郷土をさぐる会トップページ     第04号目次

東中倍本地区の開拓

高橋 とみえ 明治三十二年七月十日生(八十五才)

父は高橋多市と言い、岐阜県から村の有力者青木利一氏の世話で明治三十一年渡道しました。私はその三女として中富良野東二線北七号で生れました。戸籍には明治三十三年十二月二十九日生れとなっているのですが、ほんとうは三十二年七月十日生れと聞かされています。その頃の役場は岩見沢にあって(両親はそう言っていた)、行くのが大儀だったのと生れた時小さくて弱かったので、この子は長生きしそうもない、それに女の子だから兵隊検査があるわけでなしと放っておかれたのだそうです。しかし、なかなか死にそうでもないので生後一年半振りで出生届したと言うのです。
その頃は、これに類したことは沢山ありました。梶野さんでは、上の男の子が死んだが届けませんでした。そして、弟が生れましたがこの子も無籍、ところがその弟が十三才になったとき兄の兵隊検査の通知が来たのです。仕方なく弟を検査に選れて行きますと「こんなの子供でないか」と言われましたが、「うちにはこの子しかいません」と言い通したのでした。
私は中富良野小学校に入学したのですが、虚弱児でよく父に送って貰ったものです。その後鹿討分教場が出来て通学区域が変更されましたが、そのまま本校に通うことにしました。
どこの農場も開拓当初の小作人は貧しく、定住出来ずに転々と移動する人達が多く、私の家もその例にたがわずあちこち移り歩きました。
東中へはじめて入地したのは私が十五才の時、東十線北十九号の森崎さん(今の神谷静馬さん)のところを、片山善平さんが買ってその小作として開墾に従事したのです。面積が一町歩位ではどうにもならず、十七才の時だったと思いますが今の小柴さんの隣接地で、出口さんと言う人から二町歩買って開墾にかかり、四、五年してようやくプラウが入るようになりました。(成功検査は出口さん名儀で受けた)
この土地は後に瀬戸市三郎さんに売ってしまいました。その頃、橋野農場の小作人の離農跡地(開墾半ばで放置)があちこちに残っていて、どこでもかまわず五反、一町と見つけては作付しました。
そのうちに、高橋六蔵さん(東八線の市街に移転)の出た跡地が広くて住宅も少しましだと思ったので、そこに移って二、三年暮らしましたが、どうもその土地と住宅にも馴染めず、またしても転出することになってしまいました。(跡地は農地開放されて佐渡団体の菊地慶太郎さんが入られた)
橋野農場のほぼ中心に神社があって、皇太神が祭られていて、その近くに農場の事務所があり、小橋彦七さんが監督をしていました。(後に佐渡団体長の渡辺長一さんが住んだことがある)農場経営の一切を小橋さんが取り仕切っておられたので、私は農場主の橋野さんと言う方の顔は遂に見たことがありませんでした。
現在地に入ったのは、私が二十二才の頃、もと林利三郎さんがおられた土地で、その後橋野農場も開放になって自作農と言う私どもの夢が実現したもので以来六十数年住んでいます。
尤も、開放に当ってはちょっとした問題がありました。それと言うのは、長野農場の長野さん(私方と縁戚)に頼まれて既に名儀を貸してあったので、ここの土地をほしいと思った時に自分の名儀が使えず因ったことになってしまったのです。
そこで橋野農場と西谷農場の境に住む、元村会議員の五十嵐さんから名儀を借りることにしました。借り賃三百円と言うのを百五十円にまけて貰って、やっとこの土地を他人名儀ながら実質自分の所有地にすることが出来たのでした。
私がここに住むことになった頃の人達には、神谷清五郎さん、佐藤根さん、小柴さん、中江藤助さん(小柴さんの傍で店を持っていた)、上の方では勇さん、そして長野農場では一番奥に奈良さん、駒井さん(牛を飼っていた)、次が高橋重雄さんの通作地、続いて渡辺保さん(長野農場の監督)、山崎さんそれから原野からの通作の人、山崎さん、長谷さん、久保さんがおられました。
橋野農場から奥地にかけて、沢山の大木が生い茂っていて、盛んに切り出された時代がありました。
椴松、蝦夷松が多く、角材にして中土場までの山出しは玉びき、中土場から市街地までは馬橇に振りつけして搬出されました。
私の叔父(高橋梅太)は、西谷木材の前身の松岡造材の時からずっと帖場をしていましたが、今の実広さんところで店も出していました。叔父は帖場の給金だけでは食べていけないと西谷仲次郎さん(今の神谷忠さんところ)方で雑穀買いもしました。
また加藤さん(中村勝次さんの実父)が今の重網さんのところで飲食店をしていたのですが、中土場の傍でもあるので大繁盛していました(うどん一杯三銭五厘)。その隣りに片山善平さんの「みのや」という店がありました。
後に神谷清五郎さんが西谷木材の責任者になったのですが、侠客肌の信望の篤い人でありながら帖簿をつけることが不得手で、息子の加津馬さんが成人するまでは、勇平八さんが補佐役を務めたのでした。
私が結婚したのは二十九才になった時で、夫は霞と言って三つ年下だったのですが、私が四十二才の時に若くして亡くなりました。夫は長野農場の長野さんの甥で札幌の紙問屋にいたのですが、口が重く商売向きでないと言うことで農場の監督だった渡辺保さん方の農業を手伝っていたのを、神谷清五郎さんの御世話で婿に入ってもらったのでした。
当時は、ほんの少し山へ入るだけで木が茂っていて、時には相当拓かれた所まで熊が出ました。橋野農場のような山奥で林や笹やぶが沢山あった時代でも、私には熊に出会ってびっくりしたような経験はありませんでしたが、とうきび畑を荒されたり、西瓜畑で大きいのを片っぱしからつぶされたことはありました。
それでも、ずっと後になって長野農場の奈良さんの跡地を耕作しに行ったときのこと、野うさぎが気が狂ったみたいに走って来るのを見ました。とたんにその後方の笹やぶでガサガサ音がするのです。犬にでも追われてるのかと思ったのですが、よく見るとなんと親子連れの熊。私達は恐ろしさのあまり思わずその場に立ちすくんでしまいました。熊は私達の方をチラッと見たような気がしましたが、兎の方に気をとられていたのか私達からそれて走り去り、危うく難を免れた一瞬の出来事でした。
橋野農場に住むようになってから、風害と水害にたびたびみまわれました。はじめての水害の経験は昭和八年七月だったと思いますが、川向いの水門がこわれてベベルイ川の水がどっとあふれ出て、「水害だ、水害だ」と叫ぶ声をききながらも「まさかこんな山に水害なんかあるものか」と一瞬信じられない思いをしたのを覚えています。
開墾が進むにつれて十勝岳の吹き下し風の通り道のこともあって、毎年のように風害にみまわれるようになりました。こんな経験もありました。昭和何年頃だったか、たしか七月三日のこと、小豆の新芽が出かけたところで風にやられてしまいました。部落の人達が皆で見て廻ってその対策を話し合っていましたが、私はすぐに小豆の一株毎の間に手亡の種を播きました。すると間もなく八日に二番風が吹いて、ようやく生き残っていた小豆も全滅しましたが、幸いにも追い播きした手亡は風の後揃って発芽してくれて、その年の秋には出来がよくて霜にやられながらも三俵半穫れました。風害対策はその時期によって手当が違うので、手亡、ビルマいんげん、蕎麦など余分な種子をいつも準備しておいたものでした。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一