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続 戦犯容疑者の囹圉記

故 岡崎 武男

囹圉記(四)
十一月二十七日
吾々を警戒しているグルカ部隊将校以下交替す。
彼は刑務所から吾々と一緒に来た者で、比較的一緒に居た期間が長かった。朝、わざわざ吾々の兵舎へ惜別の情を満面に浮かべながら挨拶に来た。英国軍の幹部ではあるが、彼も又亜細亜民族である。感無量なものあり。

十一月二十八日
二、三日前から糞焼きが始った。伝染病予防の見地から、毎日排便する我々の可成の量のものを焼き捨てるのである。生々しい奴が焼けることは、英人に言われるまで全く知らなかった。
ただし、日本人の糞は、彼らのそれの様には焼け易くない。彼らは、日本人が大便と小便とを一緒にすることを不思議に思っている。そう言われれば、彼らの大便器には一滴の水分もなく、ころころした奴が溜っているのを、一緒に焼くとき見た事がある。人種が違えば、これ程違うものなのか。
夜半になって又も移動命令下る。今度は何処へ行くのか。案外開放的になりつつあるのだから、帰還近しと言う者さえある。又しても、一株の喜びと不安があった。

十一月二十九日
朝、四十台ほどのトラックが吾々を迎えに来たが車はバンコックの街に入り、メインストリートをのろのろと走った。
半裸の様な惨めな姿の日本軍俘虜と、物々しい警戒の連合軍トラックは、黍住民に異常な感興がある様だ。英軍も又、この点をねらっての示威工作でもある様だ。
間もなく、バンコックの国際埠頭に降ろされた。はるかに続く大倉庫は、飛行機の格納庫を並べた様だ。その一棟に収容されたが、裏は岩壁である。一万屯級の貨物船が、ゆっくり動いている。
吾々を労力に使う気か、それとも、上船させるのか。デマは頻々として飛んだが、結局、その倉庫で寝る事になった。
かつては日本軍も、この倉庫に英人浮虜を入れた事があったとか。今では荷積み用の日の粗いすのこ板が一面に敷かれ、しかも、トラックが倉庫の中を走り廻るので、眠れるものではない。

十一月三十日
倉庫の出入口を、材料を持って来て閉扉し始めた。英軍側からは、依然として何等の指示もないと言う。
憐の倉庫では、日本軍の一般部隊が毎日徒歩で兵舎から通って、終日連合軍の労役に服している。一日中、腰を下すことも、煙草をのむ事も許されず、すっかり疲れ切っている様子であった。敗戦の苦しみは吾々だけではないのだ。
移動するとも落ち着くとも解らず、仮設の炊事場では十分の食糧もなく、辛うじてドモアンキャンプから持ってきた糧抹でしのいだが、飢が増してくるにつれて、糧抹の盗難事件が頻発した。恥も外聞もなく、お互いに日本人同志が生きてゆかねばならない貴重品を、遂には盗む事が英雄視される程だ。
夕食の乾パン配給の際は、わずか一人の者が包装したブリキ缶に無断で手を入れたばかりに争奪戦となり、負傷者が数名出た。乾パンは陰も形もなくなった。隊長も統率のしようがない。英人が見て笑っている。全く惨状である。
夜半眠れぬ儘にボンヤリ起きていたら、英人の歩哨が来て煙草をくれた。サンキュー

十一月三十一日
情報屋の集めた情報では、乗船確実ならんとの報伝わる。行先は離れ島か、日本か。わくわくした気持で床に就く。

十二月一日
朝食後移動命令出る。乗船どころか、又トラックの大群が迎えに来た。トラックに分乗してから、警戒のパンヂャピー兵に手まね口まねで聞いたところ飛行機で東京へ行くと喜ばされたが、間もなく国際グランドスタジオの裏側に来て降ろされた。
結局、三日間の埠頭の倉庫に於ける生活は、如何なる目的があったのか解らなかった。
泰国には、飛行場にしろ、埠頭にしろ、随分国際という言葉が使われるのはどうした訳か。各国の権益が幅を利かしているのだろう。それだけに設備も構造も誠に莫大なものである。
ここは、元日本軍の伝染病棟の跡を改造して兵站に使用していたとか。二十五名位入れる吹き抜けのバラック小屋が、行儀良く並んで二十五棟ある。ここに当分落ち着くものと思われる。乗船復員などは思いもよらないことだ。

十二月二日
スタジオキャンプの生活始まる。ここはバン国際体育場の内部である。大きなスタンドが円形を造り、馬上には泰国旗が数本、白雲を背景にひるがえっている。
吾々は、その裏側の柵内に居る事になる。一方の側は、泰警察の官舎が棟続きに並び、柵越しに二階の窓がのぞき、家族達の額が時折見える。又一方の側は繁華な電車通りの様だ。
四方皆堅固な柵で囲まれ、厳重な歩哨の眼が光っている。外部との接触は困難である。
ただし、キャンプ内の行動は全く開放的で、ドモアンの様な素晴しいながめはないが、小さな家に小数宛家族的生活で住み心地も悪くない。何となしに裟婆に帰った気持がする。

十二月四日
再びキャンプ内美化の為、土工作業が始まった。ここには防空陣地がいたるところに構築されてあるが、英人の指示でこれらの破壊作業を始めた。ショベル、十字鍬も満足にない。しかも相変らずはだしである。
囹圉記(五)
十二月五日
吾々がここへ移って来た事を何処から聞きつけて来たか、かつては吾々に協力してくれた原地人(泰人華僑)が、柵越に一人、二人と安否を気づかって来てくれる。そして、歩哨の眼をごまかしては、果物や煙草を柵越に投げ込んでくれた。
しかし、これらの貴重な品物も、歩哨の為に踏みにじられてしまう事が多かった。

十二月六日
生活力の旺盛な華僑商人が、歩哨の隙間を見ては柵越に菓子、果物、煙草を売りに来た。勿論、吾々に金があろうはずもなく、衣服、その他の品物と物々交換である。
外部との連絡は銃殺の厳達があり、吾々も命がけではあったが、唯一の煙草ルートでもあり歩哨工作をやっては、着替えの一枚のシャツ迄も交換材料にした。
全ての物にひもじい思いをしてくると、何物にも我慢が出来なくなってくるものだ。命がけの毎日である。煙草ぐらいは当然止ってしまうはずのものがその気力もなく、皆が苦労した。

十二月七日
雨期明けの太陽が、痛いほど照りつける。午後、一陣の風と共にスコールがやってきた。白い雲がポッカリ青空に浮び上がり、それが見ている間に黒雲に変ったかと思うと、ジョウロで水をまく様ににわか雨が降り、数分間で又、カラッと晴れてしまう。そのあとにソヨソヨ吹く風の味は、何にもまして美味いものだ。
ふと外を見ると、物乾竿にツバメが二羽とまっている。四季を追って、日本のツバメが南の島に来ると言う。皆が一声に眼を向けた。そして、深いため息をついた。
  四季を追い 海をわたりし つばくろの
     つぱさやすめし 抑留の窓

十二月九日
キャンプの正門は繁華街に面し、電車の騒音が繁く往来している。作業のかたわら、開いた正門を眺めていると、泰娘(たいむすめ)や姑娘(くーにゃん)の粋な姿が時折見える。到るところのスピーカーから、泰音楽や支那楽が交叉して流れて来る。
戦争は終ったのである。
長い間、禁欲生活をしている我々には、悩ましき限りである。

十二月十日
警戒兵が交替した。今度の所長はアングロインディアで、親日家らしい。意外に開放的に取扱ってくれる。点呼は朝一回のみで、今迄の様に検査も懲罰もしない方針と言う。
地獄の様な刑務所生活から、ここまで開放的になりつつあるのだから、吾々の復員も遠くないと、都合の良いデマも頻々として出た。

十二月十二日
毎日の土工作業の外に色々な使役があったが、中でも、警戒兵や連合軍の使役には、誰もが我れ先に出ようとした。目的はたばこ拾いである。
世が世なら、こんな事も考えられぬ事だが、現在では連合軍の煙草の吸殺が、最も優秀でさえあるのだ。

十二月十三日
この頃、陸軍病院や終戦処理司令部との連絡も許される様になり、色々な情報が伝えられて来た。
シンガポールの戦犯処刑は、悲惨を極めていると言う。毎日絞首刑になった遺体が、チャンギー刑務所からトラックで何台も運び出されていると言う。
シンガポールには、かつて一緒に勤務した事のある同僚や先輩が数人いるが、恐らく助かるまい。人ごとではない。
吾々は、開放的な毎日である事を機会に、私物品の返還、日用品の支給、演芸会の開催等色々な事を要求したが、なかなか簡単には許されそうにない。

十二月十四日
朝食を終った頃、突然、ターパンやトルコ帽を混えた十数人の外人がキャンプを廻り始めた。又、首実検である。
突然の嵐に、皆はリツ然とした。吾々は開放されたのではない。油断は禁物だ。それでも今日は、指名された者はいなかったようだ。

十二月十五日
作業をしていても、寝ていても、四六時中話題になるのは復員の事である。
この頃、コックリさんと称する占い師が現れて話題になった。今までの移動、その他の事実も、皆コックリさんは判定していたと言う事で、すこぶる好評である。占い師は憲兵准尉である。
このコックリさんが、十二月二十八日上船と言う嬉しい占いを出してくれた。
皆、この快ニュースでもちきりである。困った時の神頼みで、これを信頼する者も少なくない。

十二月十六日
英人将校が巡視に来た。彼は准将である。整列して、正門に来るのを待っていると、随行員の黒人兵(当番兵)を後ろの席に乗せて、将校自らジープの運転である。警戒兵達は、捧げ銃での出迎えである。
この、将校の鷹揚な態度は、誠に我が軍隊では見られない風景である。もし、将校に運転能力があっても、我が軍では出来ない行動だ。

十二月十七日
かねてから許可を願っていた、演芸会の開催が許されて、その第一回を今日催した。
急造ではあったが、その道に通じたベテランの集りであるだけに、夢の様な半日を送る事ができた。

十二月十八日
キャンプの柵の出入口の外側に、大きなトーチカがある。この上には、常に警戒兵によって重機関銃が、黒々と無気味な銃口を吾々の方に向けている。
毎日の生活の中で、時には抑留生活を忘れる様なのんきな一時を送ることさえあったが、この銃口を見るたびに、言い知れぬ悲哀を感ぜずにはいられない。
(続く)

機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷   1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一