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山林の管理と熊

長谷山 辰吾郎 明治三十年九月二十一日生(八十七才)

私は秋田県平賀郡大森町で生れ、明治四十年四月十才の時、父辰之助と共に一家は度道、旭川に住むことになりました。度道のきっかけは、旭川のマル丁と言う醤油醸造業を営んでいる方が倉庫の材料の木挽きの経験者を募集していたので応募し、十戸程の団体で旭川に移住したわけです。
現住地に落ち着くまで
旭川で一夏働き、秋から神楽の旭農場に行き、やまごの仕事をしました。私は年は若かったのですが身体が大きかったので、鋸を引く手伝いをしました。
明治四十二年、上富良野の霜取牧場に転居しました。霜取牧場の菊地さんと言う方が、現在の熊谷さんのおられる処とその付近に土地を三戸分保有しており、本人は造材の仕事をしていて、土地を売るから入地しないかと勧められ、二万坪の土地を買ったからでした。お金の蓄えもなかったので、私は愛別の造村山の飯場の炊事係として働きに出ました。
家族では両親と兄と私の四人が働きましたが、四人で一冬に百円の稼ぎがあるか、なしかでした。
親父は借金の嫌いな人で、親方(菊地さん)にも悪いと言い、早く返したいようでした。最初のうちは買った土地からの収入はあまり見込めないため、私は小間使いや雑役をして二冬かかって七十五円を稼ぎました。
大正五年の冬二十才の時結婚し、子供が二人出来たので現在地に転居しました。秋林松五郎と言う土地ブローカーをしている人から、内地に土地を求めたのでここの土地を手放したいので買わないかと話を持ちかけられたのが発端でした。私はあまり気が進まないまま、父親に価格も安いから買っておけと言われ、買うことに決めました。此の土地は二ケ年で開墾し、なかなか良い畑に仕上りました。火入れの時は、下刈をして隣接地との防火線を切っておいたので、火は境界線迄燃えるとピタッと消え、気持よく焼けたものでした。木が沢山あったので炭焼きをしましたが、生木の処分に因り十二尺に切って積んでおき、夜になって火をつけると二日間位くすぶりながら燃え続けていました。
此処に入地した頃、拓けていたのは物井さんあたり迄で、松井さんは大場さんと熊谷さんの沢の処に住んでおられました。大場さん、松井さんは独身だったので一人では淋しいからボチポチ嫁さんを迎えようということで、大場清一さんは飯村さんの妹さんと結婚、松井さんは秋田団体の方と結婚、家族も増え賑やかになり開拓の成績も上がりました。
山の管理人となる
大正五年に、区長をやっていた五十嵐富市さんが富良野営林署から山の管理を引き受けました。しかし、足が悪いので山廻りは充分出来ず、私が近くに住んでいたこともあって管理を委され、全面積二百七十町の管理をすることになりました。官林からの建築用材や薪炭用材の払い下げが行われる時には、調査のため正月の始めから営林署の役人が五人も六人も富良野から出張して来て、その都度私が随行しました。役人は皆スキーを履いて来ますが、私はスキーがないのでかんじきを履いてついてゆきました。かんじきなんかではついて行けないよと言われましたが、「大丈夫」と言ってついて廻りました。坂を下る時は遅れましたが、上りになるとかんじきの方が早かったようです。
山の管理も戦時中になると、山火事の心配等から管理項目も増えて厳しくなり、毎日の様に山を歩き廻りました。若し敵の飛行機が飛来し何か落下したのを発見したら、直ぐに届けるよう申し度しを受けていたので、随分気を使ったものです。時には缶の様な物や鉄板のような物が落ちている事もありました。
大正五年、六年の二ケ年間は五十嵐富市さんの名儀で管理していましたが、大正八年以降、私の名儀で管理を始めてから終戦後迄長い間委されていました。北海道で三人か四人しか貰えなかった表彰を上富良野から私と工藤信次郎さんの二人が対象になり、感激したことを覚えています。
大正五年の徴兵検査には富良野迄行き検査を受けましたが、私は足に瘤が出来ていたので検査官から「百姓なら出来るだろう、百姓をやれ」と言われて兵役は免除になりました。もし合格していれば村上寛次さんと一緒に満州に派遣される筈でした。足の瘤も検査が終った年に自然にとれました。
有害鳥獣の駆除
熊捕りは二十一才の時から十年位やり、此の間に八頭仕留めました。大正十四年頃と思いますが霜取牧場の処で仕事をしている時、玉萄黍(トウモロコシ)の皮を剥いてエサを掛けておいた処へ、親子三頭連れが来て食べているのを見つけました。朝も早い時間でしたが、早速銃を用意して木の影から見ると、どれが親か仔か分りませんでしたが、五十間位の処迄近寄り親熊と見当をつけて撃つと手応があり、行って見ると幸いにも親熊の方で安心しました。と言うのは親子連れの熊は大変危険で、特に仔に危害が加えられた場合には非常に凶暴になって、返り討ちに会うことがあったからです。
ある時、金子農場に出たということで、生出さんが山口の親父さん(江花では熊撃ちの名人と言われた)を迎えに来たので、私と二人でその晩足跡を追いました。熊は御料林の方を通り、その後溜池を廻って包子玉市さんの処に出て、吊してあった玉萄黍の皮を剥いて全部食べてしまいました。熊は次に升田さんの所で夜が明けたのでしょうか、畑を廻って見ると長さ、一尺二寸、巾九寸もある足跡が残っていました。犬を連れていったので離してやると、熊の臭を嗅ぎつけたのか、学校の落葉林の中に潜んでいるのを見つけ出しました。熊は犬の来たのを知り物井さんの方に逃げようとしたのですが、そちらには既に山口の親父さんが待ちうけていて、これを見つけた熊はとうとう逃げ場を失ったようでした。熊も必死の様子で、一度は畦道の方に逃げましたが人のいるのに気がつき、私の方に再び戻って来ました。
その場を見ていた芳賀の親父さんが、「ぶつかるぞ。熊に食われるぞ」と叫んだようでした。落葉松の枝が茂っていて見透しが悪いので、ガサガサ聞こえる方へ目くら目っぼうにこぎ進むと、目の前に逃げ場を失っている熊を見つけ、やっとのことで仕留めることが出来ました。そばに寄って、あまりの大きさに初めて驚きました。この熊は中富良野村の人が百円で買いとって行きました。
私の使った銃は村田銃で毎年藍札を受けなければならなかったので、面倒とは思いながらも手放すことができず毎年受けていました。この話は大正十四年十一月の出来事でした。
熊捕りのことについて話すときりがないので私の体験した一つの例を挙げましたが、方々から熊が出たと言って達絡を受ける度に山口さんと出かけました。たまには熊獲りに馴れていない方と同行することもありました。十間か二十間の間隔の処で熊に出あった事もありましたが、事故もなく幸い本日迄元気に暮しております。
昭和二十九年頃と思いますが、此の宮林が町に払い下げになり町有林となってからも引続き町から管理を依頼され、又町でも森林の撫育のため職員を配置し共々山の管理に力が入り年々良くなる林相を眺め楽しく管理をしていました。この町有林も役場の都合で昭和四十年代の半に会社に売り渡すことになりましたが、此の山を見る度に苦労して管理した色色の事が懐かしい思い出となっています。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一