郷土をさぐる会トップページ     第04号目次

金子村長の思い出

本間 庄吉 明治三十三年二月十日生(八十四才)

金子浩さんの思い出について書くよう依頼を受けましたが、私は大正十三年九月一日役場に奉職し身近に仕えていましたので、その間折にふれ聞かされた事や、古老の方々、ご子息様よりお聞きした事柄と、行政の執務の中から思い出や印象深かった事について、記憶を辿りまとめてみました。

生い立ち

金子浩さんは明治十九年三月七日富山県中新川郡東谷村で清水彦十郎、ハツの次男として生を受けられ、明治三十四年渡道されている。
清水家は東谷村で代々庄屋をしてきた名望家であり、清水家の先祖は五十代桓武天皇の末裔の平家の落武者で富士立山に居住代々剣、槍、刀の製造を営んでいたと聞いている。旧姓は清水と言われていたが、叔父に当る金子与八郎の養子として入籍、金子浩と改姓したのが明治三十年の終り頃と思推される。渡道した頃叔父金子与八郎は旭川に居住していて其処から旧旭川中学校の前身である上川中学校に学び、学業成績も抜群、最優秀で幾多の賞状を授与されており(現在金子家の本家に保存されている)、更に早稲田大学への進学の志望を抱いていたが、家庭の事情で止むを得ず断念したと聞かされている。
上川中学校卒業後現在の中富良野町西中小学校で代用教員として勤め、三代校長として就任、明治四十年七月上富小学校(現西小学校への統合前の創成校の創立当時の校名上富良野尋常小学校)に転勤、子弟の教育に当っていたが、生来覇気に富み姑息なる俸給生活の迂なることを覚り明治四十二年翻然として教職を辞し、郷里の富山県に帰り、北海道開拓の有望なることを力説して、生家の清水家より五百円山貰い受け、二十三戸の同志を募集、空知郡砂川村に移住し、道から特定地二十三戸分の附与を受けてこの開拓に当った。
越えて明治四十三年百二十八町歩の未開地を購入して本町金子農場の経営に当り、僅の期間に全面積開拓の実積を挙げたのである。
小作戸数も二十戸を数えるに至り、常に小作人には温情を以って接し、小作料等も他の農場と比較にならない位の安さで反当一円乃至二円を徴収したと聞いて居り小作人からは常に慈父の如く敬慕されていた。自らも五町歩の試作研究をし、その中の数町歩は、果樹栽培に努めていたと、ご子息達が幼き時代の記憶を話されたことを思い出します。
公職を歴任する
村内の知識人として信望厚く、部落の行政区長、村議会議員、学務委員等を歴任していたが、殊に事務的才幹に長じていたため、身辺の輻輳する困難な問題については常に相談にのり、之を適切に解決処理を為す等その人望は益々厚く、大正六年一級町村制が施行された時の初代収入役福屋新氏の辞任により収入役として推挙され、大正九年二代目助役として就任、その職務を遂行している傍、農友会長、地主会幹事等を歴任され、村勢の伸展に努力を続けられ、将来を嘱望されていた一人であった。
思い出
私の印象に残っている事及び村の有志、旧吏員から聞いた事柄について列記する。
金子元村長は豪気豁達で非常に厳格な人でしたが反面ユーモアに富み温情味の溢れる方であった。
中学生時代に郷里富山県の従兄弟が遊びに来て水泳の自慢話になり、観海流(川泳ぎのこと)を修得していると言い、それではと早速神居古潭にゆき、勢よく飛込んだ迄はよかったが暫く浮いてこないので心配していたらポカッと浮いてきて安心したと、少年時代の思い出を聞かせてくれた。
西中小学校長時代の話で、ある土地の素封家の法要に招かれてお詣りに行った時、当時流行のインパネス(二重マントを短くしたようなもので男子の和服の外着)を初めて求めて着用、意気揚々として出席した時、校長故に上席に案内されインパネスを礼服と思いこんで着用しているので、その侭床の間の上座に坐っていた処、お坊さんは隣に座り是を見て校長先生よいものを買いましたね。いつ買いましたかと聞かれ昨日旭川から買ってきて本日初卸しですよと真面目になって答えますと、坊さんはそれは外着で家の中で着るものでないと教えられて、赤面して脱いだが其の時は穴があったら入りたい気がしたと私に話し、笑っておられた姿は純真無垢童顔そのものでした。
上司に対しても礼節厚く義理難い万で、晩年吉田村長さんが病床に臥しておられた頃、ご逝去なされる一週間程前に病床を訪れお二人は手を取り合って泣いたと聞かされ、吉田先生のご逝去後は奥さんを始め吉田家のことについて気を使われ、深交を重ねていたと聞いている。
金子さんは自己を律するに非常に厳しい反面人情味の厚い方で二、三の方の逸話を記述します。
K氏 昭和二十一年五月帰還復員した際、金子村長は涙を流して喜んでくれ、非常に感激しました。
Y氏 (1) 昭和十七年十二月年末年始の休暇を利用し父の墓参のため帰郷を申し出てた際、事務の都合でギリギリ迄勤め、ご挨拶にいった処、銭別と言って頂いた額が三十円(当時私の郷里新潟迄の汽車賃が十円三十銭)でした。村長さんの温情に感謝しています。
(2) 昭和十八年四月私に召集令状が来た折、三月に多勢が召集になったため年度末でもあり、配給品の砂糖、お酒は全部配給済で私の時は皆無でした。この時産業課長に命じ業者に頼み造材用の合成酒一升を都合し、砂糖はないが洒だけでもと言って下され、その時私の身分についても、お前を書記にするのは未だ早いが、君が帰って来る迄私が村長をやっているかどうか分らんので書記を発令したと言って、三円昇給した辞令を頂いた。その事を考え思い遣りある措置に感激いたしました。
N氏 (1) 文書の起案決裁について、当時の役場吏員の執務の中で起案文書が一回で通った事がなかった。甚しい時は投げつける。教えてくれないので考えて二回目の決裁を受けるが通らず三回目は膝がガクガク震える状態でやっと決裁を受けた。村長の持論として行政は真剣に考えなければいかん、間違いは許されん、一度間違った事はとりかえしがつかん、どうしたらよいか真剣に考えるべきであると言っていたのを覚えています。
(2) 朝村長さんが登庁すると、某吏員がいない、挨拶をしないで出張したと言って、美馬牛駅に電話し呼び戻し、型どおりの挨拶をしてから出直したと言うことを聞いています。
(3) 某吏員が自転車に乗り荷物を下げていたのでその侭帽子をとらず挨拶をして通り過ぎた。役場に行ってから早速呼びつけられ、上司に対しては自転車から下りて挨拶をすべきであると注意を受けている。
K氏 (1) 昭和十三年十二月十日現役兵として入営が予定されている時、軍馬購買が終る迄勤務せよと言われ、十二月一日付で書記を命じ、二日付で依願免を発令、一ケ月分の給料を支給してくれた暖かい措置に対し感激いたしました。
(2) 昭和十四年五月現役兵の第一期検閲の終った頃、旭川に泊り連隊に連絡して臨時外出を依頼してくれ、私を宿まで呼んで、一諸に映画館で観覧をつきあってくれた。慈父の様な心づかいにうれしく有難く思っていました。
(3) 終戦後復職してから、正月に私共若い職員のみ数名を自宅に招き、ご馳走して下さった暖かい心遣いは忘れ得ぬ思いでの一こまです。
十勝岳の爆発
大正十五年五月二十四日に発生した十勝岳の爆発は、残雪をとかし、山津波となり押し寄せてきた泥流によって百四十四名の尊い人命を奪い、水田五百町歩、畑二百二十五町歩、牛馬二百頭、家屋二百棟、立木二十万石等巨万の財物を瞬時に喪失した大惨事は、上富良野の町史の中で最も悲惨で忘れることのできない大きな災害であった。
この災害には村を挙げて救護に当った。その災害救助対策本部の中核となった村の吏員の総書任者となり、村長を助け他市町村からの救援活動者の受け入れ手配等統一ある活動がなされ蔭の力は誠に大きいものがあった。
あれから六十年の星霜が流れ、世代も二代、三代目に引継れ、平和な農村で営農が続けられ、本日の隆盛をなしております。
この六十周年を記念し有志に依り記念碑(註昭和五十九年五月二十四日建立十勝岳爆発災害復興六十周年記念「泥流地帯」文学碑)が建立された事は、誠に時宜に適した施設であると喜んでいる一人でございます。
村長に当選
昭和十年七月十日村長に就任されましたが昭和初期以来、度々凶作等の災難を受け、農村の疲弊はその極に達していたので、企画性に富んだ村長さんは陣頭指揮により、我が村の農村経済の立て直しの為、経済更生計画を樹立、資金獲得のため東奔西走、政府や道に陳情、関係機関を動かし各種資金を導入、転貸をなし土地の開発や改良、自作農創設、負債整理等の事業を精力的に推進した。
自作農創設資金の導入
自作農創設維持資金償還組合や、負債整理資金償還組合を、各行政区毎に地域単位で五十四の組合を作らせ、自主的に償還に当らせて滞納者の皆無を図り健全な運営をなさしめた。
その頃の償還組合の主なるものは次の通りである。
日新、創成、豊郷、江幌、静修、江花、日の出、島津、山加、富原、東中、東中安井農場、以上十二組合。
自作農資金により開放したる農場は次の通り。
細野農場、金子農場、津郷農場、上富良野村有地農場、東中安井農場、富原安井農場、山加第二安井農場、西谷牧場、豊深農場、福島農場、北海道拓殖銀行所有農地、島津農場、以上十六農場外個人所有の農地百余戸。
民有末墾地として開発資金により開放したるもの。
長野農場、吉田牧場、松井牧場、細野農場、橋野農場、山加農場、多田牧場、藤井農場、森農場、幸田牧場、北海道拓嶺銀行農地、以上十一農場。
以上の如く上富良野農地の約四割に近い面積の開放により、自作農家が増え将来に希望を持って営農にいそしむ様になったのは、皆金子村長の卓越した手腕によるところが非常に大きい。
負債整理について
前述の如く冷害凶作のため農家の負債も嵩み、生活は益々に苦しくなる状態なので、全村に亘る負債整理計画を樹て、三分四厘の低金利借替え農事組合を組織、之を単位二十ケ年の長期償還組合を設立して夫々整理する等、農家の救済を図り安定農家の育成に力を注いだ。
島津農場の開放
島津農場は明治三十年道内で四ケ所の調査が進められ、明治三十一年七月最終決定開拓の準備に取りかかることになり、旧藩主島津家においては全道で農場予定地四ケ所で、二千町歩の中の一ケ所として本町の島津地区に決定、五百町歩の計面が樹てられた。海江田信哉氏が支配人となり、明治三十二年二月長沼方面より募集した小作人二十五戸を入植させたのが島津農場の始まりで、翌三十三年度も二十五戸が入植を見て開拓が進められたと記録されている。
島津農場が他の農場と変っている点は小作契約書の取りかわしは一切せず、証人立会の上で三つの申し渡しだけであった。
それは
  一つ 国法を犯さざる事
  一つ 組内の平和を乱さざる事
  一つ 小作料を納める事
以上の三つの中一つでも犯した場合は、退場を命ずると言う口約で一貫しており、この約束にふれて退場を命ぜられた者は一人も出なかったと言われている。
徳義を重んずる事を第一に取り上げお互の人格を尊重し、人間味ある取り決めがなされた島津家の温情味溢れる方針は、小作人の団結も堅く開墾に精進したため、全農場の開拓も予定通り進捗したわけで、爾来三十八年を経過した昭和十二年金子村長は、 当時の制度資金である自作農創設資金を導入し、全地域五百ヘクタールの開放を受け、全戸自作農家にしようと島津家にご相談申し上げた処、島津家では本道開拓が目的であり「大体の目的を達した今日、小作者が地主となることがより以上幸福となるのであれば、当家としては財産として維持する考えはないので開放いたしましょう。払下げ価格も要求せず評価は一切村長に一任する」と言う寛大なる気持で、小作者も地主もお互に目的を達したと言う喜びの中で自作農家が創設されたわけです。
二十四ケ年の長期資金であったが、従来の小作科を納めたつもりで資金を積立て、わずか七ケ年で繰上慣還が出来た事も小作者の団結力の強さと、金子村長の指導助言が適切であったからではないかと思っている。
畜産の振興について
寒地農業確立のため諸施策が倒立され、道庁の補助牛を始め中小家畜の飼育を奨励し、これが増殖に力を入れ農家経済の安定を図った。
開拓の為大きな力となった馬は相当数飼育されていたので、大正七年軍馬購買地として本村が指定になり、年々飼育頭数も増え、道内屈指の軍用候補馬の育成地として有名になった。
家畜の諸行事を実施した家畜市場は、昭和八年頃上川畜産組合より補助を受け幼駒の運動場として施設したもので、その区域は今の中央保育所の処からフラノ川迄の広さで、軍馬購買、家畜品評会、馬匹去勢、軍用保護の鍛練会等が実施されていた。
業務多忙の申を馬市場での諸行事に金子村長さんは巻き脚絆姿で出席され、その成果を見守っていて下さった事は、懐かしい思い出となっている。
婦人会の育成
婦人会活動に関心を持たれ、村の愛国婦人会支部を設立し加入を勧め、立派な組織と社会に於ける婦人の活動を助長した。
大正十五年の十勝岳爆発の際の愛国婦人会の活動は大変大きな力を発揮し、救護班と協力し炊き出し等罹災者の救護に当り民心の安定に尽瘁された。
総裁の宮より優秀旗の投与を受けている。
日本赤十字社に対する協力
日本赤十字社に対しても村内各戸の加入を奨励し日本赤十字社上富良野支部を結成、優秀な活動が認められ、総裁の宮殿下より優秀旗の投与を受けている。

機関紙 郷土をさぐる(第4号)
1985年1月25日印刷  1985年2月 1日発行
編集・発行者 上富良野郷土をさぐる会 会長 金子全一