郷土をさぐる会トップページ     第03号目次

畜産一筋に生きた伊藤家の歩み

故 伊藤 富三(七十二才)

入植の状況
祖父喜太郎は、富山県西蛎渡部石黒村大字前で生れ、明治二十五年、四十七才の時、妻と死別し、三人の子供(喜一郎十一才、万喜次八才、正信五才)を連れて、岩見沢の郊外幌向原野に移住し、開墾に従事していた。ここで西崎源エ門と知り合って、長男を西崎氏の元に奉公に出したのであった。
この西崎氏が明治二十八年中富良野村にて、合力農場の交付を受けたので、その番人として次男、三男の二人(長男は三年後に来村同居)を連れ、旭川経由で来村したのであった。
この頃役人が東中の十八号方面を測量中(殖民区画設定と思う)であったので、祖父の入地した合力農場は樹木が繁茂し、その上湿地で畑地として開拓の見込がないので、測量の役人に頼んで西一線北十九号の茅原を貰い受け、同地に入地し開墾を始めたのであった。
当地の生活必需品の購入は、西神楽の旭農場の店まで出かけて行ったもので、十才に満たない父(正信)が祖父に従って買物に往復したと聞かされている。
農作物は燕麦、馬鈴薯、野菜等を作り、測量の役人や人夫及び鉄道工事の事務所に野菜を売って現金収入を得たのであった。
西中で足掛け七年暮していたが、此の間において西中部落に三重団体、石川団体の先発隊が入地準備のため来村、その度に祖父の家に宿泊したので、検地、小屋掛等のお世話をしたと言っていた。
西村氏も単身来村して祖父の家に泊り、小屋掛に通った一人であった。
当時、アイヌの狩猟をする者の往来があって、旭川アイヌと共同で貂等を獲ったこともあったと聞いている。
交通は、西の山にアイヌ道、測量者の通行する道があり僅かに歩行が可能で、川に橋はなく大木を切り倒し、そのまゝ一本橋にして架けられ、渡っていた。
フラノ川にはイトウ、イワナ等が沢山棲んでいて釣の好きな父は暇を見て釣に出かけ、食糧としていたようである。
動物は熊、狐、貂等で、鹿は新井牧場方面には棲んでいたが、西の山には居なかった様である。
祖父喜太郎は明治四十二年六十四才で死去、叔父万喜次は怪我で腕を切断し、十五・六才の時死去したと言われている。
祖父は世話好きで西中で暮していた時代は、鉄道の建設作業所に野菜等を納めていた関係もあり、人夫(タコ)が脚気等で労働に堪えなくなると引き取り、暫く養生して治癒すると現場に出してやる等、職分世話をしてやったと聞かされている。
祖父喜太郎が最初に入地した土地は東一線北十九号で、此処に中富良野開拓発祥の地として、昭和五十四年に西中部落の人々によって記念碑を建て、祖父の功績を称えていただいた事は、三代目の私として光栄の至りである。
長男の伯父喜一郎は、今の○一雑貨店の処で雑貨店を営む傍、造材事業を始めた。
美瑛町の御科林から木材を五万石払い下げを受け、造材の事業をやったり、旭野で生産する石材を取り扱ったりした。
開墾の唯一の力となった農耕馬を商い、産地から明け二才馬を導入し農家に売り捌いていた。代金は秋払いで相当農耕馬を入れたが回収が悪く、引き取ってきた馬の処分には相当苦労したようである。
祖父は島津農場で二ヶ所変って農業を営んでいる。今の仲川善次郎さんの付近で、その頃隣に土井定太郎さんが住んでおられた関係で、二女の清さんが父正信と結婚したわけである。
父は大正七・八年頃から十年程宗谷線にて暮したので私は風連村で生れた。
昭和三年頃から大阪方面に使役馬の販路を開拓し取引を始めた。私は次男で北見の滝の上の泉田茂雄方に六年程丁稚奉公をしていたが、十九才の時兄が二十一才で死亡したので家に帰り、父の仕事を手伝うことになった。
その頃父は競走馬を横浜の根岸に送り込み、騎手は南喜四郎さんが乗っていたが、競走馬ではあまり儲からなかったようである。年末には残った馬を処分して帰宅したこともあった。
私は昭和六年徴集で近衛騎兵連隊に選ばれて現役兵として入隊、昭和七年・八年と二ヶ年服役、満期除隊となった。その後昭和十九年春召集を受け稔部隊に入隊、国土防衛のため日高沿岸の警備の任につき、その後九州鹿児島に移動服役中終戦となり復員除隊している。
昭和六年頃から十年頃迄、競走馬十五・六頭を繋養していた。馬の種類はサラブレット、ハクニー、トロッター等で育成販売をしていた。苫前、羽幌方面から入れた二頭の馬が良く走り、騎手は南喜四郎さんで、旭川では一着に入ったこともあった。
競走馬を仕上げるには相当の期間と費用がかかるわけで、調教師に頂けた馬が目を潰したりして、事故馬も相当出たものである。
着手小屋
明治の末期頃市街地の宅地を払い下げるときは、三間に四間の着手小屋を建ててから検査を受け、払い下げを受けなければならなかった。
軍馬の育成
大正七年七月軍馬購買地として指定を受けた上富良野は、馬の育成技術が進み、軍馬の買上げ頭数も年々多くなった。昭和初期は深川市が北海道一と言われていたが、上富良野でも軍馬候補馬を斡旋する家畜商が質の良い馬を導入し、畜主の育成技術も進んだため、昭和十年頃になると購買頭数も増加し質量共に日本一と言われるようになって軍馬成金と言われ、潤った農家も相当出た。
これも農家の育成技術の進歩と共に、軍馬に向く馬を導入してくる家畜商の力も大きく貢献していたと考えられる。
種牡馬の育成
戦後馬の需要も変り、種牡馬の育成は当初商人が専門に行なっていたが、逐次農家で育成する者も増え、上川管内でも種牡馬の買い上げ頭数が一位になったこともあった。しかし、農家の人は候補馬を入れる際、金をかけ過ぎ、だんだん利潤が少なくなった様である。
戦後の動向
肉資源がだんだん不足し、加えて新円に切り替えられ流通も円滑に進まなかった頃、大阪の食糧公団と提携し家畜の消流を図り、輸送を始めた。
戦後公定価格と言う制度があって、困った時代もあったが、その中でも抜け道があって、道外移出も優良牝馬は制限がなく取り引き出来たものである。
又、食糧公団で使っていた五百余頭の輓馬の入れ替えは、昭和初期からの取引もあったので私に依頼され、相当数の挽馬を公団に納めたが、価格も良く、我々業者にもお蔭があった。その利潤は農家にも還元するようにし、大変喜ばれた。
その頃お金も封鎖され困った時代もあったが、大阪の食糧公団と契約し新円を獲得して馬を集め輸送したものである。農家から馬を高く買い、飼養者に利潤を持たす様努力してきた。
その後、たまたま新聞で家畜の道外移出が解除になることを知り、早速北海道庁に出向き移出の許可を申請、石狩の国の一号の許可を受け、豚等を相当数移出することが出来た。
一部では馬喰は儲け過ぎると言われたが、私は利益は必ず農家に還元する様に努め、長続きする様配意し取り引きをしてきたつもりである。
乳牛の増加
十四年ほど前から深山牧場の経営も始めた。長男幹男が教職の道を選び就職したが、後継として幸い次男貞夫、三男政美がやってくれたので、今では酪農に専念する様になった。
牛もなかなか伸びないものである。道庁では寒地農業確立の為、無畜農家の解消を叫び奨励して来たが、全町で六百〜七百頭台で伸び悩んだ。
酪農もだんだん専業化され、飼育農家戸数は減ったが、乳量は増大し飼養頭数も昭和五十三年には一千頭を突破し、その記念式典が挙行され、記念碑も建立され酪農家は共に喜んだものである。
現在当牧場は搾乳牛七十頭を含め、百五十頭余り飼育していて、アメリカ、カナダ産の牛も十頭余りになり、乳量は普通の牛で五・六千キログラムだが、一万六千キログラムを搾り日本の新記録を出した牛も二頭繁養している。
牛も専業化すると、消流面を上手にやらんと利益を上げられない。息子達は今迄は動かさないで生産を主として飼養するようにしていたが、今後は消流についても教えようと思っている。生産と育成と売買が伴わないと、良い経営は出来なくなって来たからである。
せり人
せりを行なうには、昔から鑑定人と言う一つの資格が必要で、市場で適正な取り引きがなされるためには、適正な価格で収引きさせることが大切である。私は、昭和九年から鑑定人をやっているが、呼吸というものがあって、なかなか面倒なものでした。従って家畜に明るい人がせり人になることが大切であります。
祖父から三代、息子を含めると四代に亘る伊藤家の歩みを書きつらねましたが、今後の上富良野町の発展と畜産の振興を願ってやみません。

編集員註
本稿をいただいた頃、伊藤富三さんは深山牧場通いを日課として、楽しい充実した日々を過しておられましたが、本年二月入院され加療中、六月下旬頃病状が悪化して歩行も困難になりました。七月二日からは意識混濁状態に陥り、病院の諸先生、看護婦さん方の献身的な加療とご家族の方々の手厚いご看護の甲斐もなく、七月四日急性心不全のため七十二才を一期として、ご永眠なさった事は誠にいたましい限りでこざいます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
(編集員加藤清)

機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷   1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一