郷土をさぐる会トップページ     第04号目次

江花の開拓と土木請負業

故 佐藤 芳太郎 明治三十一年十二月十六日生(当時八十四才)

私の父は品治と言い、香川県三野郡(現三豊郡)財田町に生まれ、北海道開拓のため明治二十五年旭川屯田兵の家族として移住しました。小樽に船で着き滝川迄汽車で来て、滝川から旭川まで二泊三日を要し歩いたと聞かされていました。
その頃の旭川駅付近には、家らしい家は四軒しかなかったと言っていました。内地の暖かい土地で育った父はももひきも穿かずズボン一枚のため、薮に入って虫に刺されると化膿すると聞かされていたので、薮に入る時は棒で叩きながら入ったと言っていました。
東旭川村の屯田兵村で私は生れました。場所は東旭川の裏番外地で表通りには商店もありましたが、私の住んでいた所は北三丁目と言い今の停車場通りになっています。
明治三十七年、私が七才の時、上富良野村の江花部落に入植しました。江花では六軒目と言われ今の高橋春雄さんの横の川をはさんで右側でした。平地は造田し稲を作りましたが、その年は種籾もとれず東旭川の親戚から種籾をわけて貰い、次の年は六俵収穫することが出来ました。
江花で一番早く水田を作った方は水谷国太郎さんで、私の処は水田一町と畑一町の二町を耕作していました。子供達を市街地の学校迄通わすのは遠いので、学校を建てようと部落民一同協議して、すぐ右側の中川八次郎さんの家を借り受け補修、教員住宅を含め二十九坪五合の仮校舎に農場内の子弟二十五名を収容し、上富良野第一教育所として設立認可を得て授業が始められたわけです。(註 明治四十一年七月十三日開校)先生は市街地の学校の横田豊吉先生が派遣され赴任されました。その時、私は三年生でしたが、大正二年に校舎は移転新築されました。
その後、伊藤先生が子息と二人で赴任住み込みで教えてくれました。その先生には私は卒業するまで教えて貰いました。
その後生徒も増えて狭隘となり、今季節保育所を開設している処に、新校舎が移転建設されたわけです。今は西小学校と統合し、その校舎も体育館だけが淋しく残っています。
大正五年と思いますが、母が青豌豆を青いうちに食べようとわずかの面積に作りましたが、残った分を精選して市街地に売りに行きました処、その頃豆類が暴騰し、青豌豆一俵で白米一俵と味噌四貫一樽を買ってまだ釣り銭を貰い、子供ながら青魂豆っていいものだなあと思ったことを覚えています。
入植当時の食糧
麦が主でしたが、弁当には母が米を少し混ぜて炊いて詰めてくれました。ある時親戚に行くと、トウキビをひいてから鍋に入れ、て何度も炊き直して食べていました。家では母がトウキビをひき臼でひいて篩で通した粉を団子にして、おつゆ汁にしました。そうすると大変食べやすかったのですが、其処では残った粕をご飯に混ぜて炊いてくれました。それは見た目には黄色くてすごく美味しそうでしたが、食べるとジャゴ、ジャゴして食べれるものではありませんでした。おつゆだけ食べてご飯は投げてしまったこともあります。
私は尋常小学校六年を卒業してからすぐ、馬で炭運びをして現金の収入を得ました。
大正三年私が十八才の頃、旭川の第七師団が演習のため江花部落で露営をした事がありました。その時区長から炭を持って来てくれと連終を受けましたが、秋なので持っている人がなく、青年で手分けして捜したところ、稲場さんが炭釜に詰ったまま保存していたので、急いで袋に詰めて山の下の空家と聞いて届けに行ったが隊の所在が分らず、一晩中炭をかついで捜し廻ったが遂に見つからず、から戻りしたことがありました。
その頃芳賀さんが元学校のあった裏の沢に住んでおられ炭を焼いていて、岩月の婆さんと芳賀の婆さんが手橇に二俵づつつけて、毎日市街地迄売りに行っていました。
転業の動機
大正七年東旭川で請負業をやっていた叔父のところへ、私と家内と弟の一郎と雪治の四人が手伝いに行きましたが、仕事の切れることがあったので、桜田農機具製作所の手伝いもしました。手伝っているうちに作り方も教わったわけです。
市街地に出て農機具を作る
叔父の処で習った土木請負と農機具の製造を始めるため上富良野に帰り、大正八年江花を出て市街地に居を構え、兄弟三人で脱穀機と小型の三尺の天かけ水車を作り開業しました。その年に東中、西中、美馬牛等で二十個位作りました。人のやらない仕事を心掛けてやったのが当り喜ばれました。脱穀や籾摺りの畜力用カラカサも八台程作りました。
馬橇でスキー客を輸送する
大正十二年飛沢清治さんが吹上温泉を経営する様になってから、スキー客の輸送を依頼されました。馬構で一合に三人乗せて、箱の中に保温のための湯タンポを入れ上を毛布で覆い、十八粁の行程を四時間程かかり運びました。私が主任となり、飛沢さんから連絡のあった時間迄に駅前に馬橇の台数を揃え待機したものです。
ある時、雪が五十糎程降った朝お客さんを山の温泉宿迄送っての帰り道、途中迄来た時馬が急に跛行しだしたので、これは大変だと思い馬橇から降りて馬の足を見ると足の関節がはずれてプラブラになっていました。山の中で、人を呼びに行くにもかなりの道のりがあります。大声を出しても誰もいない、途方にくれて無意識の中で馬の足を私の膝の上にのせ両手で押えこやると<Rツと言って入ったような気がしましたら、不思議に馬は歩き出したのでホットしました。人間の脱臼のようなものでないかと思いました。
十勝岳爆発
スキー客の輸送は冬場の仕事でしたが、夏は建築の仕事をやっていて、丁度マルイチ呉服店の建て直す前の、住宅の基礎工事をやっている時でした。建前までの日数が少ないため、その日は朝から雨降りでしたがコンクリート打ちを始めました。雨の中で作業を進めましたが、とうとうずぶ濡れになって体の中を水が流れ出したので、これじゃどうしようもないと言って、少し早いけれども十一時頃昼上りにしました。
午後雨が小降りになったら仕事に出ようと言っていたのですが、あまりひどく降るので誰も出てきませんでした。
午後四時頃だったと思いますが、十勝岳爆発災害の知らせは弟の雪治によって告げられました。雪治はその日、佐藤敬太郎さんの向いの岡和田さんの建前があり御神酒が出て一杯飲もうとしている時、どこかの若者が大声で「水害だぞ」と叫びながら馬を飛ばして知らせているのを聞いたのです。弟が帰ってきて「姉さん早く逃げないと水で埋まるぞ」と言って皆で田中山へ避難したのでした。
消防団員として任務につく
私は消防団本部に急いで仕度をして出かけました。駅前集合と言う組頭の号令で駆付者全員が整列、この水が今後どの様に増水するのかわからない、これから水源地を調査に行く、消防から三人志願せよと言われ、決死隊を組織すると聞いて誰も行くと言う者がいませんでした。「佐藤出ます」と言うと、「三野も出ます」「福屋も出ます」と言って三人が志願しました。行く途中、二十七号の道路わきで南川の弟の奥さんが子供を背負ったまま木につかまって流れて来たので急いで引き上げ、市街で住所と名前を聞いているから其処に行きなさいと指示しました。ぬかるみを歩いて行くと西二線の高田信一さんの土地の山を崩した処で誰かポカンと立っているので近くに行くと、南川さんでした。「うちのおっ母助かったって……ああ」と言ったきり、ポロッと涙をこぼしてそれっきり何も言えませんでした。
尚進んで行くと、全伊藤木工場の親父さんが長い着物を着て一人でつっ立っています。「おい、俺の家あるか」と繰返し家の方ばかり眺めているので「大丈夫だ。あるから心配するな」と言い聞かせてはみたものの、我が家を心配する気持は身にしみてわかったので「行くのなら気をつけて行かないと駄目だぞ」と注意して見送ったのです。
更に進み、日新の第一野生園の処まで行き、水位を調べていると、見ているうちに水嵩が一米位、すーっと引いて大きな石がゴロン、ゴロンと転るのが見えたので、此の分なら増水の心配がないと判断、報告のため戻ることにしました。
本部に戻り市街の警備につきましたが、中堀病院(今の渋江病院)の前に板囲いがあり、其処へ遺体が次々と収容されるのを見て心が傷みました。
責任観念に燃える坊守
今の高山建設のあたりに専誠寺があり、ご住職はたまたま当日花祭りの寄附を集めに市街地に出ている内に災難にあったのでした。お坊さんはさかんに「うちの婆さん一人で留守をしているので、生きているか死んだか分らん」と心配しているので、私を含めた消防員四名が線路伝いに一様子を見に行くことになりました。しかし線路を歩いている内は良かったのですが、線路から下に降りると泥流の深みになっていて、重い装備を持っている上に刺し子のズボンに半纏を着ていたので、雨と泥水でだんだん重くなり、やっとの思いでお寺に辿り着くと、阿弥陀様の前に畳二枚敷いてちょこんと座っておられました。
寺は凹地のため泥水でいっぱいでした。大分水も引いたので市街の方に避難するよう言ったのですが、「私は阿弥陀様をお護りする責任があるので行きません。水だけ持って来てほしい」と頼むのですが、私共も半纏の重みで自分の身体を動かすのがやっとと言う状態で、再びここまで水を運んでくる約束はできない旨を説き、無理に市街に連れて帰ったのです。
帰路は線路の方が深かったので国道を通り帰りました。太い丸太を上ったり降りたり、ゴロゴロ石のある川原の様な処を通ったので、気が付いてみると膝から下は傷だらけになっていました。
あくる日は警戒のため火の見櫓で消防士二名が見張りをする事になりました。「もし、二十六号道路の方から泥流が来たら鐘を叩け」と指示され、私は足を痛めているので登らなくても良いと言われましたが、人手の足りないのは充分に分かっていたので、山口君と一緒に登り見張りの任に就いたのでした。
お昼頃私共の見張りをしている下で、山口の親父さんが何を勘違いしたか「二十六号から泥流が来たぞー」と叫んで歩いたらしい。そんな様子もないのに五丁目橋を右往左往して渡る人がまともに見え不思議に思って、後で山口さんに聞くとなんであんな事を言ったのか分からないと言っていたが、幻覚と言うのでしょうか、大騒ぎとなった訳でした。
土木建設の仕事が本業となる
当時の市街の状況は駅前に∴謾V口と言う飲食店、今の≠フんきやの処に¢コ山と言う飲食店等、マルイチ木工場付近に五、六軒の店が集まっていてにぎわっていました。しかし、このあたりの地盤は悪く、フクヤ商店あたりは湿地で建物の基礎を作るのに掘ると、草の根ばかりで土らしい土はありませんでした。
災害後は主に土木事業を手がけるようになり、鹿間呉服店(今の長沼商店)の石蔵も私が請負って仕事をしましたが、泥炭地なので普通の工法とは全く違った方法で実施しました。私の工法は土地の質と建造物によって砂利を入れる探さを決め、玉石を充分入れて固め、その上をコンクリートで固めるもので市街地の土質を大体覚えていたのがこんなところに役立ったのでした。
マルイチ雑貨店と杉本さんの間にある石蔵も今は改造されて店になっていますが、あの蔵の基礎は幅一米二十糎、深さ一米二十糎に掘ってそこを六十糎毎に楢の杭を打ち込んで固めたものです。最初は径八糎、長さ三米位の杭を打ちましたが、何の抵抗もなく簡単に入るので、更に一米二十糎の杭を加えてみましたが同じで、余り軟弱なので試しに四米程の鉄筋を刺し込んでみると片手でズボッと刺さってしまうのです。
そこで杭をいくら長くしても同じと考え二米余りの杭を打ち、間に玉石を詰め、杭の頭に丸太本を二つ割にして二通り並べ、その上に美瑛町の軟石(一米二十糎)を並べ、更にその上にコンクリートを打って基礎を作り石を積み上げたのです。費用も嵩みましたが、発注者も希望するので、その様に施行し大変喜んでくれました。私も費用はかかっても、納得のゆく仕事が出来たので満足でした。
上富良野橋
涙椅(上富良野橋)を現在の位置か五丁目に架けるかの意見が対立し、双方譲らず東区長赤川倉一郎さん(西富区赤川fさんの祖父)西区長、故佐藤敬太郎さんが大変ご苦労してまとめられ現在地に決ったと聞いています。橋の工事は高坂幸治さんが施工しましたが下流の水門の工事は私が請負って施行しました。
この水門の工事は、最初鈴木さんと言う人が請負ったのですが、地盤が砂地のため何度根掘りしても水が漏れてしまい、三回も工事を仕直してもうまくゆかないのに業をにやした部落では、こつこつとでも自分達でやろうということになり、私に相談にきたのです。土質や工法について説明したところ、身のほど知らずが理解できたのか部落直営は止め、結局のところ私が請負うことになったのです。
その工法は水を止めないで、堤防を切って古川の方へ水を流し、川の中に型枠を入れ、空ねりのコンクリートを詰め込むものでした。出来上ってから型枠を外した処、コンクリートが濁っていたので発注者は「あれじゃコンクリートは固まらないじゃないか、お金は来年でなければ払えん」と言います。私は「そんな馬鹿な話しが何処にある。何のために監督がついたのか」と言うと誰も口を開かないのです。私がいたのでは貴方々話しにくいだろう。明日又来ると言って別れて家に帰り、次の日行くと「いやあ、我々が悪かった」と謝まってくれ、部落の人達も私の仕事を理解してくれて大変嬉しかったことを思い出します。
同業者では山中さんが、私より二、三年前に上富良野で一番早く始めていましたが、人夫はあまりいなかったようでした。あの人は肥満体なので高い所は駄目で、人夫も高い所が苦手な人が多くいました。
伊藤木工場があっち、こっちの請負をやっていた頃、江幌小学校の建前の際、伊藤さんから私に行ってくれと頼まれましたが、私はあの学校は山中さんが基礎工事をしているのを知っていたので、同業者の礼儀として建前になって私にやれと言ってもゆく訳にはいかないと言うと、山中さんには高い所に登れる人が誰もいないので、是非やってくれと頼まれ、私が建前の仕事だけを引受けたことがありました。
私が建てた建物で想い出されるのは、前の上富良野中学校、東中中学校、専誠寺、明憲寺の釣り鐘堂等です。今の明憲寺の釣り鐘は、戦時中現在地にあったものを軍に献納したものですが、終戦となり第七師団に保管してあったものを貰い下げし、現在の様に元の位置に釣したものです。
後年は造園工事等も請負い、新築された家庭の庭も数多く造りました。家族の人々には喜ばれ楽しい仕事でした。
近年は盆栽を作り庭いじりに専念、余生を楽しんでおります。
(註) 昭和五十七年、佐藤芳太郎氏よりご投稿をいただき、第三号に登載すべく作業を進めておりました処、昨年春健康を害され、入院されたとお聞きし一日も早いご快癒をお祈りしていましたが、近代医学の粋と、ご家族の方々の献身的ご看護の甲斐もなく、五月二十日ご逝去なされ誠に残念に思っている次第であります。
佐藤翁のお人柄を偲び、上富良野発展のために残されたご功績を讃えここに謹んでご冥福をお祈りする次第であります。
編集委員 加藤  清

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一