郷土をさぐる会トップページ     第04号目次

十勝岳爆発と復興作業

杉山 芳太郎 明治三十八年二月六日生(八十才)

父は私が二十才の春、中風で一日の患いで死亡致しました。二番日の兄は富良野下五区に分家して居りましたが、妻が病死したので私の家で暮して居りました。後で話を聞いたのですが、前から山鳴りや地響きがしたと言いますが、自分達には感じられませんでした。
上富良野受難の日
朝から雨が降っていましたが、仕事を休むこともできず、兄と二人で代掻作業をしていました。お昼には全身ずぶ濡れになったので仕度を替えて、午後からも代掻をしていると、四時半頃かと思いますが大きな音と共に地響きがし、草分の方を見ると家が動いている様に見えました。自分の目が狂ったのかと思ってよく見ても同じように家が動くのです。鉄道の電柱も倒れるので、こんな所にいては危険だと思い、馬鍬を外し馬を引き連れて家に帰り、家族の者に知らせ急いで市街の方へ逃げました。
途中、西村之治(姉の家)の六才になる娘を馬に乗せて、五丁目橋を渡って明憲寺の裏に逃げました。
母や子供は、八町内まで逃げ、又妹や弟は、今の西小学校の山に逃げて助かりました。
次の日に自分の家が気がかりなので、西村さんと自分達三人で、国道を我家まで二百米位の道を一戻りました。金星橋が流されているため、川を渡る時には体が宙に浮いてなかなか前に進みませんでした。
やっとの事で通過し家に行ってみると、建具や家具は全部流されて、畳の上に泥水が二尺位も入っていました。
又、納屋に行ってみれば、去年収穫した米が百五十俵位積んであったのですが、幸いにも七十俵位は助かっていました。その米を梁の上にロープで引き上げて、地面が固まってから市街まで一俵づつ背負って運び、丸一精米所に売って、その後の生活費に充てて一時を凌ぎました。
家の中は荒れ果ててしまっていて土を出したり、建具を入れたり、あちこちの修理をして自分の家に帰ったのは七月の末頃でしたが、まだまだ泥流の臭いがひどくて、なかなか眠れませんでした。
復興へ向けて
富良野川の流木引き上げや、町道の道路復旧作業にも出ました。その頃はモッコとショベルで仕事をしたので、肩にタコが出来たものです。
からの応援隊の人によって運ばれました。流木も死体も半分位土に埋まって土色になっているので、ちょっと目には見分けがつきませんでした。
長い髪が土の中に埋まっていて挺子で持ち上げた時、長い髪が頭から抜けて丸坊主になってしまい、一同目を覆ったものでした。
当時、政府から資金を借りて復興しても見込みがないから放棄すると言う派と、復興すると言う派とに分れて村は大騒ぎとなりました。結局は吉田村長の「この土地は自分達の親が開拓した土地だから見捨てることはできない、元の美田にするまでは、石にかじりついても復興する」と言う堅い決意に自分達も賛成して、町を挙げての復興に踏み切ることになったのです。苦労は致しましたが、後になって良かったと思いました。
昭和二年に復興することに計画が樹てられ、兄弟三人で太い流木は挺子で持ち上げ、長い丸太は両端を切って用材や薪に取り、利用できない流木は山に積んで乾いてから焼いて処理しました。それから排水路を掘り、その土で畦を作り、田の形が出来てから地均しをしました。
この年は富良野の兄の田畑も作りました。遠いので富良野に泊りがけの通い作で、秋の稲やビートを収獲して十月末にやっと一段落し上富良野に帰って来ました。
稲作再興に着手
仲川源四郎さんの畑、今の西小学校の所から毎日十五頭から二十頭の馬で客土しました。三寸の厚さに土を入れるのに長さ六尺、巾三尺、深さ一尺二寸の一合の箱で反当百五十台入れると私の所有地五町五反には八千二百五十台必要でしたから、朝は三時頃から夜は暗くなるまで運びました。
昔は機械のない時代で皆手で掘って運んだので、酷寒時は大変な重労働でした。土が凍り、囲まるのでツルハシを使うと手に響いてあかぎれが出来て血の流れることもありました。また、雪が溶けると、客土を散らすのも大変な仕事でした。
昭和三年には試験的に一町位作りましたが、鉱毒のためせっかく生えた稲の根が、風が吹くと切れて畦際に集まったのを見てがっかりしました。これではだめだと思って、田一枚づつの下に小さな排水を掘り悪水を流し、又、用水も一枚づつ新しい水が入るようにして、やっとのことで短い稲が出来ました。
収穫してハサに掛けましたが、株は重いが穂は軽く、風が吹くと落らるような稲で、反当一俵半位で等外のような米でした。
四年目からは五町五反全部作りましたが、地層も泥流が流れこんだため酸性化し、おまけに水も酸性でしたので肥料は多く施したのですが収穫はあまり無く、その上農機具も酸性が強いため金具が濁って大変でした。
再度、客土のため西二線北二十五号の墓地の手前の土地から、反当百合の割合で土を運びました。年々耕作するうちに増収するようになりましたが、気侯の悪い年は減収となり、被災地の方は皆さん苦労されました。気候の良い年で反当五俵の米が取れるようになったのは終戦の頃になってからでした。この復興は兄や弟の協力が有ったから出来たので、今考えると頭の下がる思いです。
二度日の試練
その後、昭和三十年頃でしょうか、稲も苗植するようになり、反収も上ってきました。減産防止対策として日新ダムが出来て、真水を灌漑するようになってから一段と収量が増すようになった矢先、昭和四十五年から米の生産調整で水田は転作を強制され外国からは安い農産物がどんどん輸入され、農機具をはじめ生産資材は値上がりする今日、農家の前途は暗く、又農家の青年にはお嫁さんもなかなか来てもらえない状態です。
昔は馬耕でしたが、今は近代化され大変便利になりました。しかし、使われる化学肥料の原料や、機械を動かす燃料は、全部外国の油に頼っている現状にあって、もし油の輸入が止まったら日本は全滅です。
今後の農家は自給自足ということも考えて、各戸に家畜を入れ堆肥で地力の増進を図り、食糧の増産に励んで頂きたいと思います。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一