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開拓者は語る

故 藤崎 政吉 明治三十五年六月十一日生(当時八十一才)

入地当時
私は徳島県那賀郡富岡町で生れ、両親と兄弟五人の計七人家族でした。
大正二年二月渡道、小樽港に上陸、上富良野村の十人牧場(今の旭野)に同県人の岡沢政治さんが先に入地していたので岡沢さんを頼り入地した訳で、こちらに来た年は矢野さんの処で一作収穫し、二年目は富原の今の小川さんがいる所(東三線北二十一号)の土地を五町歩買って五年程水稲を作りましたが、水田には向かない土地なので、結局十人牧場へ転居することにしました。
十人牧場は明治三十八年に岡崎さん、林さん、佐藤さん等十人が共同で拓いたもので、ヌッカクシフラヌイ川から以北コルコニウシュベツの沢を含め高台地帯で面積は記憶していないが、価格は四〇〇円と聞いています。
私が入地した頃は川野さん、林さん、佐藤さん、野崎さん(後で中の沢の区域に移動された)がおられました。森さんは、現在地より南寄りで川(ヌッカクシフラヌイ川支流)沿に住んでおられました。今の佐藤富蔵さんの向いに岡沢さん、菊地さんは私達より二年後に入地、道言さんは一年後位に永山から転居されて来ました。
道路は、今の道々から和田正治さんと石川さんの間の沢を渡って第二安井牧場の南側の台地を通り、林財二さんの附近で再び道々に通じていました。その頃は、道とは言え馬車の通れるような道ではなく、今でもその道跡は残っています。
今の道道の最初の道型は大正三、四年頃開削され、今の道々になっている箇所は大正六年に中茶屋まで改修されました。
元の一本松(オンコの太いものが今の上川降さんの入口の所にあった)の所にタコ部屋があり、かなりの人が就労していました。労役中に死亡された人も相当数にのぼっていると聞かされています。又、作業に堪えかね、川伝いに逃亡した者も出たと言われていました。
学校は、今の旭野の部落に公立と私立と二校続いて開校されました。
公立の学校は大正六年五月九日上富良野尋常高等小学校不息特別教授所として開校され、岡部牧場の開拓監督であった海軍軍人で柳本徳太郎代用教員が先生となり、暫くしてから江花校から脇山弥作先生が赴任され、長い間勤務されていました。
私立の学校は、多田安太郎氏が牧場経営の傍ら小作人の子弟教育の為に開設したもので、公立の教授所と同じ頃開設し数年で閉所したように記憶しています。
新噴火口から馬橇で硫黄運搬
大正八年、私が十八、九才の時、野崎さん、松下一郎さんと一緒に、一年だけ硫黄運びに行ったことがあります。一月、二月の一番凍れる時で、飯場住いの作業は大変つらいものでした。
十勝岳爆発記念碑のあるあたりにあった飯場に泊り込み、旧道を通って馬で新噴火口の採取場へ通いました。煙道を通過し、出口でつららのように凝固した純度の高い硫黄が採取されていて、この採掘現場から鉄索のあった所まで、かます詰め(一袋十六貫=約六十s〕にしたものを三尺×六尺のそりにつけて降ろすのが仕事でした。馬で行くと、蹄鉄が硫黄分で腐食してすぐ駄目になってしまいました。
登りの時はかなりの勾配があったので、馬を蛇行させて登って行きました。道路はついていましたが、一度風が吹くとすぐ埋まり、吹雪いた日には、しばしば休みになりました。亜硫酸ガスから呼吸器を守るため、黒砂糖を食べれば良いと言われ、常に携行し、仕事に従事したものです。
上富良野神社大鳥居の石材運搬
上富神社の鳥居の石を運んできたのは、大正十四年十二月だったと思いますが、若い人を含めた働き盛りの人達が、山加や旭野から出面に出ました。部落の丈夫な馬の六頭曳で運び始めた処、馬棒を二台潰したので、大きな木を山から切り出し橇を作り、それに石を積んで引っぱったと言います。山加から道々に出す迄に五日間を要し苦労して搬出したのこともあって、市街地にかかるや、万才を叫びながら気勢をあげ、大通りを通ってきたと言われています。石は年内に神社へ運ばれ、現地で丸形に削って仕上げられ、管内一の石の大鳥居が奉納されました。
種馬の育成
種馬を始めたのは昭和十四、五年頃で、十五頭ほど育成しました。
いつか我家に尾谷上川支庁長が来た時あまり偉そうな事を言うので「あんた、馬の見方知ってるのですか」と言ってしまいました。後日農業改良普及員の平井さんに「上富良野であんな事言うのは貴方ぐらいだ」と言われ赤面した次第です。
種馬の売買は、十四、五万円で買った馬が、買い値より安い十二、三万円で売れたりすることもあったので、少しも儲けがありませんでしたが、育成するのが楽しみでした。
乳牛の飼育
昭和十七年頃からは牛飼いを始めました。初めて買ってきた牛がとても良い牛で、高く売れました。私は度胸がよかったので、四ツ足だったら牛だと思って買ったものです。良い牛だと思うと「よし、これ××円で買う」と言うような買い方をしていましたが、だんだん牛の見方も勉強し良い牛を飼育するようになり、特に高等登録付を飼育し始めてからは乳量も増大するようになりました。
農業の話
農業をやっていて苦労したことと言えば、この土地は石が多くて、毎年、もっこ≠ノかついで拾い出したものです。道路のわきに大きな石を運び出しておくと、誰かわかりませんが庭石にするために持って行ってくれるので、土地も年々良くなりました。
作物も中耕除草等、手をかける事により増収するので、昭和二十年の後半から四十年代は東北地方から季節農業労務者を雇傭して農作業を行ったもので、大面積を耕作している者は十名近い人を使用している家庭もありました。私の処でも十年程四名の若い娘さんを雇傭していました。若い娘さんは純情で可愛いものですが、他人の子女をお預かりすることは色々の面に気を使うものです。機械化され病虫害、除草剤等の農薬を使用するようになってからは、適期の使用に依り省力化し大面積も家族労働力のみで作業ができるようになりました。
近頃では、鍬もブラウも、それほど毀損せず耕せる様になりました。その他には、この辺は地下水が高いので、旱魃の年は良いのですが、雨天が多い時には畑が乾かず作業も遅れ、気を揉んだものです。
編集委員註
本文中、氏の入地された十人牧場とは今の旭野の地域で十名の牧場の所有者の氏名は次の通りです。
木田 軍平  高松彦太郎  伊藤勇太郎
清水 テイ  正瑞喜太郎  広  卯吉
武田 高蔵  前川 清作  岡沢 政吉
佐藤久五郎
以上十名の中、伊藤勇太郎氏は市街に住い入植せず、牧場名は氏が名命したと記録されています。
昭和五十七年本稿をいただき第三号に登載すべく準備を進めておりましたが、秋頃ご入院なされたとお聞きし一日も早いご快癒を祈っておりました処、一ケ月程で退院なされ喜んでいた次第です。昨年健康を害され通院、引続往診を受け加療中病院の先生方並びにご家族の皆様の手厚いご看護の甲斐もなく、昭和五十九年一月二十一日八十一才の天寿を全うされました事は誠に残念に思います。
ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一