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橋野農場に入植して

瀬戸 市松 明治三十一年四月二日生(八十六才)

私は石川県生まれで、父の名は市三郎、北海道へは両親に伴なわれ私が三才の時渡ってきた。初めは岩見沢に入り、ここで十年程生活し、上富良野へ来たのは明治四十二年、私が十二才の時であった。
橋野農場へ
私の家が橋野農場に入った時は、管理人の沖長小右エ門と言う人が一、二年前に来たと言っていたが、私の家と一緒に入った同じ石川県の武部為次郎さん、福田和三郎さんの三軒が開拓としては一番早い入地であった。
そのあと、大屋さん、高山さん、大上さん、畑喜太郎さんも早い方だったと記憶しているが、武山さんは網走へ、高山さんは富岡へ、大屋さんは斜里へ、大上さんは網走へ転出され、畑さんは富山県へ帰ってしまった。
私達が入地してすぐに管理人が交代した。沖長さんが年輩と言うことで引退されて宮城県へ帰られたからである。
代って石川県から橋野さんの縁故者で小橋彦七さんが来られた。小橋さんは後に管理人を辞めた時点で橋野さんから報酬として、現在の佐藤つりぼりの上方百五十間程のところで一戸分をもらって家を建て、数年間は橋野に止まったように思う。
橋野農場の事務所は、倍本道路を神谷清五郎さんの前をまっすぐ奥へ行き、右カーブのつき当り附近にあった。
農場主の橋野安太郎さんは、岩見沢の金子農場の管理人もしていた関係か、農場のことは管理人任せで、めったに顔をみせなかった。
入地前後の模様
入地する前年の明治四十一年の秋に現地に来て開墾小屋を建てた。はじめ市街の今のかくはたスーパー附近に大きな空き家があったので、福田さん、武部さんと三軒で借りて家財道具を詰め込んだ他、私と福田さんの両家族は共同の仮住まいとしたのであった。
それから、ほぼ一冬がかりで家財道具を人間が背負って橋野の小屋まで運んだのであるが、最初今の富原の伊藤さんか阿部さん辺りにあったオンコの大木の下を中継地に選んで、市街から一日に二回運んだ。次は、橋野の小屋から中継地までを荷物を背負って一日に二往復したのであった。
雪深い冬であったが、このホロベホツナイ川の沢から後の長野農場の高台に出て、橋野農場の事務所に向う経路は、幸いなことに山本木材の造村山のタマ道でもあったので、橋野から市街地への往来は殆んどこの道が頼りであった。尤も、斜線道路、十九号道路から倍本を廻るよりは、半里以上も近かったからでもある。
開墾生活
橋野農場との契約は、一反歩につき開墾料を三十円もらえると言うものであった。結構よい値段だと思ったが、作物が作れるようになって初めてお金をもらえる仕組みだったので、どうしても三年はかかった。
しかも現金ではなく、松岡雑貨店から生活に必要な日用品などを現物でもらうと言うもので、橋野農場と松岡さんの間でそのような取り決めがなされていたのである。当時今の十八号の街には店はなく、九線十七号と十六号の間にあった松岡商店まで行くしかなかった。
入った土地は大木が生い茂り地味は比較的良い方であったが、笹が多くその上石だらけだった。笹を刈り払って火入れしたあと、島田鍬で一鍬づつ掘り起してから窓鍬で耕した。はじめの年は菜種やそば、稲黍をばら蒔きにしたのであった。
開墾料をもらえるといっても、それまでの生活に要する費用や種子や農具を補充していくためには、この開墾料を先食いしていくしかなく、自給自足できるだけの収穫を得られるようになるには入地から五年はかかり、こんどは年貢を納めなくてはならないので、小作人は貧乏暮らしの連続であった。
森農場
橋野農場と隣接して森農場があったが、境界らしいものはなく只木が茂っていた。森農場に入地した人は七、八戸あったが、ろくに作物は穫れず飲料水もなくベベルイ川まで汲みに行かねばならないため、実際には開墾するまでに至らず、木だけを伐っておしまいだったのではなかろうか。私は森農場が山火事で焼けたのを知っているが、焼けたあと拓いて畑になったのを知らないのである。
森農場の監督さんは誰だったか分からないが、事務所の玄関に但木と言う苗字が書かれてあった。その人は中富良野の新市街で小さな木工場を経営していて、農場の木材をこの工場にも出していたようであった。
橋野農場から現在地へ
橋野農場からも転出者が続出して、福田さんが内地へ帰ったあとは遂にうち一軒だけになった時代があった。そうなると人間は気ままなもので、ものがよく穫れそうな畑をみつけては片端から作付した。
豆成金の時は、青豌豆を百俵位穫った。青豌豆や小手亡が一俵十円から十六、七円もしたから、一年の収入が千五百円にもなって、一挙に借金を返済して一息ついたことが思い出される。またこの好景気の機会に土地を買って自作農になった人も沢山あったが、中には思わぬ大金に浮かれて料理屋や飲食店に入りびたって、あぶく銭身につかずのたとえ、忽ちもとの木あみになった話もその頃のことである。
私の家では、農場が開放になる少し前、三百間程下の倍本へ降りて今の北さん、小柴さんの右手の山で二町ほど作ってみたが、面積が足りないので思いきって、原野の西一線北十七号で土地一戸分を買い、それと同時に現在の土地の小作株を村中高吉さんから譲り受け、大正八年に移って来た。地主さんは松浦市兵衛さんであった。前年の七年から造田の準備のために夏作ばかり作付して、畦付け作業も行ったりした。
造田して、はじめて作った稲は大坊主と言う品種で全部直播とした。新田の稲は出来過ぎや出来おくれて倒れてしまい、収穫は青米で反当四俵位のものだった。それでも水田経営の喜びは大きく、産米の味も当時としては良い方だと思った。
あとがき
考えてみると、私達がこの土地に入地してからでも六十数年も経った。造田から始まって、戦前、戦中、戦後、そして国の経済が大きく発展する中で、農村環境も随分変ったものだ。現在は息子達の時代であるが、我が家も、それぞれの時代の要求の変化に対応するために、いろいろ苦悩しながらも努力して前進して来たと思う。
五町歩、二百俵台の出荷から、十二町歩、出荷目標千俵も夢ではない。このようにその規模に於て、経営の内容に於て、近代化し発展を続ける姿を見ていると誠に今昔の感に堪えないものがある。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一