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「泥流地帯」文学碑由来記

高橋 静道  昭和二年二月六日生(五十七才)

≪期成会結成≫
「三浦綾子さんの文学碑を建ててはどうか、との話が昭和十二年丑年会の会合で出て、是非実現したいと云う事になったのだが賛成して下さるかどうか?」と、当時の商工観光野尻係長から電話があったのが、昭和五十八年四月十二日(火)で、この日は豊饒祈願祭が十時から神社で行われた日であり、無関係では無いようにも感じられた。
文学碑、と云う事になれば、文化連盟会長の貴方が最も適役なので……との依頼でもあった。
その翌々日の文連三役会、役員会の双方に諮り、一応の了承を得、本来であれば総会の承認を得るべきものであったが、三浦綾子先生の健康状態とも関係があり、又、早期に完成すべき……との意見もあって同、四月十七日(日)に準備会開催、同二十六日(火)懇話会で期成会のメンバー等が決定立案された。
同年五月十八日(水)夜六時三十分、視聴覚室で二十二名の開係者出席で期成会準備会が開かれ、この会合が発足総会として承認された。
期成会の会長に誰方が成るかについては、最も大事な点であったが、文連会長として引受ける事は、加盟団体の中に、文学関係では、俳句、短歌の二サークルのみで、中心に成ってお世話する事が出来ず固く辞退したのでありましたが、出席者全員のご意志に依り、「文運創立二十周年事業」の一つとして組入れさせて頂く事として了承を得、お引受する事になったものであります。
郷土をさぐる会、草分土地改良区、昭和十二年丑年会、被災者として草分と日新の部落代表の方、最も関係深く、法要もして下さっている専誠寺の増田住職さんにも加わって頂く事になった。
当初は、町長及び町議選挙前の七月三十日までに除幕を、と目標を企てたものの、泥流に関係した碑石を搬出するための許認可、運搬方法、経費の見積、碑文、規模、設計等々、思う様に進まず、加えて、選挙前のあわただしさもあって、昭和五十九年五月二十四日の爆発記念日の除幕に変更したのであった。
このため行動は夏休みの状態が続き、九月に入って急に忙しく成った。
役員、顧問等の就任依頼、目標募金額の引受依頼、そして、何よりも、規模の決定であり、長い時間と論議が必要であった。
碑石を国有地の泥流現場から搬出し、碑の周辺をタイル造とする小公園方式では、それ相応の地積量と、予算が三百数十万円必要である事から、幾度も案の練り直しが行われ、十月七日の庶務会議でこの事の決定、十月十八日の役員会で、漸く新しい予算と、部の構成、今後の進め方が決定されたのでありました。
≪建立地の選定≫
一方、この案件と併行して困り抜いたのは建立地の選定であった。日新、草分双方の被災地、観光を含めた深山峠等々、理想候補地は数ヵ処揚げられたが、実現する運びには、所有者、管理者の関係や、利害、思惑、政治までが関連して、何よりも困難なものにした。
草分のコミュニティ広場の中の一施設としての初案から、農集電話跡地、その他、何れも難問題があって決定には至らず、特に、建立地第一候補地草分地区、部落民の方々が、永久にお世話せねばならない立場にあるための責任と不安は、誰しもがその立場になった時そうであろうと思われ、御理解と協力が何よりも大切でした。
十二月八日(木)夜七時からの、草分会館における部落集会に出席させて頂き、発想の根元、理由、将来の責任等々、一度切りで快諾を得るには、あまりにも唐突であり、大事でもあった。
翌年の部落新年会の会合に承認を得るまで、地元の皆様の説得に奔走、努力して下さったのが、区長の立松慎一さんであり、公民館草分分館長の高士茂雄さんであった。
このお二人は、何度私の家まで足を運んで下さった事か。役場の関係課、係との打合せ、部落民の説得、土地の払い下げ管理、許認可手続等々、このお二人の努力と協力がなければ、この事業は遂げられなかったものと確信します。
最終的には、建立地である草分神社境内は、河川敷地であるため、平井進道会議員の金剛力で見込み建立認可となった事は、永く語り草となるでありましょう。
≪起工そして除幕式≫
昭和五十九年四月十八日の役員会で、具体的な設計見積、業務分担、日程の打合せなど、最終決定がされた時、漸く溜飲が下がる思いであった。
五月二日(水)大安吉日を卜し起工式、十六日の最終打合せ、二十二日は式典、祝賀会の準備、そして遂に五月二十四日の落成除幕式になったのであり
ました。
全国的にも又、全道的にも、文学碑はその数が少ないため馴染まず、そのうえ爆発から六十年という長さが、寄附行為をむずかしくしましたが、発起人、役員の皆様方が一丸となって働いて下さった御努力は、只感謝の外ありません。
前述の高士さん、立松さん、発案者の中心、野尻、中村有秀御二人の力量、木村了さんの行動力と、碑案設計、資金部の千葉誠町議さんと岩田賀平さんの活躍、工事部の佐川亀蔵さんの無欠席での実行力、祝賀式典での立案進行に増田修一さんの奮斗等々数えあげれば際限はありませんが、役職の皆さんの御協力に依って町民の多数の方々の協讃を得る事が出来たものと思います。
予想を大きく上廻る多額の浄財を幅広く、道外町外の方々よりも賜り、又、町議会の議員会や、課長さん達の管理職会からも御協力を得る事が出来ました。
固く辞退され乍ら、六十周年記念の為なら。と、快諾下さった三浦綾子先生に、改めて感謝申し上げたいと思います。
折悪しく除幕式当日、訪欧中の三滴綾子先生から寄せられた録音テープを転載させていただきます。
大正十五年五月二四日を想うとき          三浦 綾子
ご参席の皆様、私三浦綾子でございます。
本日は誠に感慨深い、私達にとって忘れることの出来ぬ日でございます。
大正十五年五月二四日、十勝岳のあの大爆発は一三七名(注・美瑛町七名を含め一四四名)の尊い命を奪いました。私はこの事実を知りました時に、何んとも言えない思いに襲われました。
人一倍正直に、そして真面目に勤勉に開拓した人々が何故にこの様な災難に遭わなければならなかったか……私はつくづくそう思いました。そして小説を書くことを思い立たせていただいた訳でございます。
小説を書くに際しまして上富良野の役場の皆様、そして災害に遭われた方々の甚大なご協力によりまして「泥流地帯」が出来あがりました。
私は、その取材の最中に幾度、胸をつまらせたことかわかりません。どれほど、どんな大きな希望を持って、この『上富良野』にやってこられた方々がその希望が実現してようやく三十年、苦労が報われたと思われた頃、せっかく耕した田も畑も……建てた家も…そして何よりもかえがたい命も失われたということ…。これは亡くなった方、そしてそのご家族、また友人、凡ての人にとって言い難い幸いことであったと思います。
私は『泥流地帯』の小説の中で、当時の村長、吉田村長の告別の言葉を『爆発災害志』から引用して書かせていただきました。
『大正十五年五月二十四日午後四時十勝岳霊猛威ヲ振ヒテ本村開拓ノ功労者百三十七名ヲ奪ヒ田畑其ノ他ノ損害無慮三百万円ヲ算スルノ一大惨害ヲ呈スルニ至レリ天変地異洵淘二測知スルヲ得ストイエドモ何スレド其レ悲痛ノ極ミナル唯々天ヲ仰イデ浩歎セサルヲ得サルナリ』
おそらく吉田村長は血を吐く思いで、この弔辞を読んだことと思います。そしてその後、人々は復興問題に直面するわけでした。復興すべきか、復興せざるべきか、村を二分してこのことに議論をかわしたわけでしたけど……それから六十年、今の『上富良野町』を見て、その時の災害の跡を感ずることが出来る人はいるでしょうか…。すばらしい上富良野町として発展しております今の姿を見るにつけ、今日までの復興に力を入れた方々のご苦労を思う……私は思うのでございます。
今日ここに、何んの罪もなく命を奪われた一三七名の方々の遭難の祈念と、そしてその後復興に力を尽された方々の祈念として、ここに碑が建立されることになりました。これは、おめでたいと言うべきか……ことよりも、もっと違う言葉で言い表わさなければならないように私は思います。
そして、その言葉は何んという言葉であるべきか私はわかりません。私達一人ひとり、言葉にならない言葉がきっとあるのだと思います。ただ願わくばこの碑によって…あの日の惨劇が…あの日、天に召された一三七名の方々の御霊が…祈念せられ…またその意志を継いで絶望することなく、それはそれは大変な中で復興に尽した方々の、その辛い苦しい復興の努力を讃える碑として、凡ての人に祈念していただきたいものと思うものでございます。
本日、私は以前より計画されておりました『週刊朝日』の仕事でヨーロッパに渡っております。丁度この日は若しプログラムが順調に進みますならばローマに到着する予定の日でございます。ここに参席できませんでしたことを深くお詫び申し上げます。
そして上富良野町の方々が今後も一層この碑にこめられた『上富良野魂』というべきでしょうか、その魂を受け継いで生生発展なされますよう心からお祈りしたいと思います。
これは私事でございますけれど、私共は昭和三四年五月二四日結婚いたしました。この日で満二五年を迎える訳でございます。五月二四日に結婚いたしました私が、五月二四日に災難に遭われた方々のことを小説にさせていただいたというご縁も不思議に思うものでございます。
心から御霊安かれと祈り、また上富良野町凡ての人々の上に神の大きな励しと慰めがありますように心からお祈りいたします。
最後に聖書の言葉「よろこぶ者と共によろこび、泣く者と共に泣け」という言葉をお贈りしたいと思います。
昭和六十年の五月二十四日の午後四時の記念日、記念の時に、連絡せずとも現場に集合し、思いを新たにしたいと、役員一同が申し合わせました。
誰方でも、一人でも多くの方が参集願えるならばと存じます。
言葉足らずでございますが、御協力下さいました御芳名を添えさせて載き、御礼といたします。
十勝岳爆発災害復興六十周年記念
       「泥流地帯」文学碑建立趣意
大正十五年五月二十四日に起きた十勝岳の爆発は残雪を溶かして押し寄せてきた泥流によって、一四四名の尊い人命を奪ったほか、開拓以来血と汗による苦難を乗り越えて築いた沃野を一瞬のうちに泥田と化してしまいました。
この惨事は、上富良野の歴史の中で最も悲惨で忘れることのできない大きな災害として記録されています。
しかし、現在ではそれらの惨事の状況を知る人も少なくなり、この困難な災害に敢然と立ち向って、今日の沃野に復興した先人の労苦や努力も、今では遠い過去の出来事として忘れ去られようとしています。このような先人の努力と、たくましい開拓精神は、上富良野町の誇りであり、この気風を次代を担う青少年に引継ぎ、今後の町の発展に資することは、現代に生きる私達に課せられた大きな責務であると思います。
十勝岳爆発から六十周年を迎えようとしていますが、このような時期に、旭川在住の作家三浦綾子さんは、この歴史的大災害である十勝岳爆発の惨事と当時の人々の復興に到る不屈の精神を克明に描いた小説「泥流地帯」を発表されました。
私連発起人はこれを機会に、先人のたゆまない開拓の努力と、復興不能といわれた災害を乗り越えた不屈のフロンティア精神を、町の永遠のシンボルとして後世に伝えるとともに、作家三浦綾子さんが綿密な調査と多量の資料を基に描いた小説「泥流地帯」により、私達に先人の偉大な精神を再び甦らせてくれた功績を讃え、「泥流地帯」の文学碑を郷土と富良野地方開拓発祥の地であり、十勝岳爆発被災の地である草分地区に建立し、先人の尊い労苦と遺業を讃えるとともに、その精神が永遠に受け継がれていくことを心より祈念するものです。
昭和五十九年五月二十四日
「泥流地帯」文学碑建立期成会役員名
名誉会長 酒匂 佑一
顧  問 平井  進  小野 三郎  平塚  武  宮中 正壽
     一色 正三  菅野  学  和田松ヱ門  村上 国二
     菊池 政美
相 談 役 山崎  稔  高士 茂雄  立松 慎一  高田 秀雄
     白井  清
会  長 高橋 静道
副 会 長 金子 全一  松下 金蔵  平山  寛  増田 修一
会  計 千葉  誠  千葉 陽一  和田 昭彦
監  査 加藤  清  千々松絢子
事 務 局 木村  了  中村 有秀  野尻巳知雄  高橋 七郎
総 務 部 金子 全一  加藤  清  田中喜代子  田浦  博
     清野 てい  篠原藤一郎  鈴木  努
式 典 部 平山  寛  久野専一郎  山岡キクエ  葛本美智子
     千々松絢子  森本 京子  松本 紘子
資 金 部 岩田 賀平  高橋 民吉  笹本 庄吉  千葉  誠
     吉田  昇  和田 昭彦  千葉 陽一  竹谷 愛子
     本間 久子  青地  繁
工 事 部 松下 金蔵  佐川 亀蔵  片倉喜一郎  増田 修一
     飛沢 尚武  渡辺隆治郎  村岡 八郎
文学碑建立奉加御芳名
赤間 玲子  会田 義隆  安西 英雄  有本 保文  有我 英子
阿部 啓作  KK 旭堂  荒川食品店  菓子司あかがわ
秋野  曷  岩田 賀平  伊藤 勝次  岩部  進  一色 正三
一宮 孝子  井戸川三雄  石川  彰  磯崎  稔  岩崎みさを
内村良三郎  浦島 秀雄  上村 重雄  浦島 与二  薗芸クラブ
大福 幸夫  岡沢 孝春  及川 嬌子  大垣 俊光  岡崎トシ子
小野寺敏昭  岡田 三一  大道時計楽器店  奥田はなや
長内よしえ  生出 浩一  荻野 昭一  大角伊佐雄  大場 富蔵
長内 敏栄  岡崎 光良  小野裕美子
上富良野町議会議員会 上富良野町管理職会
菅野  学  金子 全一  加藤  清  絵画美ふじ会
神谷  広  菅野 忠夫  菅野 藤男  勝井  勇  加賀美繁密
笠原 重朗  金子 降一  金田  浩  歌謡サークル
勝井はきもの店       片山アイ子  門脇 一哉  河村 善翁
垣脇 和幸  垣脇真知子  加藤 幸雄  神田  武  木村  了
菊池 政美  北川  澄  幾久屋金物店 北川 春吉  北川 一郎
久野専一郎  葛本 武志  久保 儀之  郡司 宗純  工藤喜一郎
桑田 輝市  倉本千代子  工藤 弘志  小玉 庸郎  混声合唱団
小村 蓉子  こども合唱団 近藤 光子  三絃子真会  坂弥  勇
佐藤電気商会 佐藤 邦介  佐藤 宮子  斉藤  実  斉藤 正弘
佐藤 国幹  佐藤 政幸  斉藤 元孝  佐藤  操  桜田 幸一
坂弥 光男  渋江  久  信用商事佐藤 城野 正子  清水 敏丸
清水 一郎  新屋 政蔵  渋谷 達也  書道愛好会  児童音楽研究会
菅原  敏  スガノ農機  菅野 祥孝  菅   淳  鈴木  努
鈴木  叔  菅  靖子  菅原 幸夫  末岡  修  瀬川 孝作
筝曲すみれ会 高橋 静道  田浦 夢泉  高橋 七郎  高橋 冬芦
高橋 俊治  高橋迎子郎  高構 良子  高橋 強志  高橋 重志
高橋 寅吉  高橋 博男 大雪民舞研究会 多地 明信  田中 辰雄
高尾 君子  高橋よしの  田中喜代子  竹谷 愛子  武内 義雄
高津 健一  台丸谷一男  台丸谷千映子 千葉 陽一  千葉 順子
千葉 周一  千葉マサヲ  千葉美代子  蝶野 俊明  千々松絢子
辻  昭男  道央信組   増倉  昇  飛沢 尚武  刀祢 葉子
陶芸同好会  中西 覚蔵  伸川善次郎  中村 有秀  成田 政一
中田 繁利  納谷 富市  西崎  渚  西谷 勝夫  日舞藤間会
西  武堆  西塚 勝義  西田 孝男  野尻巳知雄
農協役員一同 浜   巌  林  財二  杯  光男  芳賀 正夫
バトンクラブ 板東 義雄  久野 昭夫  平山  寛  平塚  武
平田 喜臣  火の鳥    富良野信用金庫 噴煙短歌会
文化刺しゅう 富士カメラハウス フクヤ薬局 フタバヤ  富士屋呉服店
藤田 嗣人  本間 庄吉  本間 久子 ホーム指圧健生会
堀内慎一郎  増田 修誠  マルイチ薬局  増屋 食堂
守田 秀男  松本 三夫  松下 金蔵  松浦 栄一  守田 昭子
松下 よう  真鍋 美勝  松井  勇  前田 光弘  松浦 徳治
松藤 信光  民謡同好会  水谷 小菊  民舞研究会  水谷甚四郎
三好ナミ子  三嶋 笑子  宮下  昇  立松 静江  村上 国二
村上 国夫  村上 和子  村岡 八郎  村田 六輔  木皮画同好会
元木 俊明  森本 京子  山本 康夫  山崎 慶一  安井 弥生
山下佳主永  山岡キクエ  山岸 久子  安川  宏  山下 敏男
吉田  昇  吉田 弘子  吉田由紀子  吉田 正典  吉武 敏彦
米田 正江  仙波  勲  李  相道  和田 正治  和田松ヱ門
渡辺隆治郎  渡辺  勇  渡辺 春男
<日新>
藤山  基  喜多 光儀  片貪 貞夫  白井 一司  菊地  博
佐川 亀蔵
<草分>
笹木 庄吉  立松 慎一  高士 茂雄  山崎  稔  伊藤 鶴丸
布施 誠一  高田 秀雄  川喜田幾久一 伊藤  真  笹木 光広
落合  勇  岡田 正和  相良 義雄  土田 栄吉  岡田 一見
内田 光行  島田 順一  北村 春雄  伊藤 孝司  高士 辰雄
谷  政行  守田 強志  船引 定雄  中沢  実  北村 碩啓
金谷 敬一  廣川 利之  廣川 義一  平吹 喜市  廣川 勝一
篠原  正  篠原藤一郎  荻子 利雄  伊藤 誠市  田村 嘉市
鹿俣 民生  大森 利和  上村  勇  上村 政雄  立野 栄作
吉田 千里  清野 てい
<日の出>
川田 勝司  田中  実  澤田 間佐  高田 道雄  杉山芳太郎
内田 酉松  白髭 一雄  和田 昭彦

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一