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続 石碑が語る上富の歴史 その(三)

中村 有秀

石田 雨圃子 の句碑
『秋晴や
   雪をいたゞく
        十勝岳』
建立年月 昭和二年七月
建立場所 十勝岳中茶屋入口
十勝岳中茶屋に行く橋を渡って、直ぐ左側にカミホロ荘の案内板が立っています。その傍らにこの句碑が半世紀以上にわたって十勝岳とともにあり、春の雪解けが始まると句碑は上からゆっくりと顔を出し、秋には紅葉と化した山の樹々の中に立ち、晩秋からは雪の早い十勝岳を眺めながら、日一日と句碑の台座から雪に埋って行き最後には完全に雪の下になって半年の冬眠に入る感じで、この句碑は十勝岳の春夏秋冬を眺望し、道行く人々を五十数年も見続けてきています。
この句は、ホトトギス系の俳人 石田雨圃子(本名 慶封)の作であって、この句碑の建立にあたっては『郷土をさぐる』第一号〜九条武子編〜で若干記してありますが、上富良野町本町 聞信寺先代住職 門上浄照師が十勝岳を仏教の霊山的に開発しようと念願し、それを着々と実践しておられた行動力によって建立されたものです。
石田雨圃子(本名 慶封師)は、門上浄照師と同じ浄土真宗本願寺派(西本願寺)の慶誠寺(現在は旭川市豊岡五条四丁目)の先代住職でしたが、北海道の俳句界に大正十年代から昭和は戦前、そして戦後の二十七年に没するまで、大きな影響を与えると共に多大な足跡を残してきました。
慶封師は又、旭川竜谷高等学校の母体ともいうべき『仏教学園』を大正十五年に創設し、自ら園長となって西本願寺教師の養成にもあたられた。
大正、昭和戦前期の中央俳界の風潮と、北海道の俳壇に大きな影響を与えたのが、高浜虚子と長谷川零餘子であった。
零餘子は、大正三年からホトトギスの地方俳句欄の選を担当し石田雨圃子を知った。大正十年に俳誌『枯野』を創刊し、その年に北海道の新天地に新しい読者を求めて初来道した。その時は、石田雨圃子らに歓迎を受けると共に、その後『小樽新聞』の北海俳壇選者を担当したためその影響は全道に及んだ。
石田雨圃子とは……
本名を慶封といい、明治十七年一月十三日富山県西呉羽の妙方寺に生まれた。富山の仏教中学を経て東京の高輪中学に転校す。この頃より内藤鳴雪(子規日本派)の『万朝報』や渡辺水巴の『俳諧草紙』に投句をはじめた。早稲田大学の文科に進んだころ、下宿の近くに住んでいた久米三汀の影響で句作に入る。早稲田大学卒業後は布教師としてハワイへ渡航していたが、大正八年に父の跡を継いで、旭川慶誠寺二代目の住職になったのである。
はじめ『枯野』の長谷川零餘子と親交を結び、小樽の石井輝女とともに『枯野』の課題句選者となり、大正十二年四月に俳誌『雪舟』を創刊する。この年の二月末から零餘子が橇の旅をしたくて来道し、十勝岳温泉にも泊っているので、『雪舟』創刊について十分に雨圃子は相談されたものと思われる。
零餘子は、かってのホトトギス課題句選者でもあり、雨圃子らの招きによって大正十一年以来度々来道し、『枯野』の投句者も次第に広がって来たが、高浜虚子の来道を契機として雨圃子はホトトギスへ傾き、昭和四年七月には『木ノ芽』(雪舟を改題)を創刊して、鮫島交魚子、藤田旭山、名境塩空、小野白雨、三ツ谷謡村、水野波陣洞らのホトトギス系俳人を悉く傘下に集め、北海道に花鳥諷詠のゆるぎない地盤を作るもととなった。
『木ノ芽』創刊号で雨圃子は……
…吾等の同人によって今度俳句雑誌『木の芽』を刊行することになりました。
殊に北海道には北海道としての地方色があることは勿論であります。そこでこの土地が、この自然がもつ特異性をどこまでも発揮し、いわゆる骨の髄にまでも泌み込むような研究を重ねたいとあわせて念願しているのであります。
由来写生ということは誠に易々たることのようで、その実はなかなか困難なことであります。
いつも的はずれの駄句をものにして得たりと意を強くしていたのが、過去に於ける吾等の句境界でありました。『木ノ芽』はこの弊を飽くまでためて、真個俳句道の上のともしびとなり指針となるべく、多くの同志と共に写生道完成の域に達したいと存じます。…
とその抱負を述べている。
この頃を境に北海道に雨圃子の代が始まったのである。ホトトギスの北日本俳句大会が昭和八年に旭川で開かれたのも、雨圃子の計画になるものであった。
この大会を終えて、雨圃子はホトトギス同人に推挙され、ホトトギスの唱導する写生俳句、花鳥諷詠の俳句は一段と北海道にも盛んになってきたのである。
昭和九年一月『木ノ芽』を改題して『石狩』の時代を迎えることになったが、その機運をもたらしたものは昭和八年開催のホトトギスの北日本俳句大会である。この大会を記念して発行した句文集『古潭』には、高浜虚子自ら次のような序文を寄せており、北海道の自然と雨圃子の人柄を適切に表現しているので記しておくことにする。
…『道内の各地を回り北海道の天地が親しいものになって私達の懐に這入って来たと言う感じです。北海道と言う所は到る所に火山があり、其の火山が湖を抱いているという事も知りました。又、自然林は「さるおがせ」がついて其の為に腐朽し、惨憺たる感じを与えるものであることも知りました。本当の花野というべきものは此地に到ってはじめて見ることが出来ました。
大雪山の雄姿は見る事が出来ませんでしたが、雄阿寒、雌阿寒の秋晴の空に峙っている崇高な景色は遠く釧路で眺めることが出来ました。又北見富士の、富士の如く笠雲をいただいて孤立している様はもの淋しくあわれに遠望されました。海霧に閉ざされた釧路港の霧笛の音も、夜もすがら聞きました。
私達は其等の景色を回想する時に、其所には石田雨圃子君の短躯肥満の姿を想起せずに描けぬのであります。初め北海道、しかも札幌や小樽を飛ばして、旭川で大会を開くということは少し突飛なことの様に考えられたのでありますが、其れが無事に挙行されたばかりでなく、しかも、極めて盛大に極めて有意義に挙行されたと言う事は全く雨圃子君の力によるものであります。もっとも他に幾多の諸君の協力があったことは認めますが、雨圃子君の断じて遣るという勇気が無ければこれは出来なかったのであります。私達は北海道の天地に親しみを覚える様になり、北海道の天地は又、私達に親しみを寄せるようになり、北海道の俳句界と私達とが大変近いものになったということ、それらの消息はすべてこの『古潭』一冊に載せられていることと思います。
この『古潭』を境にして『木ノ芽』を改題して『石狩』となし、これより大いに発展すると言うことを聞きました。誠に時を得たる挙措と思います。延々百里の石狩の水は想像しても愉快であります』…
このような祝福を受けて『石狩』は出発し、それから約十年間の間に、多くの写生派俳人を育成し、道内の各地に諷詠の輪を広げるところとなった。
高浜虚子が雨圃子について『短躯肥満』と表していたが、その事について次の様な話しがある。
渡辺宗成氏(元上富良野西小学校長で現在は比布中央小学校長)が幼少の頃、渡辺校長の父渡辺大秀師は浜屯別の大成寺の住職でしたが、石田雨圃子(石田慶封師)とは富山県の同県人であると共に同じ浄土真宗本願寺派という事で懇意にしており、たまたま布教説教で大成寺に来られ一泊した時でした。慶封師をお風呂に案内し少したった時、『オーイ、オーイ』という声が風呂場から聞えるので、父の大秀師と宗成少年が飛んで行って見ると、風呂桶の底を抜かし立往生している慶封師(雨圃子)がいたという事でした。
『短躯肥満』の体を入浴の際に、風呂桶の底に一気に全体重がかかったものと思われます。今から五十年前以上の雨圃子のある時の一コマで、高浜虚子の表現通りの師であった事がうなづけます。
雨圃子は昭和十二年 句集『看経餘録』を発刊すると共に、昭和十六年十月に旭川慶誠寺境内に句碑を建立した。
戦争の進展と共に用紙も配給制限となり、雑誌等に廃刊勧告が出されるなどのことから、昭和十九年一月号を最後に『石狩』も廃刊のやむなきに至った。
北海道の戦後の俳句界は、諸俳誌の目ざましい創、復刊が見られた。
戦前の北海道俳壇で、ホトトギス系の重鎮として『石狩』を主宰してきた石田雨圃子は、昭和二十年十一月に道内俳誌復刊のトップを切って、誌名を新しく『古潭』と改題して発足したものであった。
雨圃子は、その創刊号の巻頭で

……私はここに改めて、ささやかながら俳誌『古潭』を発行して花鳥諷詠につとめ、自然深く没入して内有にこれ努めたいと思うのである。それは単なる自然を愛好するというに止まるのではなく、母となるべき自然と、一枚なる自己の思いに深まり行くことである。この一筋にかかるものこそ大自然でなければならず、自然を深くほり下げて新しい水を求めよとの虚子先生の金言、この意味に理解する処に吾々を導く言葉と信じる。句境が深くなることは自然のより客観的な把握に非らずして、自然の清浄さをまとうことである……

と述べ、師の高浜虚子もこれに

    『秋風や 神居古潭を 名にめでし』

の祝句を寄せて、復刊の前進に期待を寄せたのでした。
昭和二十一年七月に、雨圃子還暦及び句集『牡丹の芽』出版祝賀俳句大会を旭川で盛大に開催し、戦後の精神的、経済的な荒廃の中での俳句という伝統文芸の復興に意欲を燃やしたのです。
道内の諷詠派の主導的立場にあった雨圃子であるが、戦後は独自性をもった個性的集団が一斉にスタートを切り、北海道俳界は社会派、芸術派、諷詠派という三つの潮流を形成してきた。
しかし、戦前にあったような中央の俳風への無批判な盲従ではなく、近代的な自我に目覚めた一つの文学運動として出発し、北海道の精神風土を発掘するという成果を生み出しはじめたのでした。
雨圃子は、浄土真宗本願寺派、慶誠寺住職として宗門を守りながら、十七文字で表現する文学で俳句界に大きな影響と足跡を残し、昭和二十七年一月十三日六十九才を一期とし、忽然として逝去された。
慶誠寺境内には昭和十六年十月に建立された次の句碑が静かに大雪山を眺望し、そして慶誠寺、きくし幼稚園、竜谷高等学校を見守るかのように立っている。

    『秋の雲 大雪山に おさまらず』

機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷   1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一