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富原圃場整備事業完工十周年を顧みて

清水 一郎(六十九才)

富原地区は、北海道の中央部富良野盆地の北部に位置する上富良野市街地より、南東に四キロメートルの地点に位し、ヌッカクシフラヌイ川、ホロベツナイ川、デポツナイ川流域にある。明治三十二年農場経営方式で入植し、開発された地帯である。
標高百九十五メートルから三百二十メートル内外の地勢で、やや平坦である。気象条件も良く、本道米産地帯として最も有望視されている区域である。営農も水稲栽培により生計を維持し、一部畑作兼業者があるがその数は少ない。
しかし、農業を取り巻く諸情勢は極めて厳しい時代を迎え、好き嫌いなしに機械化による近代化農業を営まざるを得ない時期に直面した。従来の圃区は九十九パーセントが十アール以下の面積で、その形状は不整最悪条件下にあり、かつ狭小なため労働効率が悪く生産性の停滞を招いているので、圃区の拡大を計らなければと言う声が誰からともなく出て、第一回同有志の者が集ったのは昭和三十八年十一月三日であった。
この時は既に島津地区に於ても話し合いがなされていたので、富原地区としても圃場の整備をするべきだと言う人もあり、又その様な事をせずとも米は取れる、この様なせちがらい時に大きな償金はすべきでないと言う人もあり、容易に進行を見なかった。
その後毎日の様に話し合いがなされ、ともかく島津地区が具体化している様なので、この際島津さんにお願いしてみてはどうか、と言う所まで話が進んだ。代表者を立て島津地区役員さんに申し入れをしたところ、島津地区では役員会にかけ快く承諾されたので、今後に於いては島津地区と同一行動を取る事とし、期成会等も連合期成会として発足することになった。
昭和三十八年十二月七日、連合期成会長石川清一、島津地区副会長北川三郎、同谷与吉、三百六十五町歩、百三十九戸、富原地区副会長清水一郎、同高松高雄、二百七十八町歩、百四戸。計六百四十三町歩、二百四十三戸である。
道営事業と言うことで、随分支庁を通じ道に陳情した。と言うのも道内で当時八件程圃場整備をしたいと言う所があり、その中で取り上げられるのは三件程であろうとのことであった。
連合期成会規約
「目的 第一条 この会は区域内の会員が土地改良法及び行政庁の指示に基づき上富良野町農業協同組合が行う圃場整備事業の促進を計り、速かなる事業の完成により稲作経営を近代化することを目的とする。以下略」
この規約に基づき基本計画を立て、機械の運行を容易ならしめ、労働効率を高め、稲作経営の安定を計るべく地区内の協賛に努力したが、何と言っても費用のかかる事であり、賛成には難色を示し、時には会が流れると言う最悪の時もあり、如何にすべきか、夜も眠れぬ時などしばしばであった。
この様な状態の中で、昭和三十九年二月七日、本事業推進について各方面に協力方を要請した。
三月一日、道議会議員奥野先生に紹介議員をお願いし、道に対し採択方を強力に要請した。
五月九日、旭川市朝日測量設計社と調査設計委託契約を締結する。(古沢設計事務所五百五十町歩とし、百三十七万五千円)
しかし、この頃になって島津地区に於いて足並が乱れ始め、会議を重ねる毎に後退する様になり、同一歩調で進めることが次第に難しい情勢となりつつあった。
一方、役所の方へはその様なことを言うのもどうかと思い、事務的には両地区合同で進めざるを得ない情況にあった。当初より島津地区を第一次、富原地区を第二次と言う事で進めていただけに、本家本元の島津地区がはっきりしないので、富原地区としても積極的に進めることも出来ず、しばらくの間休戦状態に入らざるを得ない形となった。
しかし、いつまでもこんな事ばかりやっているわけにもいかず、先進事例の視察等も考えてはどうか等の意見も出て、東神楽、東川、江部乙等視察したところ、整備をした地区は何れも立派で申し分なかった。良いと言う事は皆んな分っているが、総合土地改良となると何と言ってもお金がかかると言うことで、耕作面積が少いのが癌となって決断をにぶらせていた。
しかし、町内指導部に於いては各団体より職員を出向させて、町一丸となりこの事業を推進すべきとの声も次第に高まりつつあった。
二回目の先進地視察は八月二十四日、東川、東神楽方面で、主として事務的見地から視察を行なった。出席者は加藤助役を筆頭に平井産業課長、朝日係長、加瀬谷、高橋、佐々木各係、議会より中西議長、浦島産経委員長、奥野農業委員会々長、仲川草分土地改良区理事長、福井技師、農協より石川組合長、千葉営農指導室長、東中農協より田浦参事、赤塚技師、阿部普及所長、期成会より北川三郎、谷与吉、藤沢直幸の各氏と、私清水の計二十名であった。
その結果、早急に事務所の開設が必要であることが認められ、九月一日圃場整備事務所が開設された。当初の事務係として、平井産業課長を筆頭に、中沢、松浦、高橋、佐々木、及川、伊藤、板東の各氏で、どうにか段取りが整った訳である。
事務当局は一応整備発足したが、肝腎の受益者の方は一向に進展がなく、町当局としても船出はしたものの、一向に進む気配のない事から頭の痛い年末を迎えた。
富良野地区としてもどの様に取りまとめるべきか、富原区内には未だ反対者が何人か残っていたので、地区村での話し合いは何回となく繰返されていた。
ある夜の会合の時など、途中まで行った時突然夕立に出会い全身ずぶぬれとなり、集合場所で着物を借りて話し合いしたこと、又同じ家に何回も同じ話で行った事等、話をしている時はどうにか了解出来た様に思われたが翌日になると又戻る。
冬は猛吹雪の中、全身凍る様な冷たさを感じながら毎夜の様に、時には朝まで話し合いをした。
大半は良いとしても、区内に少しでも反対者の居る時は出来ない。用排水路、農道、暗渠、そして換地があるからである。明治―大正―昭和と、祖先より受け継いだ大切な財産なので、思う気持は解らなくもない。しかし、時代はそれを許さない。
年明けて昭和四十年、道本庁、上川支庁等の指導もあり、今年こそは気持を整理した上で実施に踏切らねばならない、と心は焦れど、話し合いの方はなかなか進まない。
昭和四十年四月十二日、富原地区総会。現時点までの実情を報告、富原地区としてどの様にすべきかを諮り各位の発言を求めた。種々発言があったが、最後に地区有志の一人である小川貞次氏の『ここまで来たのだから思い切って実施に踏切ってはどうか』との発言のもと、そうだ実行しようやと初めて集った方々の意見の一致を見、お酒六升を酌み交わし決意を新たにしたのである。
しかし、島津地区に於いては一向に話しの進展がないので、富原地区を一次分として実施の方向に進めてはと言う役所の指導もあり、その方向に進めるべく、地区としても考えを変えざるを得ない情勢となってきた。
五月十三日、ヌッカクシ川以東を第一次分とし、名称も富原地区と言うことで島津の一部と東中の一部を入れて、面積三百四十九町歩、百九戸、八千八百七十七枚の圃場を、二億二千四百万円で千七十九枚にすべく計画のもとに事実上の発足となった。しかし、当地区内に於いても未だ踏ん切りのつかない反対者が数名あり、今後の課題として考えざるを得ない状態にあった。
八月十一〜十二日、全道一斉に深川市に於いて圃場整備に伴う換地の研修会が行なわれた。出席者は、北川、清水、白峰の三氏。換地研修を終えて各地区代表者に聞くと、良く解らないがうまく行くだろうかと言う人が大半で、私共も聞くたびに心配にならざるを得ない。しかし、もう後には引けないところまできていた。
十二月十日、松浦周太郎代議士に陳情すべく一行は上富良野を発って途中道庁に立寄り、農林関係の課長さんに同行してもらい上京した。陳情団長藤原助役を筆頭に、石川組合長、床鍋理事長、朝日係長と私、道より住吉課長、奥村技官、開発、農林、大蔵と松浦先生を通じ陳情したが、東川町を始め、この時多くの地区より要望のある事を知った。
昭和四十一年、いよいよ事業実施の年である。予算がつくだろうかと思っていたら、松浦先生より一月十四日予算がついた、との知らせがあり、正式通知は三月十八日で千六百万円とのことであった。
早速道営圃場整備事業同意書の作成が行なわれた。
昭和四十一年四月二十一日、富原圃場整備期成会が正式に発足した。
会 長  清水 一郎
副会長  松井 武雄  北村貴志雄
理 事  向山 安治  小瀬 貞吉  神田 周造
     北村 益一  高松 高雄  大森  忠
     北川 春吉  前浜 一雄  出倉 藤英
     山中 一正  小川 寛次  内村良三郎
     向山 慎一  小田 博秋
監 事  伊藤武三郎  早坂  浩  岩山 昌由
頑 問  町 長        海江田武信
     上富農協組合長    石川 清一
     東中農協組合長    中西 覚蔵
     草分土地改良区理事長 仲川善次郎
     東中土地改良区理事長 床鍋 正則
参 与  助役、普及所長、両組合営農部長
     両改良区主事
以上の様な経過により、北海道告示第一〇五九号で実施が確定された。
『昭和四十一年六月八日、空知郡上富良野町、神田周造ほか十六名から申請のあった道営土地改良(富原地区区画整理)事業の土地改良事業計画を定めたから、土地改良法(昭和二十四年法律第百九十五号)第八十七条第十四項の規定により公告し、その関係書類を縦覧に供する。    北海道知事  町村金五』
と言うもので、異議ある時は公示より十五日以内に知事に申し出ることとなっている。
六月二十八日、圃場整備事業に伴う換地委員会が発足。地主十一名、学識四名、計十五名。会長奥野忠治、副会長清水一郎、委員高松高雄、出倉藤英、内村良三郎、幅崎要作、大森忠、小川寛次、村上富士雄、山中一正、向山伊太郎、北川春吉、手塚官一、浦島捨三、谷口清作。
昭和四十一年十月三日、地鎮祭並びに起工式は、現地神田周造氏所有地で行われた。その時の考え方としてお金のかからぬ工事をと言うことで、表土扱いはせず、つきならしとし、代かき時にトラクターで整地するというもの。その様な方針の下に工事を施行したが、春になって水を入れてみると半分沼で半分は丘。土俵を畦畔に積み重ねてみても到底どうにもならず、第一年度は見事失敗。次回より表土をめくり心土にて整地し、その後において表土をもどす工法とした。
この様な事で事業は春、秋と二回に行なわれ、気の安まる間もない。心土にて平均を取ると言うことは、り底盤を破壊することになりこれまた大問題があった。と言うのは均平整地をする際にブルドーザーが落ら込んでどうにもならない。下の軟らかい泥炭がかったところに多い。助けに行ったブルも同じ様に落ち込んで動けなくなる。次から次へと落ち込む。四台、五台と一ヶ所に落ち込んで仕事にならない。この様なこともしばしば。引き上げるのに何日もかかる。
現状を大きく、そして形を良くし機械作業の効率化を図ろうと思えば、無理とは思い乍らも計画通りやらねばならない。この様な場所は人力で仕上げをする。やり出したら大変な仕事である。
施行前は自分の所有地が一番良いと思っているので、換地の際は何とかして自分の所有地を配分してもらいたい。農民である限り、この様に思うのは無理はない。
さりとて、この様な大仕事を施行してみると良いと思っていた所がその割りに良くならず、こんな悪い所と思っていた所が、考えてもいない程良くなったり、全く想像もつかないほどの変り様である。
しかし表土扱いをし、大型になり形も良くなってみると、本当に立派な水田として次々出来上ってくる。新しい圃場を見る時、胸の踊る思いがした。
だが、これで安心と言う訳にはいかない。作り上げた水田にはり底盤が出来ていない。水を入れるとどこが決壊するやもわからない。一日に何回も現場を見て廻る。地先の人は当然であるが、期成会としても気が気でない。時には、深夜懐中電灯たよりで見て廻ったことも思い出の一つである。
この様な経過のもとに、着工以来完工まで七ヶ年の歳月と、四億四千八百九十四万円の費用が投じられ、昭和四十七年九月六日完工式を挙行した。
計画  総事業費  二億二百四十万円
    総面積   三百四十九ヘクタール
    総枚数   千七十九枚
完成  総事業費  四億四千八百九十四万円
    総面積   三百五十三・一ヘクタール
    総枚数   九百九十三枚
計画してから完成するまで十年。更に完成してから現在まで十年。つい先日話し合いをしたかの様に思われるが、話しが出始めてから二十年の歳月が流れた。この間に、農業情勢も随分変わった。水稲により経営を維持し、将来にも大きく望みを託していた水田農家も、現在では休耕、転作の止むなき処。
しかし乍ら当地区においては幸い基盤整備が完成している為、現況の様な政策にもどうにか堪えることが出来るのではないだろうか。
完成後十年経って、当時を思い出しながら、私が関係した事業として最大なものであっただけに、その感激は何時までも忘れることはない。富原母と子の家の敷地内に記念碑を建立してある。
碑    文
農業の機械化近代化は険しくも、時代進展の筋道である。富原を中心とし東中、島津の一部を含めた三百二十八町歩に住む農民は、これが実現を図るべく期成会を結成し、清水一郎を会長とし、以下役員の数年の運動が認められた。
昭和四十一年十月三日、故神田周造氏の水田に於て道営圃場整備事業として起工式を行ない、爾来七ケ年農民の協力と工事施行者、町、農協、土地改良区等の指導支援を得て、あらゆる苦難を乗り越え見事に完結する。依って関係者相謀り、この感激を記念し後世に残す為この地に碑を建立する。
昭和四十七年九月六日
文と書  石川 清一

米価の推移〔米価100年 1俵の値段〕

元号 出来事 1俵の価格 元号 出来事 1俵の価格
安政 元年 40銭 大正 8年 14円60銭
2年 28銭 9年 20円00銭
3年 32銭 10年 14円20銭
4年 51銭 11年 10円20銭
5年 55銭 12年 関東大震災 12円40銭
6年 67銭 13年 15円30銭
万延 元年 79銭 14年 13円60銭
文久 元年 65銭 昭和 元年 若槻内閣 12円70銭
2年 56銭 2年 田中内閣 10円85銭
元治 元年 78銭 3年 10円65銭
慶応 元年 1円42銭 4年 浜口内閣 10円40銭
2年 2円94銭 5年 6円28銭
3年 1円46銭 6年 6円50銭
明治 元年 1円69銭 7年 8円20銭
2年 3円17銭 8年 10円80銭
3年 1円87銭 9年 岡田内閣 10円80銭
4年 1円12銭 10年 10円90銭
5年 80銭 11年 広田内閣 11円80銭
6年 1円20銭 12年 林  内閣 13円90銭
7年 1円87銭 13年 13円42銭
8年 2円05銭 14年 平沼内閣 16円25銭
9年 1円01銭 15年 米内内閣 16円30銭
10年 西南の役 1円34銭 16年 東條内閣 16円50銭
11年 1円92銭 17年 16円90銭
12年 2円64銭 18年 18円42銭
13年 4円80銭 19年 小磯内閣 18円80銭
14年 3円28銭 20年 終   戦 60円
15年 2円08銭 21年 吉田内閣 220円
16年 1円25銭 22年 芦田内閣 700円
17年 1円84銭 23年 吉田内閣 1,487円
18年 伊藤内閣 1円73銭 24年 1,735円
19年 1円55銭 25年 2,064円
20年 1円68銭 26年 2,812円
21年 町村制施行 1円42銭 27年 3,000円
22年 山県内閣 2円00銭 28年 鳩山内閣 3,280円
23年 2円00銭 29年 3,648円
24年 松方内閣 2円64銭 30年 3,902円
25年 伊藤内閣 2円28銭 31年 石橋内閣 3,995円
26年 2円66銭 32年 岸  内閣 3,850円
27年 日清戦争 2円66銭 33年 3,960円
28年 4円00銭 34年 3,966円
29年 松方内閣 5円72銭 35年 池田内閣 4,117円
30年 伊藤内閣 4円16銭 36年 4,289円
31年 大隈内閣 3円28銭 37年 4,882円
32年 4円00銭 38年 5,030円
33年 伊藤内閣 3円76銭 39年 佐藤内閣 5,610円
34年 桂 内閣 3円76銭 40年 6,550円
35年 4円96銭 41年 7,140円
36年 4円36銭 42年 7,797円
37年 日露戦争 4円36銭 43年 8,256円
38年 5円28銭 44年 8,256円
39年 5円28銭 45年 8,272円
40年 4円72銭 46年 8,522円
41年 4円92銭 47年 田中内閣 8,954円
42年 米検査制度 4円00銭 48年 10,301円
43年 5円36銭 49年 三木内閣 14,156円
44年 6円16銭 50年 15,570円
大正 元年 8円32銭 51年 福田内閣 16,572円
2年 山本内閣 8円32銭 52年 17,232円
3年 大隈内閣 7円28銭 53年 大平内閣 17,176円
4年 4円32銭 54年 17,176円
5年 寺内内閣 5円12銭 55年 鈴木内閣 17,536円
6年 6円00銭 56年 17,756円
7年 原  内閣 8円48銭 57年 中曽根内閣 17,950円


機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷   1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一