郷土をさぐる会トップページ     第04号目次

大正時代の市街地

金子 全一 明治四十一年五月十一日生(七十六才)

町の様子について、いろいろ記憶に残るのは、やはり初めて小学校に入った、大正四年の頃からである。私は明治四十一年現在地で生まれたので、小学校に入学した時は、開拓後十六年目と言うことになる。勿論市街のことしか知らないが、あとは聞いた話になる。先ず今と比較して第一に考えられることは、戦後工業が躍進して、皆が豊かな暮しになったのに比して、当時は、現在の発展途上国に見られるような農業中心で、日本は万年輸入超過、耕作地も少なく、貧しい生活をしていた人達が、北海道に新天地を求めてやって来たのである。
空知、上川は比較的めぐまれた土地であるが、それでも私の小学校時代は、開拓途中で貧しい生活の人が多かったと思う。林財二さんの話によると、旭野に居られながら十勝岳の噴煙が分らなかったと言うし、故海江田武信元町長さんの話にも、現在美田と化した島津も、原始林の所が後々まで沢山あったようである。私の子供時代、海江田さんの方へ行く左側、今の光町一丁目は、河川敷地でもあり、うっそうたる原始林で、子供達の兵隊ごっこの遊び場にうってつけの所で、よく餓鬼大将につれられて行ったものである。マルイチ山のふもと西町三丁目辺りは水田であったが、大きな木の切り株が沢山あって、秋にはポリポリ茸が一面にはえていたが、誰も取る人はいなかった。
今の通学道路や学校や神社の北側に道路や家の基礎に使う砂利を取った窪地に水たまりが沢山あり、その間の細い小路を廻りくねりながら通学した。国有地で誰の土地でもないのだが後に利口な人は申請して払い下げを受けたと思う。畑作地域から通っている生徒には、黒砂糖を入れたり味噌をぬったそばだんごや、いなきびの弁当を持って来た人が多かったので、米のめしは食べられなかったのではないだろうか。服装もお粗末で男子は綿の入った木綿縞、女子は木綿の染絣の綿入れであった。鼻をたらしている子供がかなりいて、鼻の下が二本の線になって赤くただれ、時々袖で鼻をふくので、袖がピカピカ光っていた。
私の店の前の国道は玉砂利が敷いてあった。農家は皆農耕や運搬に馬を持っているので、馬車が通るごとに何時までもがたごとと音がしていた。冬は馬橇が雑穀や木材の搬出に最も良い時期である。やがて雪が融けると道路はそれこそ馬糞紙と言うように馬糞で敷きつめたようになる。それもやがて乾いてくると春風に乗って何処となく飛んで行ってしまう。勿論自動車も無い時代、国道は子供の良い遊び場で陣取りや鬼ごっこで毎日暮した。
国道の東側の路地、今は歓楽街だが、当時は貧民窟で、戸のかわりにむしろの下がっている家もあった。それでもストーブは赤く燃えていた。家が粗末なのと薪は安いので、どこへ行ってもストーブは赤くなる程燃やすものと思っていた。夜は真暗で隣へ行くにも提灯が必要であった。夏の夜はカエルの鳴き声が聞こえたし、店先にホタルやコウモリが飛んで来たこともあった。
大正九年三月、初めて電話がついたが、役場が一番で我が家は最後の三十二番であった。同じ年の十二月には電燈が付いた。タングステンの電燈だが、街燈も付き昼のように明るく見えた。これで提灯もいらなくなったし、店の大仕事の一つ、ランプの掃除もいらなくなった。
次に商店のことを書いてみたいと思う。父の家も南部藩の御用商人で栄えていたが、明治になって没落し、一家離散、皆と同様流れ流れて旭川にたどりつき花輪商店に勤めていた時、上富良野に店がないから来ないかと言われ(故町長田中勝次郎さんの話)三重団体入植の翌年(明治三十一年)、草分のフラノ川のほとり、今の吉谷さんのあたりに自分の堀立小屋を建て商売を始めた。風呂がないので、フラノ川に飛びこんだとの事である。まだ汽車が開通していないので、店を閉め駄馬を仕立てて夜通しかかって旭川へ仕入に行ったと言う。
翌年、駅が出来たので現在地に移って来た。駅も初めは役場のある方に出来る予定だったが、カーブの関係で現在の場所にできた。それで線路東側は旧市街、西側は新市街と言った、新市街はどんどん発展していったが、反対に旧市街はさびれていった。
ところが自衛隊が駐とんしてからは、逆に旧市街の人口が増えて来た。
現在は皆めぐまれた環境にあるが、都市がどんどん発展するのに、農村は過疎化に悩まされて活気がない。ところが開拓時代は人口の増加が著しく、明治三十年三重団体によって初めて入植して以後、上富良野町史によると、明治三十六年に富良野が分村する時には、上富良野五一四戸二、四六二名、下富良野三〇〇戸一、三五七名、私の生まれた明治四十一年には一、三七〇戸、六、六三〇名、大正六年私が小学校三年の時、更に中富良野が分村するのである。
上富良野小学校八十年記念誌を見ると、私の入学した大正四年の生徒数は四四〇名、八年後の大正十二年高等科卒業の時は八〇五名になっている。
私の時は生徒も急に増えて八〇人以上で、一教室にびっしりになった。やがて高等科の人数が少ないので、一部そちらに廻されて、初めて複式の教育が行なわれた。尚上富良野小学校の生徒は昭和三十三年一、三一三名、で最高になるが、西小学校も出来て段々減少し、昭和五十八年には八九〇名になっている。
このような状態で店を始めているので、お粗末な店舗だが、次々と店をつぎたして農協もない時代に、ミ二農協のような役割を果していて、品物も小規模ながら何んでも扱うようになった。明治四十二年今の光町一丁目のあたりに水車の精米工場を作り、父の日記によると、「八月十三日初挽き裸麦一俵、八月十五日内地玄米一車入荷」となっている。水車の臼は十五位もあっただろうか、昼夜兼行で動いていた。
やがて大正五年には、木炭ガスの動力によるものを今の山崎歯科の所に建設した。父の日記にはさめてあった明治四十三年の新聞の切り抜きによると、「北海道の米の収穫は四九一、八六〇石の内、上川三一七、一三四石」となっている。やがて上川百万石になるのだが、その時はまだ少なかった。内地米や外米を扱ったり、東中の米が良かったので、マルイチ特選米として釧路、帯広方面へ移出した。商売としてもその頃が一番良かったのではないだろうか。やがて中富良野に小樽の共成株式会社の工場もでき段々やりにくくなって来るのである。
雑貨店は米、酒、塩、砂糖等にいりこ、みがき鰊塩鱒、乾鱈、昆布のようなもの、今は資料館にある農機具、なわ、むしろ等何んでも販売していた。砂糖も、今は珍らしいアンペラの袋に入れ固く塊まった黒砂糖や、中白が多かった。空のアンペラ袋に付いている黒砂糖をなめたくて、私と遊んでやったと言う人もいた。皆貧しかったのである。近くに魚屋もあったが、鰊の大漁の時は毎日鰊ばかり、鱈の季節は鱈ばかりという時もあった。冬の寒い時カチンカチンに凍った大きな魚が一匹何時までも魚屋の店先に置いてあったのが印象に残っている。乾魚や塩魚は大切な栄養源だったのである。春の鰊がものすごく、大漁の時など海に捧を立てても倒れないとさえ言われた。冷凍施設のない時で、大半は煮て油を取り、鰊かすとして肥料になった。汽車で小樽に行く時、鰊の数の子が線路に添って沢山干してあり、いつも食べているのは、このようにして汽車のトイレのしぶきがかかっているものではないかと不安に思った。
衣料品も簡易なもので、今のように製品になった多様な種類はなく、木綿縞、ネル、染絣、裏毛メリヤス、木綿糸等で、毛糸や毛製品は大正も終りに近い頃である。木綿糸等は実に良く売れた。一束一貫二〇〇匁(四・五s)のものが一度に売れたり、ふとん綿も一俵一貫目(三・七五s)十二個入をそのまま馬橋に積んでいく人がいた。ふとん綿が売れるのは家が寒いからで、木綿糸が売れるのは女の人の夜なべ仕事のためであった。特に冬は着物、作業衣、足袋のつぎ、雑巾縫いのはてまで皆女の人の仕事であった。
お産祝いは木綿縞、一丈(三m)が半反、後に本モス、友仙五尺五寸(一・七m)が標準であった。商品の種類は少なかったが人口の増加にささえられ、冬は大変忙しく、店は座売りのため通路は狭く、初売りは前の人が押されて死にそうだと騒いでいたものだ。雑穀や木材の初荷も景気良く、一杯飲んだ勢いで石油の空カンをたたくなどして大変な賑やかさだった。特に木材は十勝岳その他より沢山搬出されたので、初荷は玉(木材を運ぶ橇)につけた木材の列が三町位も続いた。但し夏は火の消えたようにひっそりして、町の人も皆家の裏で畑等を作っていた。
徒弟制度の時代で店も男ばかり、夏は暇で相撲をとったり、マラソンをしたりして騒いでいた。向かいに鍛治屋があって、夏は四時頃からトンテンカンやっていたが夕方は早く終るので、そこにいたスガノ農機社長の故菅野豊治さんや商工会長や町議会議長をしておられた故佐藤敬太郎さんも、店の店員と似たような年頃で、いつも遊びに来ていたし、佐藤さんは良くその頃のことを懐かしそうに話しておられました。
大正七年第一次世界大戦で、青豌豆の大暴騰で江幌の人達は特に良かったと思う。雑穀商の成田さんが、一列車全部自店の青豌豆を出したと言う話だった。一列車は十屯車十両以上であろうから、千俵を一度に出荷したことになる。料理店は繁盛するし、他町村のことだろうが、線路を枕に寝すぎて汽車にひかれたとか、お金をストーブに隠して焼いてしまったとか、色々な話があった。
米も大暴騰で月給では米を一壊しか買えないと言うので、新潟では米倉庫の焼打ちがあったりした。これも大正九年十月には大暴落、世の中は段々不景気になって来た。当時は娯楽と言っても今のようにスポーツとか、色々なものが有る訳でもなく、日中からよく酒を飲んでいる人がいた。実業運動会に喧嘩したり、市街と東中の青年団がぶつかったり、又、水喧嘩の話、町の名士がお正月私の店の前の国道を酒に酔って小便しながら右に左にぶらついたりしていた。消防の組頭(団長)は酒を飲ますので、生活に余裕がないと務まらないとの事であった。今のように毎日新聞にチラシ広告の入って来る気ぜわしい時代と違って貧しいが、何んとなくのんびりしたところがあった。又毎日の労働で、日曜だからと言って休みはない。一年中の休みは、盆、正月、上富良野神社や部落祭、六月十五日の北海道神社の札幌祭り当日は上富良野小学校の運動会でもあり大変賑やかだった。上富良野神社の祭りは、母村にふさわしく特に賑やかであった。
現在の中学校からヌッカクシフラヌイ川にかけて競馬場があり、祭りは各地から沢山の馬が集まって来たし町にはサーカスから、いかがわしいものまで沢山の見世物小屋が並び、夜店や蝦蟇の油式の大道商人、三味線で歌う流しなどがいて電燈はないながらもアーク燈の明りで賑やかだった。農家の人の中には、私の店の横で野宿して祭りを楽しんでいる人もみかけられた。
馬については、故伊藤富三さんも本誌で書いておられたが、当地は馬の育成地でもあり、松原牛乳店の祖父(勝蔵さん)は北海道の三馬喰の一人と言われたし、農家の人達にも馬喰っ気のある人が沢山いて、農耕や運搬に使うのみでなく、売買でも結構儲けていたのではないかと思う。町内の馬具商の人は商売をするだけでなく、自らも職人であり、高い技術を持っていたので.他の町村からも買いに来て、その度に我々の店でも買物するので、そのおこぼれが少なからずあったのである。
やがて時代も不景気になったが、戦後は景気も回復し、自衛隊も駐とんして、皆の生活は豊になるのであるが、人口は都市に集中して、付近の町村でも過疎化に悩まされてくるのである。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一