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島津青年団の思い出

水谷 甚四郎(七十才)

私が青年団に籍を置いたのは、高等小学校を卒業したばかりの昭和三年四月のことで、当時はこの年齢になると義務的に入団させられたのである。従ってそれ以前の青年団の内容は、島津八十年誌に詳述したので、ここでは私が入団以降の活動の様子を述べたい。
明治開拓初期以来の若連中から青年団に格上げになった時点で、島津公爵から、立派な団旗が下付になった。これは、紺地に金色の房の付いた布地の真ん中に十の家紋が入り、それを取り囲む恰好で黄金色の稲穂があしらわれた、日の覚めるように豪華なものであった。
故海江田翁の話によれば、これが上富良野の団体旗のはしりで、旭川で上川管内の青年団行事がある時は、村の青年団の団放として、旗手が先頭に連隊旗でも持つように高々と掲げて参加したということである。
その旗も、それから六十年以上も過ぎた今では、島津分館の和室に保管され、往時の面影を偲ばせている。
上富良野公民館の建物は、島津農場の年貢米の倉庫であった。農場の事務室になっていた所を青年団の会館としたので、我々青年団員は、遠くから水松や桜の木を運んで来て、少しでも会館らしく見えるように努力をした。しかし暖房の設備がなく冬期間は使用できないこともあって、ほとんどの行事が、島津分館の前身である集会所で行われるようになった。
ここは、機関誌の輪読や各種の講習会、書道、弁論会、珠算等の学習活動と、卓球やカルタ会等の娯楽に有効に活用され、団員の修養と研修の場であった。
学校で教材に使う大きなそろばんで、加減乗除を勉強したこともあったが、団員のレベルが一定でないので、なかなか思うように進まなかった。それに加減はともかく、乗除となると、割算の九九があり難しかった。二進が一進、三一三十の一、四二天作の五、六一下加の四、七三四十の二といった具合に、九九を覚えてから割算をする旧式学習だったので、遂に割算だけは御破算になってしまった。
当時一桁の暗算さえできない団員もいたが、その人達も優秀な農業経営をし、功成り名遂げて、今では農業者年金の制度もあってか、息子に経営を譲ろうとしているのだから見事なものだ。三一三十の一ではないが、学力だけでは割り切れない何かがあるのであろう。
青年団の活動は、実に幅広く行われていた。入営除隊の壮丁の歓送迎、凱旋兵士の出迎えや歓迎会、慰問文や慰問袋の送付、留守家族の手伝い、銃後後援会、食糧増産挺身隊、産業報国隊等めまぐるしい活動ぶりであった。他にも出役作業は数えきれない程あったが、島津神社の水松の大鳥居や分館の門柱は、我々団員が運んだものである。これは昭和四年の秋に、清富の一番奥から、鉄輪の馬車でゴトゴトと運び出したのだった。
当時は、何処へ行くにも各自愛用の自転車だった。一町歩程の実習畑があった関係で、農業研修という目的で、町内の視察は勿論、遠く永山の農業試験場まで約五〇キロメートル自転車を走らせた。そればかりか、護国神社祭、各種博覧会、飛行機の見学、花火大会等にも、トラックの挨をもろに受けながらゴロゴロの砂利道を二時間以上もかけて出かけたものである。
その頃は娯楽が少なかったので、秋頃に各地で祭があると、江花、新田中、中富良野、富良野方面迄夜道もいとわず自転車を駈って出かけた。又地元の祭が終ると、各役職の書いてある提灯をつけて、街へ遊びに出たこともあった。(青年団役員はたいそう女性にもてた。)
昭和十年頃になって、初めて貸切りバスで層雲峡迄足をのばしたことがあった。当時は今の温泉街あたりまでしかバスが入れず、それから先は狭い橋を渡り、石狩川の急流に突き出た大岩の下をビクビクしながらくぐり抜け、漸く大函に着いた。皆で「絶景かな、絶景かな」と言って満足した情景がはっきりと甦って来る。
青年団の入団は、十五才から二十五才迄と義務づけられていたから、私などは子供三人いる身でも、尚団員として後輩の面倒を見なければならなかった。いよいよ退団の時期になってホッと一息ついた間もなく、今度は在郷軍人会、翼賛壮年団、産業組合青年連盟などの仕事が待っていた。私は、最前線の兵士に思いを馳せながら、相も変らず東奔西走していた。
ところが遂に昭和十八年十月、満蒙の戦野に出征することになった。そうして終戦後シベリヤに抑留され、三年間辛酸を舐め尽した後解放されたのであった。
先だって島津郷土史を書く為、青年団から参考に借りた書類に目を通していたら、次のような記事があったので、原文のまま掲載させて頂く。当時の国民感情が、痛ましい程表わされている。
『昭和二十年八月十五日、二十三号橋架設作業出役、日没前終了。本日正午、我等学徒隊否全国民に大東亜戦争終了否、我国戦に敗るの報に接し、我等隊員一同は悲憤の涙に暮れ、国民一同の働きの足りなきを御上一人におわび致し、日本将来の国力培養国威恢弘をし、従来以上の日本国を建設せんことを誓い合った。』
以上の記録を読んで、一億一心滅私奉公の愛国教育が、いかに前途ある青年の心に浸透していたか、ありありとうかがえる。教育の底力を、今さらながら痛感せざるを得ない。
尚蛇足かもしれないが、私が復員して間もない頃島津青年団の例会に招かれて、約二時間に亘って話をしたことがあった。その内容は、戦争というものや軍隊生活の実態、ソ連の国情、シベリヤ大衆と権力者の生活の実態を、見たまま聞いたままをためらうことなく打ち明けたものだった。
その時、聞いて下さった青年団員諸君は、今はもう五十代の中堅人物になっている。誰でも容易に行くことのできない国の話を、どのように受け止められただろうか。
私はもう古稀が近いので、若い人達に期待する所、大なるものがある。

機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷   1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一