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十勝岳爆発の唄

岩田 賀平 明治四十三年十二月十日生(七十四才)




十勝岳爆発の唄(その1)
作詞者   不  詳
作曲者   不  詳
一、 フラヌイ川の水清く ここにも春がめぐりきて
   四方の山々眠りより さめて蝶舞い鳥うたう

二、 名残りを止むる白雪の 彼方此方の頂きに
   北海情緒を物語る   風情は更に詩的なり

三、 花の朝(あした)に人は酔い もすそのさばきいと軽く
   行き交う人の顔容(かんばせ)や 心浮かるる昨日今日

四、 突然起る鐘の音に   すわ何事や何事ぞ
   暗雲一時におそい来て 歓楽の夢は破られぬ

五、 時は大正十五年   五月も最早末っ方
   二十四日も午後の四時 突然起る大音響

六、 すわ十勝ケ岳の爆発よ すわ硫黄山の噴火よと
   避難の警鐘乱打され  右往左往の大修羅場

七、 貴方と言う間もあらばこそ 俄かに起る山津波
   濁流いよいよ加わりて いずこに逃げるいとまもなし

八、 浮きつ沈みつ濁流に もて遊ばれて行くもあり
   木に取り縋りて行くもあり 此の世ながらの生地獄

九、 助けて呉れいの悲鳴をば 聞きつ妻子を目のあたり
   助ける術(すべ)も情けなや  見渡す限り泥の海

十、 紙より薄き人の世に 他人を救わんそのために
   犠牲となりし人々も  天には鬼人も涙せん

一一、悲惨極めしその中に いとど悲惨を極めしは
   新井牧場を始めとし  三重団体の百有余

一二、辛酸万苦幾星霜   血汗の結晶美田さえ
   げに天変といいながら 夢となりたる惰なや

一三、東京地方を襲いたる  大震火災の惨劇も
   かくやとばかり思わせて 近くは過ぐる九の歳

一四、遠き昔はバピロンの  ローマの街の滅亡も
   かくやとばかり思われて 思いも新た涙なり

一五、この偉大なる大自然  暴威の前には天帝も
   如何に施す術ありや  もろきは人の力なり

一六、十勝ケ岳に立つ煙り  百有余名の生霊を
   空しくなせし悲しみは 永久(とわ)に嘆くもつきざらん
十勝岳爆発の歌(その2)
作詞者   不  詳
作曲者   不  詳
一、夏まだ寒き山岳に  まだ消え残る白雪の
  十勝ケ岳の大惨事  ああ恐ろしき魔の手かや

ニ、百雷一時に打寄せる  天地もゆるがす爆音に
  棟木は裂けて家倒れ  助けを呼ぶ声うめき声

三、妻は夫に子は親に   すがりて逃ぐる一瞬間
  山なす泥土おそい来て 幾歳馴れし地も家も

四、はや一面の泥の海   呼べど叫べど誰一人
  助ける者は荒波の   妻子眷族諸共に

五、嵐の前の灯びと   一夜の露と消える身か
  神よ仏よ我々の   果かなき運命(さだめ)を救いかし

六、神に祈りし甲斐もなく 折しも大木たおれ来る
  哀れ泥土と大木の   下に敷かれて影もなく

七、百有余名の生霊を   奪いしものは十勝岳
  暴(ぼう)れい極まる大自然  ああおそろしの十勝岳

「著者註」
大正十五年の十勝岳大爆発は、前代未聞の大泥流によって、百四十四名の人命が奪われ開村以来一鍬づつ拓いた田畑一千町歩と、広大な森林を失った。
当時その惨状が報道されると、全国から驚愕の声と多くの同情が寄せられた。
そして「十勝岳爆発の歌」が一両年に亘って流行歌として二曲も歌われた。その頃流行歌は辻音楽師(演歌師)から、お祭りの神社の境内や人出の多い街頭で教わるのが常であった。
書生風の着物に袴姿の男性がバイオリンを弾きながら歌う。同伴の女性は歌いながら歌の本を売り捌く。村の青年男女はこの音楽師を大きく取り組んで年に一回のこの機会に流行歌を仕入れるのであった。
掲載した二曲は、それぞれ別の音楽師から、別の機会に習ったものである。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一