になり、更に馬力の強い能率的な石油発動機、或は電化に伴って電動機時代に入って行く。これに伴って籾摺作業も土白から岩田式と言って遠心力を利用した脱穀機が普及したが、これも間もなくロール式と言って二本のゴムロールの回転差を利用したものが登場し、玄米の精選も併せて行う全自動式へと発展していった。
米の搬出
むかしは道路と言っても名ばかりで、砂利の敷かれていない道が多く、運搬専門の馬でも金輪の馬車に五俵位しか積めないことがあった。それが道路も逐次よくなり、馬車から保導車(自動車のタイヤで二輸)にかわり、続いて四輪車になって三十俵以上も運べるようになって行った。
補遺とむすび
稲刈器の端緒は鈴孫式で、手押式の至って簡単な機械とは言えぬ粗末なものから、一条刈りのバインダーになって本格化し、現在の自走型コンバインに至るまで急速な発展を遂げて、刈取り、乾燥、調整の一連の収穫作業は極めて短期間に能率的に行われるようになった。
それにしても、思えば田んぼを専ら四つん這いになって草取りした時代は長く続いた。その頃「外見上稲そっくりな〃ひえ〃をえり分けて殺す薬が発明されないものだろうか」「いくら世の中が進んだってまさかそんなもの出来るわけがない阿呆らしい」草取作業の苦しさに夢みたいなことを愚痴っぽく自問自答したものだった。
ところが、昔だったら奇蹟としか思えない除草剤が現実に開発されたのである。稲作経営の最大のネックだった除草問題の解決は、農家を過酷な過重労働から解放しただけに止まらず、経営規模の拡大発展を可能にすると言う稲作史上に一大革命をもたらしたのであった。
このように、特に戦後著しい科学の進歩によって除草剤を始め、目まぐるしい改善が積み重ねられて行く農業機械を駆使する農作業の変せんは誠に今昔の感に堪えないものがある。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一