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市街地から静修に入地する

中野 モヨ 明治三十一年五月十日生(八十六才)

私は秋田県仙北郡金沢西根村字下関で生れました。
飛沢病院の清治先生の郷里から二里位離れた所に私の実家が住んでおりました。その頃飛沢病院には賄婦等として、先生の郷里から来た婦人が住み込みで働いていました。
私の姉もその一人として働いていましたが、大正四年頃、飛沢先生の世話で星野秀治さんと結婚しましたので、その後は私が代りに勤めることになった訳です。
清治先生は、気持の大きな方で、村のこと、病院のこと、村民の健康のこと等いつも先々を考えて実行された方でした。乳牛を飼育して、牛乳を患者や近所の人に飲ませ健康の保持増進を図るため、郷里から高橋市造さんと言う方を雇い、乳牛の世話をさせていました。更に牛乳の処理施設を作り、入院中の病人に飲ませた外、市街の方にも配達していました。
豚、鶏等も飼われていて、肉、たまごは自給していました。私は鶏の世話を担当しており、種類も白色レグホン、ロック種などでした。
馬も飼っておられ、馬は乗馬として、先生の往診用に使っていました。その外、豚、種牡馬や競走用馬も飼育していました。今思い返してみても実に多くの生き物が飼われていました。
先生は、使用人の面倒を良く見られた方で、私が十九才から二十二才まで四ケ年勤めた後、先生のお世話で同郷の中野第八と結婚しました。
土地を買ったからお前達百姓をやらんかと言われ小田島養助さんと夫と二人で分けて入地し、農業を始めました。
場所は、今私が住んでいるすぐ近くの西十二線の中沢凝粉工場の所でした。その頃野田さんと言う店がありましたが、後は美瑛町に転居した模様でした。
畑三町と水田一町七反の経営でりんご等も十本ほど植えましたが、病虫害の防除もせず、植えっ放しでした。飛沢先生は枯れたりして、結実せず荒してあるのを見て、当時役場に勤めておられた沢西さんが近くに住んでいるので消毒をたのんでくれて、時々来てくれたりなどしたので、多いときにはカマス一袋に余るほどの収穫がありました。
その頃の西十二線の手前に神社があって、平井さんが住まわれ、その手前に志賀さんが住んでいました。
飛沢さんの土地で四作収穫してから、今の静修に土地を求めて転居しました。私が静修で農業を始めたころ、飛沢病院では自動車を買いその時乗せていただいたのが、私が生まれて初めての経験であり、思い出の一つとして今でも当時の嬉しさが甦ってきます。
その頃のお正月の初売り出しには、私の処は市街地から十粁も離れていますので、暗いうちに起きて馬橇で出たものです。マルイチ呉服店や鹿間呉服店の前は真黒になって人が集まっていたのを思い出します。
爺さん(夫故中野第八)は行政区長や民生委員などを長く勤めていましたので、人とは違った色々な経験をしていました。
戦後東京からの開拓者が十九戸割当になり、静修開拓地に入植することになった時には、私の家が近かったせいもあり食事の準備などのお世話をしました。その方々は東京から疎開されて来た方で、旭野、津郷、江幌にと別れて行きましたが、馴れない仕事で相当苦労されたようです。
今では全戸が市街地に転居し、夫々の仕事に就かれて生活をしています。今申し上げた人々は入植迄一定期間各部落で暮し、その後全員が静修開拓予定地に入地し大変にぎやかになりました。
爺さんは民生委員などの関係で色々相談を受けていた訳で、それで私も皆様に接する機会も多く、家庭の事情なども多く見たり聞いたりしていました。
特に年頃の娘さんの縁談話を聞く度に、秘かに幸わせを祈っていた次第で、現在その方々の幸せな生活状態を見たり聞いたりする度に昔のことが懐しく思い出され、我が事のように喜んでいます。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一