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吹上温泉と深山峠

金子 全一(七十五才)

吹上温泉
札幌に大学教授や会社社長、支店長等の名士で、山の愛好者の集り「破岳会(ハタケカイ)」がある。会長は○井デパートの今井道雄氏で、事務所はサッポロビール会社の中にある。
その会合で当地出身の知人が十勝岳温泉の宣伝をした。ところが皆相当の年輩の人達でもあり、吹上温泉なら知っているが、十勝岳温泉は知らないとのことであった。
現在のように、リフトがなければスキー場に非らの時代と違って、昭和の初め頃ニセコと並んで吹上温泉は、東洋の「サンモリッツ」(スイス)と言われて非常に有名であった。
その動機になったのは昭和五年五月スキーの巨人「ハンネス・シュナイダー」(オーストリア)がスキー指導のため来日したのであったが、もう内地では雪が消えてできないので、十勝岳で実地指導が行われることになった。この時シュナイダーが十勝岳の山容と三段山スロープとその雪質を絶賛して、東洋一の折紙をつけてくれたのであった。
またその時教わった「シュテム・ボーゲン」は、当時としては最新技術であったので、講習を受けた人達はシュナイダー直伝として巾をきかせたものだった。その当時の役場職員だった本間庄吉さんや、長井禧武さん達は頼まれて他所へも指導に出かけたりした。
これを機会として十勝岳のスキー登山者も多くなり、西村又一さんを長として、笠原重朗さん、道井義房さん等でガイド組合を組織したり、こんな調子でスキーのやれる連中は皆大した張り切りようであった。
吹上温泉旅館の支配人であった飛沢辰巳さんは、人柄の良い大変親切な人だったので、彼を慕って北大生を初めとして毎年訪れる人が多く、何時も満員であった。富良野岳に突出した岩が見えるが、之を独立岩と言うのだが、北大生は「チンポコ岩」と弥して親しんだ。
このように賑わった十勝岳の冬山にも悲しい出来事が起った。昭和十一年十二月富良野岳に行く途中雪崩れに会い、若い前途ある北大生二名の犠牲者を出したことである。
また雪の博士として知られる北大の中谷字吉郎教授は、学生をつれて白銀荘に泊り(今の白銀荘とは違う)、数々の雪の結晶を発見した。中谷博士は随筆家としても有名で多くの著書があるが、「雪の十勝」と題した一文の中から次のようなことが出て来る。
「十勝岳のこの附近は雪の結晶の研究にはまず申し分のない所であろう。或は世界でも珍らしい所ではないかという気もする。(中略)自分達が白銀荘で見たような美しい結晶は、世界中のどの観測者の写真にも見られない…」とか、客馬橇に湯タンポを入れて白銀荘に向う途中、霧のような雪が落ちてきたので馬橇から飛び降りて顕微鏡をのぞくことや、研究の合間に振子沢、三段山、泥流コースを滑る様子。また、白銀荘に大久保という話の画白い監視人がいたが、これもO老人として偽筆にでてくる。
このようにして吹上温泉が有名になるに従って、来訪される名士も多くなり、高松宮様、李王殿下を初めとして、西本願寺の大谷光照法主、北海道庁長官佐上信一等もスキーを楽しんで行かれた。
私もスキーのやれる友達が来たり、たまたま村会議員をしていたので、役場の人達と一緒に役人の案内役を頼まれたり、自分も好きだったので本間さん達と誘い合ったりして、数え切れない程登った。
また十勝岳スキークラブを作り、胸につけるバッジやペナントを作ったが、これをつけることは十勝岳に登った証明になるので大変名誉なそうで、役場で大半登山の来客にくばられてしまった。
またスキークラブが村役場から補助金をもらい、北海タイムス社の後援で三段山の頂上から温泉までのコースで滑降大会を開いた。全道から七・八十人位集ったろうか、大変盛大であった。雪質は良し、斜面は急で一着は六分を切って降りて来るので、見ていても素晴らしかった。
五、六年続いたろうか、やがて戦時状態になって補助金ももらえなくなったので、最後の大会では自腹を切って選手におしるこを提供して、翌年からの開催中止を惜しんだ。戦後十勝岳温泉で再開されたが昔程の人気はなかったと思う。
十勝岳については大正時代は呼び名も硫黄山と言って盛んに硫黄を採取していたが、大正十五年の大爆発によって沢山の犠牲者が出て中止になった。硫黄を搬送するため元山から中茶屋に至る国有林地帯を直線に貫いた索道は、爆発と同時に廃止となったが、大半のスキーヤーは下山に当ってこの鉄索跡の直線コースを一挙に滑り降りたものである。
また村の有志の十勝岳に対する熱意も盛んなもので、中茶屋まで国鉄を走らせる構想で強力な運動を展開した。上富良野駅から分岐して斜線道路(今の旭中線)の西側を走って、東九線北十七号附近に東中駅を設け、そこから左に曲りベベルイ川にそって中茶屋に至る計画で、昭和十一年旭鉄の是則技師等によって一部仮測量も行われたが、時代が変って立ち消えとなってしまった。
時代は前後するが、十勝岳に陸軍療養所を誘致しようとしたことがある。大正六年七月七日旭川の第七師団から稲垣病院長、盛岡一等軍医、東郷上川支庁長以下四名、小樽新聞記者、それに村の有志の一行が女鹿温泉(翁地区)に泊って調査をしたが、十分のお湯が得られず、やがて療養所は層雲峡に決って、折角の努力も稔らず仕舞に終ったことがある。
深山峠
今や、上富良野町民で深山峠の名を知らぬ人はいないと思う。殊に写真家前田真三氏等の作品が雑誌や、豪華な写真集に発表されて以来、当地方独特の丘陵台地の景色は俄かに有名になってきた。
美瑛からの丘陵地帯が終り、眼前に富良野盆地が開けるのである。
今では車で此処を通る人達で十勝岳の展望と合せて、その雄大な景観を絶賛しない人はいない。
しかし深山峠の存在は東屋が建って、展望台ができるまでは地元の人達にも案外知られていなかったようだし、景色の良さにも気付かなかった筈だ。
そもそも深山峠展望台の由来は意外と誰にも知られていないと思う。初めて深山展望台を開発したのは町の人ではない。旭川在住の小泉渉である。彼は建材等を手広く販売していたので何時も此処を通って、その景色の良さにほれこんで展望台の設置を主張していた。
町当局との話が進まないので、私が商工会の立場で町から敷地だけを提供してもらい、上富良野に特別の関係にない小泉渉が単独で、昭和三十九年に三十万円程をかけて東屋を建て、彼は更に旭高砂の小桧山氏に交渉して水飲場を、千秋魔の島津氏と当町出身の藤井物産の藤井淳一氏に、ビニール製の三個つないだ立派な椅子二組を寄増して頂いた。
斯くして立派な展望台が出来たのだが、心ない人達に水飲場をこわされたり、椅子は一組盗まれたりしたので、残りの一組はたしか自衛隊キャンプの中の落葉松林の中に置いてあると思う。
深山峠はその後西野目喜太郎氏が桜を寄増したり、石川清一氏が八十八ケ所の地蔵様を安置したり、又そば屋や食堂もできて町民や旅行者に益々親しまれて現在に至っている。
小泉渉はまたラベンダーの宣伝にも一役かってくれた。当地は戦後香水の原料としてラベンダーが沢山耕作されるようになったが、観光価値があるとは誰も気がつかなかったと思う。私もたまたま東京三越で服地の色の宣伝で、ラベンダー祭りをしていたのに出会って初めて、ラベンダーの有名なのを知った。
小泉渉は当地で誰も騒がない時に、私の娘をラベンダー娘に仕立てて旭川市役所や駅や新聞社に花を持って行ったが、その時の写真が新聞にも出た。町から頼まれもしないし、感謝もされないのに物好きと言うか、先見の明があったと言うか、言い様がない。
彼はまた旭川のグライダーの会長をしていたので、飛行機から観察して、当町の江花の奥が上昇気流もよくてグライダーの最適地だと言い、外国の例を見ても将来必ず盛んになるからとの話で、町役場に斡旋の労を取ったが物にならなかった。
それで隣町の美瑛が飛びついて滑走場も出来、テレビでも放映されたし、役場職員にも免許を取得した人がいる。
小泉渉は、このように良く物事に気がつき、損得抜きで行動する人であったが、皆しいかな直腸癌で昭和五十二年一月、五十代の若さで此の世を去った。旭川で執り行われた御通夜や葬儀には、美瑛町からは町長、助役も参列していた。

機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷   1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一