郷土をさぐる会トップページ     第03号目次

続 二度の撃沈から生還

谷口  実(七十二才)

斯くして再度生還(昭和十九年八月三十日)
海防鑑が近づいて来た。メガホンで何やら叫んでいるが、はっきり聞き取れなく、しばらくたってから、救助船はサンボアンガから来る、ということがわかった。
私選が来るのに五十時間もかかったのだから、二十ノットの速さでも、三十時間はかかることになる。
月が沈んで暗黒の夜のなんと長いことか、また何にも例えようもない、刻々体力の衰えを感じる心細さ。せめて早く夜が明けてくれれば、あたりが見られて、幾分なりとも安心出来るのだが…。
この時、明けゆく海に、待ちに待った黒い船影、私達のまわりは『船だ!船だ!』とワッと湧き立った。
しかし近づいて来る船影に、ただならぬものを感じ出した。はっきり姿を現わしたのは、紛れもない潜水艦、その横腹には『USA』の白い文字。
私達は恐怖と驚愕に、死物狂いに逃げまどった。しかし覚悟した機銃掃射の事態も起らず、敵の潜水艦はゆるやかに、私達の目の前を航行して行った。
私達の廻りの集団から、一人また一人と、顔を海面にうつ伏せて、動かなくなって、死んで行く。
体のどこかに怪我をして、体力の消耗を早めたり或は重油をのんだ者が、「ガアーツ」と真黒い液体を吐くと、その代りに海水をのみ、また吐く。
そのうちに丁度、深酒に悪酔した時のように目を据え、狂ったように、のたうちまわって、やがてガックリと頭を折り曲げて、静かになって行く。私達の周囲は陰惨な雰囲気に包まれ、私自身も、今にも気が狂うかも知れないと思った。
太陽はいつの間にか中天に上っていた。それにしても救助船は、一体いつになったら、やって来るのだろう。今の状態が、もう半日も続けば、私はほんとうに、気が狂うか海水をのんで死んでしまうかも知れない。
しかしその時、およそ十一時を少し過ぎたころ、はるか北の水平線に、ポツンと小さな一つの黒点が現われると、続いて左右にも同じような黒点が、一つづつ見え出したのだ。
それから十五分程後には、海は歓呼に包まれていた。救助船だ。まさしく救助船なのだ。私達は流れる涙を拭っては、またその船影を凝視した。
真ん中の特務艦らしい一隻は、五百米程のところでピタリと停止した。その艦橋からメガホンで呼びかけて来た。
「本艦が来たからには、お前達は一人残らず助けてやるから安心しろ。ただ現在の位置を離れるな。なるべく大きな群をつくって待て、一人一人がバラバラになると、死んでしまうぞ」
この声を聞くと、兵隊達は訓示を聞く時のように、「ハイーッ」と意外に元気よく返事をしたのだった。
その特務艦からはボートが下され、本艦の近くの集団から逐次救助を開始した。しかしその救助船が如何に作業を急いでも、短時間には到底終了しない。
本艦もまた敵の潜水艦攻撃を避けるために、絶えず右に左に移動を続けるので、私遠からの距離は二〜三百米に近づいたかと思うと、一粁以上も離れてしまう。
焦慮のあまり群を脱走して、一刻も早く助けられようとして、ボートに向って泳いで行く者も出たが却って救助されるのが、おくれる破目になってしまった。
大半のものが救助された頃、漸くのことで、私達のところへも一隻のボートがやって来た。ボートの上からは、大きな声で「しっかりしろ怪我をしているものから、逐次上って来い」といったが、誰も先に出る者はなかった。
長時間漂流したため、救命胴衣は水を含んでいる。ボートへ上る時に切って海に捨ててくれたが、それでも自分の体が、他人の物のように重くて、どうにも仕様がなかった。
ボートが本艦に着いて、水兵が竹の棒で一人一人の肩を打って、元気づけて廻った。
やがて船室の一つに入れられて、座り込んだが、前に出した足が人の邪魔になるので、引込めようとしたが、自分の力では引込めることが出来なかった。
ふと目が覚めたら、静かな朝が訪れていた。私はあの甲板から船室へ入って間もなく眠ってしまったのだ。
かくして、あの呪わしい一瞬から、特務艦に救助されたのが午後三時頃だから、長い長い三十六時間の漂流を続けながら、遂に救助されたのである。
船はそれから、百四十海里(約二百六十粁)を南進して、目的の赤道直下のセレベス島のメナドに入港、今こそ感激の上陸第一歩を印したのだ。
それにしても、いかに悲惨な上陸になったことか。千七百五十名を数えた楓部隊が、今整列した者僅かに二百十九名、実に八割を越える多くを、恨みのセレベス海に葬り、満身創痍の姿で、憧れの南十字星の下に整列するとは、果して誰が考えたであろうか。
殊に私は、二度も生死の岐路に立ちながら、奇蹟的にも、九死に一生を得て生還することが出来たのだ。
思えば、金槌で全く泳ぎの出来ない私が助かったのは、南の海は水温が高かったこと、波が案外静かであったこと、それに救命胴衣の有難さを、しみじみ感じたのであった。
私達の任務は北部セレベスの警備で、敵の上陸に備え陣地を構築し、肉薄攻撃によって敵を撃滅する戦法の演習が行われていた。セレベス島と一衣帯水のモロタイ島の近海には、幾百隻の敵艦艇が出没し、艦砲射撃を加え上陸の気配濃厚との情報の緊迫する中で、定期便と称される空襲が烈しくなり、遂には三つの飛行場は、完膚なきまでに叩かれてしまった。
モロタイ島、レイテ島を制圧した敵は、やがて硫黄島、沖縄、本土へと。戦局は破局へと追いやられていく。
八月十五日終戦の詔勅に、将兵共に悲噴憤慨、なす術もなかった。以来食糧確保の段階に急変して、現地を開墾し甘藷と玉萄黍を作る農業班、魚をとる漁労班、塩をつくる製塩班等に分れて自活し、復員の日を待った。
昭和二十一年五月待ちに待った復員船が、南紀の田辺港に着岸、久し振りに故国の土を踏んで、何ともいえない感激にむせんだのである。
今茲に、私が苦闘の道を乗り越えて生きていることに感謝し、併せて戦わずして、南海の藻屑と散った、多くの戦友の霊に対し、御冥福の祈りを捧げつつ、この稿を閉じる。

機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷   1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一