郷土をさぐる会トップページ     第03号目次

ラジオ共同聴取の思い出

床鍋 正則(七十四才)

今日の如く各種の情報が氾濫し、取捨選択に迷う時代から考えると、一般に理解し難いかと考えられますが、今から四十三年前、戦時中の昭和十五年に計画したラジオの共同聴取の沿革について、当時を偲びつつ述べたいと思います。

共同聴取へ向けて

この頃は、私共の東中七部落は農家二十五戸で、そのうち電灯のついていたのは、わずかに私の家の附近七戸でありました。
私は、この頃の電池式のラジオは経費がかさんで、思う様にラジオ聴取ができないという大きな悩みと、組合長さんが毎日、自分の仕事を顧みず、組合員の連絡に苦労しておられる姿を見て、何とかこれを解決したいと考え、電灯のある家に親ラジオを置いて、無電灯地域一帯に有線でラジオを送るという共同聴取を計画致したのであります。
しかし、当時は御承知の如く戦争中の事でもあり、全ての資材がきわめて不足を来たしておりましたため、この計画もなかなか実現する運びに至らなかったのであります。
こうして計画は持ちながらも慌しき年を送って、昭和十八年の春を迎えたのであります。
この頃私は、空知のある専門家を訪ねて、その施設が可能であるかをお聞き致しましたところ、なかなか学理的に困難な点が非常に多く、施設する事が不可能であると言われたのです。しかし、私は何と言ってもこの計画は断念する事ができませんので、その不安な気持を抱いたまゝ、村のラジオ商である蝶野氏を訪れて、日夜忘れる事のできないこの望みをお話し致しましたところ、未だかって経験したこともないこの大きな問題を、「それではやって見ますか」と快く承諾されたのであります。この弛まざる研究心と犠牲的な精神には、実に頭の下がる思いが致したのであります。
いよいよ八月になって、九球のスーパーで、出力十ワットの受信機の組立も終り、資材の準備もできたのであります。希望に輝く意気をもって工事に着手する事になったのですが、丁度その時、私には召集令状が来たのであります。それで後の工事の総ては後任組合長さんはじめ、役員の方々に一任致す事になったのであります。
その当時、不安で囲難なこの事業を、必ずやり抜く、完成させずにはおかぬと誓って下さった組合長さんのその言葉を、農村文化発展の一筋の光明と信じて、私は戦地へ出発したのであります。
十九年に成功
その後五ヵ月を経過した十九年の一月十三日に、大陸の陣中に於て私は、組合員一同の真剣な努力により工事が完成した夢を見たのであります。大成功を納めた喜びが天に通じてか、空は俄かに雲を呼び、感激の涙にも等しい静かな雨が降り、春以来寝食を忘れて技術面と取り組んで奮闘し続けた蝶野氏の瞳には、技術者として成功し完成した嬉し涙があふれている、そんな夢でありました。
その翌日、図らずも私にとっては最も嬉しい、ラジオ共同聴取完成の報らせを、島田組合長さんから受け取ったのであります。
その手紙によると、組合長さん並びに役員の方々を中心として、全組合員が一丸となり、そんな事が実現できるかと言う世間の嘲りの声をよそにして、道端に立てた地上四メートルの支柱に、幹線三千六百メートル、引込線一千二百メートルを、一・五ミリの鉄線を複線式に配線して、各家々に配置した拡声機に連絡したとのことでありました。
各戸の引込線のショート状態を完全に是正することが出来ませんので、大きく聞こえる事を信じていた声がいたって小さく、到底満足できない状態でありました。組合長はじめ組合員の悲観的なため息を聞きながら、蝶野氏もきわめて沈痛な面持らで、今度は試験的に複線を単線に改めてアースを利用致しましたところ、八月十三日の夕刻になって予想以上の大成果を納めたから安心して下さい、と言う便りでありました。
その手紙を手にした時は、組合長さん始め組合員の一致協力された尊い努力と、蝶野氏の終始一貫した献身的なお働きによって、この夢のような計画が遂に出来上ったかと、しばらくは故郷の彼方を眺めて感激の涙に咽んだのであります。
この画期的な施設に対する一戸当りの負担は、当時二十八円(米一俵十八円八十銭)でありました。
この確実にして正しい聴取と電力の節減、並びに資材の節約を目的とするこの施設が、村の人選に最も新しい文化ニュースとして伝えられた時、この施設を見学に次々と人々が訪れてきました。それより七年を経過した頃には、次々とこのような施設が部落毎に設けられ、既に私の村には十五組合を数えるに至り、その戸数六百戸にして、富良野地方としては二十幾組合という著しい進展振りを示しているのでありまして、全道的にもこの施設の利用度の極めて高い事が認められて参ったようであります。
このラジオ共同聴取の急激なる進展と共に、放声装置、即ちマイクの使用が許可されてからは、農村の僻地と言えども、文化の恩恵に浴することが出来ると共に、通達機関としても又重安な役割を果す事が出来るようになったのであります。
明るく賢くなる村
この共同聴取の長所として、私が特に申し上げたい事は、親受信機のある家の屋上に取り付けられた大きな拡声機から流れ出る放送を聞きながら、田圃や畑で楽しく愉快に働き、作業が終って家に帰れば小さな拡声機からラジオが聞けるという事であります。また、農村に於て最も大きな悩みとされている、広い山間僻地の家々に連絡する日毎の通達事項も、マイクを通じて最も迅速に且つ確実に家族全員に伝える事が出来るという事と、今一つは、私達農家にとって本を読むという事は非常に大儀な事ですが、ラジオを聞く事によって無意識のうちにも農業知識が高められて、農業経営並びに経済の上にも技術の上にも欠くことのできない農家の友となっていることであります。
共同聴取全村化
こうした文化施設の真価が認められ、共同聴取の全村化の声が高まり、二十六年十一月二十日村公民館に親機を設置し、職員も配置され全村的施設として各部落への一般通達事項の周知等の外、音楽の放送時間も組まれました。
当時としては、経済面に、娯楽面に、施設の利用度は極めて高く、農村の僻地に住む者も恩恵に浴し、通達機関としても重要な役割を果しました。一部落で試験的に設置したものが全村的に拡まり、やがて村全体の施設となり、長い間町民の生活の上に潤いをもたらしたラジオ共同聴取の設置から終末までの概要を申し上げた次第であります。

機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷   1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一