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馬と共に六十年

南  喜四郎 明治三十三年一月四日生(八十五才)

私は和歌山県西牟婁郡大字小川村、南豊助の長男として出生、明治四十年七才の時一家は紀州団体に加わり北海道上川郡鷹栖村に移住しました。父は開拓に従事していましたが私が十一才の時に病気のため死亡したので、開拓地での生計もたたず、大正八年の肌寒い十月の末だったと思いますが、姉婿の坂口惣助さんの知人を頼り、上富良野村に転居いたしました。その時私は二十才で、基線に住む坂治三郎さん宅に住まわせてもらい、私と母が僅かばかりの水田と畑を作り当座の糊口を凌いでおりました。
不幸にして二年目に坂さんが病気に伏し、家族の手厚いご看護と薬石の効なく、その年の暮れに逝去されたのを覚えています。
それから一年後の大正十一年二十三才の時結婚し三人で細々と暮していました。私はその頃幸い二十代という働き盛りで、坂さんが亡くなった後も水稲を作っていましたが、作柄は悪く自分達が食べるだけの収穫がやっとでした。そこで家族の生活を助けるためにも農外収入を得るため、夏場は十勝岳で硫黄運搬夫として働き、冬場は客土の仕事等で労賃を得て生計を樹てていました。
硫黄山で硫黄の採取現場を見に行きました処、火口近くに行くにしたがい、猛烈な水蒸気と共に吹き上げてくる亜硫酸ガスが鼻をつくようになり、そのような呼吸も因難な状態の中で大勢の人夫達が働いていました。この人夫達が採掘した硫黄の原石を、下の鉱業所の作業場から麓の中茶屋の集積してある場所迄運搬するのが私の主な仕事でした。
何しろ上の現場では、夥しい量の硫黄が煙道口からツララの様に固まって出るので、現場の人夫達はこの硫黄の塊を破壊し叺に詰め下の作業場迄運搬します。私共は其処で荷造りをして目方(十六貰)を量ってから梱包し麓の中茶屋迄運びました。運ぶと言っても道らしい道もなかった時代で、林道とは言え樹木が鬱蒼と茂り昼なお暗い原始林の中の曲りくねった細い道に丸太ん棒を敷いて、その上を舵を取るため木を曲げた取手をつけた橇(手橇と言う)に叺入れの硫黄を積んで運ぶのです。所謂木製のトロッコの様な格好でした。熊の出没する危険にさらされながらの仕事でした。若いとは言え今思うと非常に過酷な労働でしたが、その辛い仕事も無我夢中で本当によく働いたものだとつくづく思うのです。
冬になると、馬橇を仕立て客土の仕事に就きました。酷寒の北海道は大変だと聞いていましたが、正にその通りでした。今のような防寒着のない時代で、体は冷えきり、指がちぎれるように痛く感ずる寒さの中で懸命に働き通しました。その間、怪我もせず病気にも罹らず、私は本当に運の良い男だと思うのです。
馬との出合い
約三年、坂さんの所で田圃を作り、それから市街地(現在地)に転居してからも一年程硫黄運搬の仕事をやっていました。そのうちに伊藤正信さん(伊藤富三さんの父)から馬の仕事を手伝ってくれと話を持ち掛けられ、以来十七年間伊藤家で馬の世話をすることになったのです。
馬の思い出は尽きません。伊藤家の仕事をしていた十七年の間には色々な事がありました。最初田舎競馬の騎手として、旭川から江別、岩見沢と公認の馬場で乗ったものです。
上富良野は、昔から馬の育成地として有名で、優秀な馬が多く飼育され、競馬も盛んな時代でした。今の神社から中学校の敷地の処が、市街地で唯一の競馬場でした。毎年の上富良野神社のお祭りには沿線の村から沢山の馬が集まり、富良野沿線の名物になっていました。又毎年の四月十五日は東中の「馬頭観音」のお祭りの日で、多田さん、森本さんの畑でよく競馬が行われたものです。この競馬で一等から三等に入賞した中で一番成績の良い馬が、公認として旭川競馬に出場する資格を得たものです。
軍馬の育成
上富良野村は大正七年軍馬購買地に指定されており、毎年十一月には占冠村から北は美瑛村迄富良野沿線七ケ村の馬が上富良野に集められ、定期軍馬購買が実施されていました。軍馬に合格購買されると価格も地方相場の約倍近い価格で購買され畜主の経済を潤してくれました。
国では馬産方針が確立され日本人の体格にあう小格馬が奨励され、各育成者もこの方針に副って軍馬に向く馬を飼育するようになりました。
日支事変を契機として軍馬の購買頭数も多くなり、定期購買の外臨時軍馬購買が度々実施され、軍馬侯補馬の育成頭数も増加し、上富良野では二百頭以上の馬が育てられていました。軍隊の乗馬、輓馬、駄馬として多数の馬が購買され、特に将校用乗馬としては上等な馬が購買され、更に外国駐留軍の将校用馬としても相当数購買になりました。
私は伊藤家から独立して家畜商として専念するようになりましたが、ある時健名さんが私の処に泣き込んで来た事がありました。と言うのは健名さんの馬に赤紙(徴発のこと)が来た、今此の馬を徴発されると農業がやれなくなる、貴方の馬と交換してくれないかと言うのです。祈るように頼まれるので、私もほとほと困りました。あの馬は彼が命より大事にしていた愛馬であったので、仕方ないと思い、彼の代りに私の馬を出すことに約束してやると彼は涙を流して喜んで帰りました。
徴発馬も検査をし病気、怪我等で注射をしたものや牝馬で孕の馬は購買しないと聞いていたので、そう信じ購買の対象とならないような馬を牽付すると、軍の乗馬として当時の金で参百円と言う、思いがけない高値がついて買い上げになりました。
私はこれが機縁となり軍馬候補の育成に力を入れる様になりました。伊藤さんは二台車分(一台六頭積貨車)を買い上げになったこともありました。私は一台車分六頭買い上げになりました。これを見た人達の間には挙げて軍馬侯補の育成熱が高まりました。
昭和十五年頃までは高値で取り引きされていたものが、大東亜戦争の始まった昭和十六年頃からは、軍馬に買い上げられると以前の様な高値が続かず、代馬が買えない状態が続きました。
産地から馬を買うのに甲、乙、丙、丁と畜産組合で格付され、甲は六五〇円、丙四〇〇円、牝馬の良は八〇〇円、優良牝馬は上限がなく取り引きされていましたが、次第に馬の価格が不安定になるに従って、家畜商等馬を生業とする者にとって死活問題となり、転業を止むなくされる者も出る始末となりました。
私は種馬の育成に方針を変え、終戦後まで継続して種牡馬作りに努力を続けました。此処に掲げてある表彰状もその頃戴いたものです。自慢するわけではないのですが、十頭以上育成しその中に上川の共進会で高位に入賞したのも此の馬(前頁写真参照)です。上川管内で十名表彰されました時も十名の中に選ばれ上富良野からは伊藤正信さん、松原照吉さんと私の三人でした。
昭和二十三年から輓馬競走が盛んになり、上富良野でも何回か輓馬競走が実施され、一時は馬券迄売って賑わったこともありました。お祭りの余興等にも長い間続けられ人気がありました。
私は馬が好きで八十三才になる迄此処で馬を飼育していました。此の表彰状は、上川、空知の種馬の育成共進会で最高位の賞を受け、馬事振興会より全国で選ばれ表彰を受けたものです。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一