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乳牛と共に歩んで

矢野 辰次郎 明治三十五年十二月二十四日生(九十二才)

入植当時
岐阜県揖斐郡から、大正七年三月十八日、二十五才の時上富良野に来ました。その時にはまだ四尺程雪が積もっていて、人間と馬がやっと通れるぐらいのひどい道を歩いてきました。
上富へ来るきっかけは、私のいとこの御主人で大久保さんと言う人が、「北海道へ来るなら来い」と言ってくれたからで、目的もなしに来てしまいました。
来て一年目は大久保さんで厄介になり、二年目は島津の北川さんの所でくわ下三年を借りて(註 収穫ができるまでの間、土地を無料で借りることを言った)畑を作らせてもらいました。水田も一町新しく借りて作りました。
その翌年の大正九年に、隣の二十二号の土地に住んでいた石川勘十郎さんという人の奥さんが体を悪くして、私に一町作ってくれと頼まれました。ヤチダモの木の株を起こして水田を作ると、四十何俵という米が取れ、その年は海江田さんに年貢を一俵か半俵ほど納めた記憶があります。石川さんは、その後二、三年で内地へ帰ってしまいました。
北海道に来た年、北見に薮出しに行かないかという話がきて、この辺から二十人位の仲間で、北見の北浦に行きました。北海道へ来て初めての冬で体が慣れていないためか、厚着をしていても寒さが身にしみたのを覚えています。
十五、六日ほど仕事をしていると、人夫頭が「矢野さん、あんた人夫頭してくれ」と言います。「俺は北海道に来て山に入ったんだから人夫頭なんかできない」と断りましたが、「俺が見込みをつけたんだからやってくれ」と言って聞きません。「それじゃあ、俺より年長の人を十人ほど私にくれ」と注文をつけると、「好きなだけ人夫をやる」と言うので慣ないながらも十人の人夫頭として道つけの仕事を担当しました。その道つけにしても十人の人達に教えられながらやったようなものでした。馬追いは上富良野近辺からもけっこう行っていたが、出す時は一番先に出すと、益々見込まれたのか、人夫頭に「ぜひ来年もきてくれ」と頼み込まれてしまいました。「俺は薮出しなんかしていられない、もっと他に考えがあるから」と断って、二年目からは行かなくなってしまいました。
次に伊藤木工場の世話で木材の運搬をやりました。誰が行って引っぱって来ても良かったのですが、丸内さんと言う人に「島津あたりの米の取れるような所の人が、こんな所で専門に稼がれるのは困る」と言われてしまいました。こんなこともあった上に天気が悪いやら、仕事に慣れていないやらで、二十日ほど働いてやめてしまいました。つまごはぬげるわ、手袋はしばれるやらで、ろくな仕事ができなかったこともあるのか、賃金にしても二円か二円五十銭ほどしか貰えませんでした。
私は北海道に来て百姓をやるつもりはありませんでした。雑品買いか食堂でもやるつもりで百二十円のお金を持って出たのですが、ここへ着くころには三十五円しか残っていませんでした。西を見ても東を見ても知らない人ばかりなので、貸してもらう訳にもいかなかったのです。
そのうち島津に来て、ちょこちょこ買い物に行った店があり、少し顔見知りになって、そこへ頼みに行くと、阿部さんという馬具屋さんから二十五円か三十円ほど借りてきてくれ、そのお金は二十日か二十五日ほどの内に返しに行きました。それ以来お金は借りたことありません。
草分に移って来たのは、大正十年十二月。こちらへ移る前に中富良野の五十嵐農場の友人から「お前が来るなら、土地を貸してやる」と言われていましたが、ここに来れば水田もあるし、子供が学校へ行くにも近いので良いと思い結局草分の方を選んだのです。
入った時はヨシ原で草がひどく、汽車が来ても分らないほどでした。雑草も多くて三十五間のうねを行って帰ってくると昼になっているというくらいひどい所でした。年貢は一俵納めましたが、それを納めるとほとんど残らない有様で冬を越すのはとても無理だと思いました。
そんなことを考えながらブラブラしている時、豚か鶏か牛を飼おうと思いついたのですぐ牛の方が子供に乳を飲ませるにも良いだろうと思い、牛をやろうかと考えました。
牛飼いに転向
その時の役場の馬籍係りだった中西勘兵衛さんが「矢野さん、あんた何かやりたいような顔をして歩いているな、牛でも飼えば良いんじゃないか」と言われ、牛を飼うことに決心しました。それと、牛を飼うようになった原因がもう一つあります。昔は十年のうち二年が不作で一年が凶作でした。しかしその三年を残りの七年で切り回わしてゆくとしても、とても無理で、作物に依存した農業に疑問を持ったからでした。
冬、出稼ぎに行ったこともありました。その時は網走で舟でしじみ貝取りの仕事を二週間ほどしました。その仕事場へ家族が子供をおぶって迎えに来るのを見た時、もし私が帰ることができなくなったら家族はどれほどつらい思いをするだろうと思いました。なんとか自分の家で稼げることを考えなくちゃいけないと思ったのも、牛飼いになった原因です。
牛を初めて入れたのは大正十一年で、旭川から百二十円の牛を入れました。二年目には北見からジャージー種を、百二十円か百四十円で入れました。
そのあと岩見沢から出た牛で純血だと言う牛があり、その頃はまだ純血だとか見分けられなかったので、人の言うことは信用しなければいけないと思い旭川の商人の言うことを信用して買いました。しかし、松原のばあさんには「矢野さん、あんたあんな牛に二百円も出したって本当か、お前、頭へんだな」と言われてしまいました。その頃は家族で米を一年に二十二俵食べたから、半年分の十二俵売り、あとは牛乳を売った金で米を買って食べようと思い、残りの十俵分のお金でその牛を買ったのでした。
そして、一生懸命にやった関係かどうか、雌の子が生まれました。すると富良野から田村さんという人が二週間も通ってきて「矢野さん、お前の牛売ってくれ」と頼み込まれました。それで「二百円で買ったので、二百円出してくれるなら売る」と言うことでとうとう田村さんに売ってしまいました。
日の出酪農組合を作ったのは大正十三年で、佐々木頼エ門、浦島伊三郎、武田六太郎、橋本宇三郎、高田多三郎、岡和田義己、西山全、山中勘七、土肥作太郎、矢野正一さんたら全部で十三軒で始め、私は初代の組合長に就きました。
大正十三年には、役場のやっかいにならずに道庁へ分離機の払い下げを願ったら、直接私の方へ三百三十円の分離機を下さいました。それを吉田村長さんが役場へ譲ってくれと言うので譲ってあげましたが、使う時は使用料を払うということで、浦島さんの所へすえ付けて使いました。あまり時間をかけずにできるので、上富良野中の人が使っていました。
使用料は二百二十六円で、それは日の出酪農組合が支払いました。ある時乳を沸かしていて焼いてしまい、損をしてしまいました。
それからも私が牛を一生態命やっているものだから、吉田村長が「美瑛の村長が種牛余っているから貸してやると言ってたぞ」と言ってくれ、さっそく三好さんと行ってみると「それは吉田さん早まってるなあ、俺ばかりの牛でないんだ。組合や酪農組合に相談かけなきゃできないんだ。それに、今道庁へ行かなきゃあならんから帰ってからにしてくれ」とあっさりと言われてしまいました。帰って来て吉田さんに「こういう事言われた」と電話をすると、「いやあ、バカにしているなあ、いつでも連れてこい。貸してやるわって言っていたのに」と言う、吉田さんも簡単に考えていたのでしょう。
その後吉田さんから「牛はあんたらにまかせるから、書類だけ持って来い」と言われ、高野牧場へ行ってきました。高野さんから「種牛にしたら完全だ、と市長さんも言っている牛だ」と薦められた牛がありましたが、実は東京にいる旭農場の所長が種牛検査に歩いた時に「これは種牛の資格なし」とはねられたものだったのです。
しかし、りっぱな牛で、「いくらで売ってくれる」と聞くと「五百五十円だ」と思ったよりも安い値なので「どうする」と三好さんに聞くと「帰って村長に相談しなくちゃならない」と言います。だが世話をしてくれた人が「この牛が他の人に買われてしまったら、こんな安いのは二度と手に入らないから、何とか買え」と言うので、「おい三好さん、もし駄目だと言われたら、二人で責任を取って払うべ」と思いきって買ってきて、吉田さんに見せたのでした。
ところが吉田さんは「矢野さん、あんたちょっと早まったな、俺は書類を貰ってきて、どう言うものか聞いてこい、と言っただけだ。買ってくるのはちょっと早過ぎた」と言います。けれど、本間さんやマルイチ運送店の人達は「こんなりっぱな牛が五百五十円ぐらいで買えるなら、補助なんかいらんなあ」と言って見てくれたので、自分を納得させることができました。
牛や馬、めん羊を商いする時は免許証というものが必要であり、北海道でも、めん羊の免許証を持っているのは、私を含めて三人しかいませんでした。
私が免許を取ったのは大正九年か十年頃で、今では〃家畜商〃という名だけになっています。
上富良野村では大正十五年の十勝岳爆発の災害では酪農を営んでいる人にも大きな被害がありました。
災害のあと道庁から五十一頭の補助牛をもらい、災害に適った人達に分けました。その後七十頭の補助牛が上川管内に割当てになり管内で配分について協議した時、上富良野から私が代表で出ました。富良野と中富良野から、以前の五十一頭の件もあってか、今回は遠慮するよう言われましたが、「私もせっかく来たんだから、手ぶらでは帰れないからなんとか頼む」と篠原さんと二人で旭川に泊まり込み、なんとか十頭の配分を確保したのでした。そのうちの八頭は東中の方に分けられ、私の兄と佐々木さんに一頭づつ割り当てられました。それらの牛は一頭三百円で買われたなかなかの良い牛でした。このようにあちこちの会合や会議に顔を出すもので、牛のことで道庁へ行った時には、とても大事にしてもらえたものです。
九条武子夫人歌碑除幕式
昭和四年七月九日、九条武子夫人の兄に当る西本願寺法王である大谷光明猊下が、北海道開教百年記念法要を行うため来道されることを知った聞信寺前住職の故門上浄照師は、十勝岳に九条武子夫人の歌碑を建立することを決心しました。この旨とその除幕式に猊下の御臨席を賜りたい旨の文書を届けたところ、間もなく許可を得ることができたので、早速案内の為の馬を二十頭用意することになりましたが人伝で門上さんが壇家から出してほしいが今年の作柄から見て遠慮していると言う話を聞いて、「私がやらせてもらいましょう」と申し出たところ御住職も大変喜ばれ、私が中心になって壇家の方々に呼びかけて優秀な馬を二十頭用意することができました。
その年は作柄も悪く、お金がなかった時でしたがその時のお金で二百円ほどかけて思いきって一馬具を新調し、猊下を乗せて山へ上がりました。
飛沢さんの温泉のところで休んで石ガラを降りてくると、吉田さんに「猊下に降りてもらってくれ。石ガラを歩いて落ちて怪我をされたら困るから」と言われ、その事を猊下に伝えると「いやいや心配ない。私は日露戦争の時、満州を飛び回っていたんだから大丈夫だ」と言うばかりで、こちらの心配を知ってか知らずか、一向に降りる気配を見ません。坂を上がる時は私が先になって、手綱を引いて上がって行きましたが、その途中「ここで鳴いているのはオトドリか」と聞かれ、「いえ、これは北海道に何を播いても霜が降らないから大丈夫だ。心配しないで良い、と教えてくれる鳥です」と烏の名前がわからないのでその場をしのいだのを覚えています。今思い出してみるとカッコー鳥でした。偉い人なのでこちらからは誰も言葉をかける人はいませんでした。
種牡牛に突かれ大怪我をする
私が種牛に倒されて、鎖骨と肋骨を折ったのは、四十二才の厄年の時でした。富原に早坂さんと言う家があり、そこの家では、三好さんに二、三回種つけをしてもらいましたが駄目だったので、なんとか矢野さんに頼めないだろうかと書いた物を持って子供が牛を連れてきました。
あの当時は、一ヵ月間の種つけの為に三十五、六円で預っていましたが、田んぼが忙しい時期に当っていたので困り果ててしまいました。でも農協の監事をやっているのに、仕事が忙しいからかけてやれないとも言えず、結局引き受けることになってしまいました。しかし、あせりもあって無理にやるものだから牛も腹が立ったのか、私の方ヘダーッと追ってきて私を倒してしまいました。皆が集まってきて仏壇の所へ寝かされ、飛沢さんに来てもらいましたが、「鎖骨と肋骨が折れている。俺のところではどうしょうもない」と言われ、旭川の知り合の島田病院へ連れて行ってもらいました。
約七十日寝ていましたが、だんだん熱は出てくるし痛みが激しく、いらいらが昂じて回りの人々に対してついつい傲慢になることもありました。しかし吉田さんが見舞に来てくれ「命だけ持ってきなさい。あとは何とかするから」と言葉をかけてもらった時には、さすがに嬉しく思いました。
私が怪我をしたせいで、子供にもずいぶん迷惑をかけました。怪我をしたのが六月三日か四日で田植えが終ったばかりで、あれこれとその後始末に忙しい時で、この後は、水田には草がはえてくるし、出面さんを頼まなくちゃならなく大変な時期でした。
とにかく長井さんのおばあさんを頼んで出面さんの手配など色々世話をしてもらいましたが、子供は六年生でまだまだ頼りにする訳にいかず、出面さんの支払などの切り盛りは、ほとんどを家内がやっていました。牛の世話も大変だったので、おとなしい牛を一頭だけ置いて、あとは皆他人に預けてしまいました。牛の世話は子供の仕事でしたが、エサと言ってもどうやって用意していいものか分かない、草と大豆かすを食べさせていましたが、この大豆かすは今の石蔵の倉庫裏にあった農協へ行ってもらって来るものだったのです。
私のいない内は家族全員が仕事を分担しなければならず、私の長男の割当てとしてわずか五升か六升の乳を朝に搾って自転車の後ろに付けて集乳場まで持って行き、それから学校へ行ったので先生も感心なやつだとほめてくれたそうです。
再び牛を手がける
私の骨を折った種牛は吉田さんとも相談して旭川の商人へ売りましたが、売った先で人を殺してしまったと聞いています。ある日吉田さんが新聞を持ってきて「矢野さんは運が良かったわ、池田町で種牛検査の時、後から突かれて殺された人がいるし、札幌でも命だけは助かったけど突きさされて腸が飛び出てしまった人がいる。あんたは良かったなあ」としみじみ言われた。
その後昭和十八年から又、種牛を二頭置きました。亡くなった伊藤木工場の親父さんに「お前バカじゃないのか、あんなひどい目に遭ってまだ種牛を置くのか」と言われましたが、田中さんから「種牛を頼む人がいないから頼む」と言われて、又置くことにしたのでした。
昔は牛を選ぶことが一番大事なことで、乳を沢山出す牛、雌を良く生む牛、体が丈夫な牛などをいかに見分けるかなどという事をいつも考えていました。
今は品評会などでは、薬を使ってエサを沢山食べさせて太らせ、乳を沢山出させ、その事によって脂肪がどうの体格がどうのと言っていますが、私のやり方は違いました。牛でも馬でも「お前、金をかけたって倍も乳を出したり荷物を運べないんだぞ」と言っているのに「金をかけているのに働きが悪い」と言って叩きつける方が無理な話です。
牛の削蹄技術を覚える
私に牛の爪切りを教えてくれたのは長崎県から来た土井さんという、あちこちを渡り歩き牛の爪切りをして生活をしている人でした。たまたま私の家に来た時に興味本位でお願いすると、色々と要領を教えてくれました。やり方は、初めに大まかにノコで切っておいて、あとでポツボツ小きざみにきざんで行くもので、それでも一度に沢山きざむと牛も痛がり難かしいものでした。要領を覚えるため上富良野だけでなく、他の町まで行って爪切りをしながら体で覚えたものでした。
今思うと、いろいろと無茶をやったもので、家族には大変な苦労をかけたものです。子供達にも、遊びたい盛りに黙々と手伝ってもらい、大変ありがたく思っています。九十才を越えた今、辛かった想い出も只々懐かしく思われ、家族達に囲まれて幸せに過しています。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一