郷土をさぐる会トップページ     第04号目次

家畜診療所の思い出

西  武雄 明治四十三年七月十五日生(七十四才)

私が当地に参りましたのは昭和二十六年三月三十日で、家畜診療所の前には冬の雪が残っている頃でした。前任者の池本所長が士別に居た私の所に来て、当地の事情を色々と説明されたので概要は承知した所に、当時副組合長をして居られた松浦義雄氏が再三士別まで来られて、上富良野村共済の事情を打ちあけられ一日も早く着任することを希望されたのであります。池本君は私の後輩にあたり、卒業後も軍隊で私のあとに入り、彼が誠実で勉強家であることはよく知っていたのであります。かと言って士別でも、今私の転出することは困る、是非考え直してくれと言うことで、私も進退極ってしまいました。しかし、後輩の苦衷と松浦さんの熱意にほだされて参ったと言うわけであります。
昭和二十六年と言えば上富良野はまだ村であり、自衛隊もない純農村でした。私も当時は四十一才の壮年で働き盛りと言うことで、張りきって新任務についたのであります。
当時農村の機動力は専ら馬で、トラクター等は一台もありませんでした。勿論自動車もなくオートバイも上富良野村に、三台よりありませんでした。そのうちの一台は家畜診療所にあったのです。サイドカー付の外車ハーレーダビウトソン(七・五馬力)で当診療所の自慢の品物でした。これも使えるのは春から秋の間だけで、冬は積雪の為使用不能と言うことになります。従って冬期間は馬で往診することになります。…今のように除雪車は無かった…。
その当時島津で馬好きの山田由郎さんがお世話してくれたドサンコの愛称ポン子と言う馬を、家畜診療所の入院厩舎で飼っていたのです。その飼養管理は獣医師の諸君がやっていたのです。(人を頼むと金がかゝるので)その馬は体は小さいが非常に足の速い利巧な馬で、私達は随分と助りました。
昔から上富良野村は軍用馬の育成が盛んな所で、村内には千七、八百頭の馬がいたと思います。開業獣医師も常時三、四人いたようであります。
上富良野村の農業共済組合は道農業共済組合史によると、昭和二十三年三月に設立認可を受けており道内における農業共済組合の設立認可の第二号であったと言うことです。
私が着任した当時事務職員が三名、診療所職員は私を含めて四名居りました。池本君は既に転出して臨時に前職員の酒井保さんが居られました。しかし間もなく酒井さんは北海道大学の獣医学部の教授として転出致しました。当時の臨床獣医としては大変学力の高い方であったわけです。当地に在任中は東中診療所に居られたようですから、そちらの方はご存知の方も居られる事と思います。
農業共済組合は、農業災害補償法に基いて農業経営の安定を計るために設けられた制度であることはご存知の方が多いと思います。そして、その発想の論拠を形成するものは、過去の農業保険法であり家畜保険法であったわけであります。
しかし、この制度を農家に普及徹底するということは至難のわざでありまして、役職員の苦労は大変なものでありました。
農家の方々も総論は賛成するのですが、各論に入りますと夫々の事情があり、ことに金銭の支出が伴うことから大変であったようです。家畜共済の方は診療所を持って実際に活動しているのを見ているので大した抵抗はないように思われますが、死亡廃用を少なくするため一生懸命予防衛生と早期診療に勤め成績が上ってくると事故頭数が少なくなる。そうすると加入頭数に影響する、従って職員の人件費に関係するという具合に経営上の逆現家が出るわけであります。しかし、当時の農家の原動力は馬でありましたので、春先に馬が使えなくなるということは大変なことであったのです。診療所には正月から二、三、四月にかけて骨軟症予防のため数十頭の馬がつめかける有様で、開墾前の三、四月は更に倍増するという状態で門前市をなし、交通にも支障を来すような状態で、今の人には想像もつかぬ有様でした。
その他疝痛(はらいた)難産、ケトージス、跛行等で連れて来られない病馬には往診するという具合で、朝七時頃から夕方五時頃まで毎日多忙を極めたものです。或る年などは、一年間のうち一月二日の一日だけしか休みが無かったということもありました。今の様に時間外勤務手当とか休日勤務手当などは無く、只々天職と心得頑張ったものです。
私の勤め始めた昭和二十六年以降の家畜共済の引受頭数と事故頭数の変遷を見ると(富良野地区農業共済組合史参照)、昭和二十六年、二十七年は九百頭台(馬八百二十〜三十頭、牛八十〜九十頭)であった。これは、民間で愛馬共済会なるものが作られ、家畜共済と並行する組織を村内に拡げたためで、それが原因で組合員と役員の問でしばしばトラブルが起き、制度の普及啓蒙に著しい障害となったいきさつがあったからです。
又二十四年と二十六年の馬の伝染性貧血による殺処分、二十六年からの乳牛の導入、三十七年の肉牛の導入等の上富良野の畜産の歴史が引受頭数と事故頭数に反映されています。
農繁期に近づくと馬の栄養補給のため飼料を多給するため、毎日のように二、三頭の疝痛(はらいた)が発生して夜間往診したものです。疝痛は急性疾患で然も死亡率が高いので、農家も真剣であり獣医師も真剣でした。疝痛馬が出ると附近の部落の人が数人手伝いにくるのですが、激痛のため患馬は壁を蹴り、床に転倒し、呼吸も荒く眼は充血して七転八倒の苦しみ方で暴れ出すという状態で手の施しようがなく、ただあれよあれよと見守っているばかりでありました。一刻も早く獣医師の来るのを待っているしかなく、其処へ待望の獣医師が到着して適応の処置により今迄の苦しみは霧散して快方に向った時は何とも言われぬ快感で、臨床獣医師の妙味を感じる一瞬でありました。畜主を始め手伝いの人々が心から喜びあって、まあ皆上ってと一杯やった時は住民と獣医師が一体となって話し合う。これがまことのコミニケーションとなるのでないでしょうか。古きよき時代であったと懐かしく想い出されます。
また十勝岳の一里塚で造材に行っていた馬がヘモに罹り三米もの雪の中で一夜を過したり、乳牛の難産や創傷性胃炎(釘、針金等が飼料に入りこれを呑みこんで起る)も生命にかゝわる病気であるので、獣医師と畜主が一体となってこれに当るという関係で農家や部落の人々と吾々獣医師が親密に苦楽を共にしたことは懐しい想い出であります。
昭和四十四年八月私が五十五才になった時、職員の停年制の関係で家畜診療所長から役場の産業課畜産主任技師に職務換えとなり、臨床(実際に診療すること)から離れたのでありました。したがって農家との接触も急に少なくなり、専ら机に座って有畜農業の経営や企画に当ったのですが、人間の働き盛りを過ぎたという一抹の淋しさを感じたものでした。しかしこれでは駄目だと勇猛心を起して、黒毛和種の導入や乳牛専業農家即ち酪農家の育成、それから養豚専業家の育成等に当りましたが、その頃から農家の機動力は馬から耕耘機となり、更にトラクター、トラックと急激に移り代り、馬の頭数も年毎に減少し代りに乳牛、肉牛、養豚と、水田、畑作専業農家が増え、昔の農家のように馬を主体にして鶏五、六羽、豚一、二頭、乳牛二、三頭という農家が皆無のような状態になりました。そうして急激に現在のような機械力による中規模農業経営の型態になったのであります。
筆者紹介
明治四十三年後志管内黒松内に出生、十勝農校獣医科卒、獣医師開業団体職員を経て従軍、旧満州・支那に転戦陸軍獣医少佐、終戦後獣医師として富良野、士別を経て上富良野診療所長、北海道社会貢献賞を受賞、本町文化連盟会長等文化活動にも貢献する。現中央老人クラブ会長。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一