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旭野の開拓と婦人

多田 ナヲ 明治三十九年九月十八日生(七十八才)

旧姓は佐藤、四国の徳島で生まれました。多田の家とは内地にいた時、道路向いに住み隣同志の間柄でした。多田の方が先に北海道へ来ていて広くて良いから来ないかと言われ、私が五才の時家族と共に北海道に渡りました。
上富良野へくる前は倶知安と喜茂別に住んだことがありましたが、倶知安は既に大分拓けていました。
近一(夫、昭和五十三年病没)とは大正六年十二月に式だけ挙げて、結婚したのは翌七年の春、近一が二十二才、私は二十才の時でした。
こちらに来たのは大正七年の三月で、多田牧場へ入りました。
(註 大正五年〜十年は多田牧場で、大正十年に所有者が変わり藤井農場となる。以後文中は後の名称「藤井農場」で統一する。この地区は現在自衛隊演習場となっており地名は残っていない)
ここは薮だらけの所でしたが、前年のうちに近一が通ってきて、どうにか人が入れるようにしておいたようです。
藤井農場では七年作りましたが、後の二年は中ノ沢に移って通って作りました。中ノ沢には太さが六尺もある大木が沢山生えていて、今考えるともったいない話だけれど、みんな切り倒しては燃やしてしまったものです。藤井農場の方にはあまり木は生えてはいませんでした。
こちらへ来て苦労したことと言えば、なんと言っても島田鍬で一鍬ずつ荒地を手起こししたことで、寝る暇を惜んで働いてもせいぜい一日に二畝位しか耕せませんでした。力を入れて起こせば土にかくれた石に当って鍬先きがつぶれる、力を入れなければ耕せない。ヨシ地は簡単に鍬がささるので楽でしたが、細かく刻んで砕土しないとだめだったので少しめんどうでした。
三年位たって、プラウが入るようになってからは一段と能率も上がり楽になりましたが、しかし、うちの馬にはやんちゃなところがあって、しばしば手こずることもありました。土の中に残っている笹や木の根を切るためにプラウの先にナタをつけて耕したりしました。石のない所なら二年目から相当な収穫がありました。
藤井農場にいた時は、中ノ沢の間の高台まで作りました。豆を蒔く時は湿り気がないと芽が出ないので、雨の少ない年には夜露をたのみに、月明かりで豆を蒔いたこともありました。月が入って暗くなったら家に帰って仕事着のまま横になり、明るくなりかけるとまた出て行って豆を蒔きました。このあたりの畑はハローをかけても粘土地がこなれないので、鍬でたたいて歩きました。
中ノ沢へ移ってからは馬鈴薯を作り、澱粉工場を始めました。夫は喜成別時代から工場を作りたい希望を抱いていたようですが、子供がたくさんいるし家も狭いので広い所でやらなくちゃ駄目だ、とよく言っていました。馬鈴薯は多い時は二十五町作りました。七千俵の馬鈴薯を原料にして、澱粉を千八百袋も出荷したこともあります。
中ノ沢というのは熊の多い所で、今の自衛隊の弾薬庫のあるあたりは熊の沢≠ニ言われてどれだけ出たかわかりません。それに、旭野は大風がよく吹く所でした。
藤井農場で古い人は宮下さん、成瀬さん、奥の方には森谷さん、松岡さんなど今の松浦さんのいるあたりにおりました。私もだいぶ奥の方でしたが、沢の入口の方にはもっと沢山人がおり、大正十四年には八十五戸程にも達したので、川には橋もかけられ交通の便も次第によくなりました。しかし橋と言っても、丸太を二本しばったような粗末なもので、大雨で川があふれると渡れなくなることもたびたびでした。
家畜は緬羊を入れたこともあり、緬羊の毛で毛糸を紡ぎ、手袋や靴下を編みました。今ならお金さえあればなんでも揃いますが、むかしはなんでも手作りでした。
学校は、旭野(当時十人牧場)に上富良野尋常高等小学校不息特別教授所が大正六年五月九日に出来ましたが、藤井農場にも一年後に私立の学校が出来ました。近一の父の多田安太郎が農場を経営していたので、小作人の子弟教育のためにつくったのです。学校が出来てからは、子供を学校で教えてもらえると言うことで皆入ってきました。学校の事については大正五年頃からいろいろ段取りされたようです。先生は旭川から渡辺先生を迎えましたし、地元からお願いした手塚官一先生もおりました。
その後、うちが中ノ沢に移り特別教授所にも近くなったと言うこともあって、私立の学校は長く続かず廃校になりました。その時学校で使っていた教具のオルガンや大きなソロバンは、十人牧場の特別教授所に寄附しました。
私立学校のあった場所は、現在の自衛隊弾薬庫から四百米位上流の、道路の南側でした。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一