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続「日新小懐古録」 私の少年時代

佐川 亀蔵 (七十五才)

年をとってくると妙に昔の夢を見る。わけても学校に関してで、大正十五年の爆発で流された新井の沢の学校(旧日新小学校より更に三粁程奥地にあった)の事が多い。
私が入学した時はまだ上富良野第四教育所と言っていたが、二年生の時(大正六年)日新尋常小学校になった。教育所が建つ前は新井牧場が事務所の倉庫で私塾を開設して、小作人の子弟を教えていたと言う。先輩の菊池先生や狩野円威さん達の話しを総合すると、北谷堂と言う先生が教えていたが、明治四十二年に新井鬼司さんが牧場の中心地に校舎を建てて寄付し、公立の学校になった。
その時の先生は久世第二と言う方だったという。その後第四教育所に、青森県から高木千景先生が赴任して来られた。背は低かったがガッチリした体格で姿勢が良く、前方を真直ぐに見て歩くので、子供心にも何と立派な歩き方をする人だと思ったものである。
晩年先生が岩見沢と、其の後峯延におられたので二度程お伺いしたことがある。
先生のお話では、内地から役場に入る約束で来たが、「新井牧場に先生がいないから山に入れ」と言われ、日新の教育所に代用教員として勤めることになったそうである。
新井牧場は開設後間もなかったので、山の中の貧弱な学校で驚かれたらしい。
奥さんの話では、内地では水田地帯だったので、食事は米飯ばかりであったが、学校住宅(教室と坂一重で仕切られていた)へ入った翌朝、御飯を炊くのに、麦ばかりで、それも搗いたものと、搗かないのとは見分けがつかず、玄麦を炊いてしまい、先生に叱られたと当時を回想されていた。(当時は臼で玄麦を搗いて精麦したものを食べていた。)
私が学校へ入学した頃は、まだ教室の壁も床も板の一重張だった。夏はよかったが、冬になり吹雪の日には雪が隙間から吹込んで、机の上にザザッと降って来たものだ。習字の時は墨水が凍るので、硯をストーブに載せ、底をハネらせてほとんどのものはがたがたになっていた。
校舎は土台付きであったが木造だったので、次々と腐り下がるので、そこに玉石を押込んで支えたりした。
教室は四間に五間の二十坪(六十六平方米)で、下手に教員住宅として二間半か、三間の部屋が四分板一重張で仕切られていた。
休み時間は教室で生徒が暴れると、こっぴどく叱られた。今考えると無理もない話である。先生には子供も沢山居たし、其の部屋以外に物置も無い状態であったので、後日奥さんは、お産の時は一番辛かったと申されていた。
五年生の夏、村で教員住宅を建てることになり、部落の北村留五郎さんが請負で工事が進められた。
夏休みも近い頃、璧にする枯土が入用だったので先生と探しに行くことになり、今の藤山さんのあたりの谷地(水分の多く含まれた粘土)に良いのがあった事を知っていたので案内をした。ところが先生は夏休み前に野付牛(北見市)の森林看守として転勤されることになった。折角新らしい住宅が出来たのに、入居されないまま部落を出て行くことは、今迄の若労を知っていただけに、お気の毒だなぁと思ったものだ。
新井の沢(私達は大沢と言っていた)が牧場では一番先に、佐川団体が集団入植したらしい。
松永四郎左エ門さん、及川万次郎さん等は先に入植して居られたとの事だが、佐川団体は新井事務所の近くに先遣隊として佐々木家一族を春入地させ、私共の辺りは明治四十二年の秋になった。入植小屋を建てるまで事務所の倉庫に住み、通いながら作業をしていたと言う。団体長は、当麻の細野農場の整理で、佐々木家より一作(秋の収穫)後になったと聞いている。佐川団体には十二、三戸入植したが、翌年二、三戸が又当麻に戻ったらしい。伊香牛に其の人達の子孫がいる。
欧州戦争(大正三年)が初まった頃から、所謂豆景気で、入植する者が多くなり、鹿の沢、大沢、陰の沢(清水沢)、柳の沢等にも小作人が入った。私が三、四年生頃には、鹿の沢にも二十戸位は住んで居た。
学校は一教室だから狭いので、一つの机に三人づつ並んだ事もある。腰掛は先生の手作りで、背当てが無かったので、後列の生徒は時々ヒックリ返っていた。この頃には生徒は百人になっていたと記憶している。
戦争も終って農村に不景気が押し寄せて来た。大正の末頃には生徒の数も四、五十名位に減っていた。
其の頃夜逃げという言葉がはやった。仲の良かった友達も何の前ぶれもなく、次の日来なくなったりして、随分淋しい思いをしたものである。
その頃、鹿の沢の高台に私の叔父鹿野正名が独り残っていた。高木先生は「本当の鹿の沢になったなあ…」とつぶやいておられた。細野、松井牧場も、初めは随分入植しており、日新の学校には両牧場の生徒も来ていた。鰍の沢の今野、藤原と言う人も日新の学校へ来ていたが、何時の頃からか三重団体の学校に通うようになった。
日新と言う名は、新井鬼司さんが「日に日に新たなり」と言う論語から取って付けたと、高木先生か青年団も、初めは新井青年会であったが、大正十年頃だったか、盛大な発会式をやり、其の時から日新青年団と呼ぶ様になった。
学校の生徒が多い時代でも、欠席する者が多かった。当時は開拓に忙しく、今と異って親達に教育の観念も薄かった様だ。私達も百姓には学問はいらないと言う事を聞かされていた。女の子は三年生頃までは休み休みでも行くが、六年生を卒業するのは、余程経済的に楽な家庭での事で、卒業生名簿を見ると大正五年に二人、大正七・八・九年に各一人、私の同級生は、入学した当時女子が四、五名いたが、卒業の時は男だけ六人だった。男生徒も二・三年生の頃には十人位は居た様な気がする。私の姉も二年生で退学した。大抵の家では子守りで、三年生になると一人前に御飯炊きをさせられた。男の子でも五・六年生になると炊事の仕度をする者もおり、私等も遊び相手がほしいから其の生徒達を手伝った。学校へ行くのにも子供を背負って来る女の子や男の子が大分居た。
私は長兄だったが次の弟より小柄だったので、弟に四番日の弟を背負わせて学校へ通った。自分は本当にどうしてあんなに小さかったのか…。亀蔵と呼ばないで、豆蔵、豆蔵と呼ばれ、高等科に行っても、身体検査の時飛沢先生(学校医)が覚えて居て「新井の豆蔵だな!」と言われた。
日新の学校は、在籍数の割に欠席児童が多く、毎年卒業式に吉田村長さんが来られたが、村内の学校で一番欠席率が高いと言って居られた。教室に学年別の棒グラフが貼ってあったが、いつの年でも欠席者が相当多かったと記憶している。
トラホームと言う眼病があった。飛沢先生が生徒の検診に来られて、日新は村一番多いと言われた。
どの家も焚火だったので、煙いので目をこすり、それに禄に手足を洗わないで不潔にして居たからだったろう。兎に角働くことで教育とか、衛生とかは別の問題と思って居た時代であった。生徒の弁当も麦かイナキビで、頭位の大きなお握りを持って来た。
陰の沢から来る人で二人ばかり白い米の飯を持って来て居たが、水田地帯から来た人だとか親から聞いた。夏にはトウキビやソバの団子など持って来るのを見受けた。私は麦飯に沢庵漬か味噌漬のおかずが毎日だった。服装は和服で、洋服は一人も居なかった。夏になると縞かカスリの単衣で、春・秋は縞の拾で、冬は綿入にモンペを男も女も全員が覆いていた。
男の子は夏、コマをまわすのに誰も彼も兵古帯を裂くので、真田紐をさせられた。乱暴な遊びで降参相撲と言うのがあって、二組に別れて最後の一人が残るまで皆で攻め合うものだった。
高木先生が転任された後に富田先生が来られた。新らしく建った住宅に入られたので、教室の隣の住宅は使われなくなった。畳が入っていたから相撲には申し分の無い場所で、一冬の聞に畳は形がなくなる程ぼろぼろになった。というのも、冬は寒くておとなしくして居られなかったからである。
毎年ではなかったが、村の予算がなかったのか、暖房用の薪を生徒が二・三本づつ家から背負って行った事がある。先生も放課後袴をハショッて裏で薪を拵えて居られた。青年団が出来てからは、学校の薪は山から運んだり、小切りもしたが、五・六年生頃までは、朝も、休み時間もストーブ薪は、生徒が鋸で小切りした。
或る日、小割している者に、指のアカギレをしばった布の端を切ってくれと頼んだ者が、薪割の台の上で指先をいっしょに切り落されてしまったことがあった。落とされた人は誰だったか忘れたが、平気でたっていた。落とした方は青くなって、あわてて切った指に当てがったりしたが、逆に付けたりしたので、遂に付かないままだった。切った方は優等生で通した立派な人だったが、大東亜戦争で戦死してしまった。
鋸は毎日使うので、すぐ切れなくなる。先生は日立が出来ないから、隣の千葉巳佐吉さんに頼んだ。なぜか頼み役はいつも私が行かされた。十勝岳爆発で此の方も、奥さんも、私より一級下の女の子も流されて死んで、今の千葉整骨院長のお父さん春之進さん一人だけ残った。
巳佐吉爺さんは、何んでも知って居る人だと思った。梵字なども書き、灸や針などもやるし、祈祷や占もやっていた。私も母と一度行った事がある。お札に扶桑教と書いてあった。
学校は牧場の中心だったので、大沢の生徒のほかはたいてい一山も、二山も越えて通学していた。夏は下駄で、時には刺し足袋と言って底をポロを厚く刺し、足の甲の方は綺麗に木綿糸で刺した物(冬の間女の人達が手縫いで家族の作業用として何足もこしらえた)を履いたが、多くは下駄だった。朝露のある時や雨の日は、ズルズルになるので、すぐ裸足になった。熊が恐ろしかったので、下駄を脱いで、カチン、カチンと音をたてて歩いたこともあった。
冬はツマゴ(藁沓)で、軍隊の払下げの赤い毛布で作った足巻をしたが、授業が終って帰る時カチカチに凍って困ったものだ。五年生の時、防寒靴と言うズックに蝋を塗った様なのを腐いたが踵がツマゴより小さかったので、立橇(スキーがなかった時代で七十糎か一米の長さで、足巾の木材を自分で削り作った。先の方に枕があり縄をつけた)に乗るのに都合が悪いものだと思った。通学の時はこの立橇を毎日持って行き、上りには縄で肩に掛けて運び、下りは滑る面白いものであった。スキーを初めて見たのは新井の若旦那が履いて来た時で、珍らしくて皆なで見に行った。幅十二糎、長さは一・五米位で、私選の立橇よりは数倍も良く、軽いようで靴に取付ける金具や締め具も初めて見るものであった。ストックは長い棒を持って滑っていた。
大正十五年の十勝岳爆発は忘れられない。新井の沢は早く拓けたので、当時戸数は減った様でも、部落では一番沢山の人が住んで居た。新井牧場主が道会議員だったので、国道より立派な道路が出来た。大正十一・二年の頃と思う。
私共は開さく道路と言って、側溝付きで道幅も広く国道から二里(八粁)程あり、旧伊藤八五郎さんの処までついていた。人家も続いて、佐川団体の人も大半は沢に下った。不景気でも学校中心に農家が増えていった。従って被害も大きくなった。
兎に角新井の沢一杯になって泥流が流れて来たのだから、驚くばかりで、見た人でなければ想像が出来ない大惨事であった。私もあのとき、学校の裏山まで魚釣から帰って来ていたので、もう二・三分歩くのが早かったら、学校と一緒に流されていたかも知れない。
爆発の事は他の人達も度々書いておられるので省くが、学校と在籍生徒十一名、先生の家族が流された。
この頃時々災害の跡に復興して学校が建ったり、高木先生が来て教えている様な、変な夢を見る。忘れ難い。
他町村へ出た人でも、時々流れた学校の跡を懐しみ、訪ねる人があると言うので、昭和五十四年三月二十四日、日新小学校閉校式当日の朝、旧学校跡に標柱を建てた。木柱より長持する材料でと思ったが予算もないので、学校敷地整理のとき、生徒か、青年か、或いは在郷軍人かわからないが、寄付したトド松を使った。旧地を訪ねる人も年毎に減ってゆくだろうが、必要があれば腐ったら又建替えてくれるであろう。
幼いときは良く戦争ゴッコをした。菊池先生の家の処から学校の裏山を廻り、千葉さんの家の所へ降りる道路は、絶好の遊び場だった。裏の山からドングリを拾って来ては、ドングリ出しをしたり、硫黄川は良い泳ぎ場所で、水遊びもした。生徒は粗衣、粗食で、今では想像もつかない苦しい環境のなかで育ったが、皆んな丈夫だった。
三年生の頃、津軽(青森県)から来た生徒が、モンペを履いてきてから、学校全部がモンペを履く様になった。市街の学校へ行ってもモンペ学校の生徒と言われた。遠足に来た他校の生徒とよくけんかをした。市街の学校とはさほどでもなかったが、校長先生が一緒(上富良野尋常小学校―後の創成校―の校長は日新小学校長を兼任していた)なのに三重団体の生徒とは、何故か仲が悪かった。
或時放課後掃除をしていると、教室に砂を投げ入れられた事がある。こちらも負けずに追いかけて行って、掃除馬欠の、汚い水を掛けてやった事があったが、年を取ってから会って、お互いに昔の事を語り合い笑ったものである。
日新の学校には、昔から良い先生が来てくれた。印象に残って居る先生ばかりであるが、初めての先生と、閉校の時の先生には心配をかけたと思っている。高木先生は誠に教育には厳しい先生だった。けんかをすると、二人の頭を掴んでゴツゴツ打ら付けた。いつも竹の鞭を持って居て良く打たれた。怒ると白墨を投げてよこした。字が上手で、あの頃は卒業式などの経費は村だったのか、部落だったのか知らないが、生徒の賞品は半紙など、一年使う位貰ったが、修業証書は先生自筆のものを貰った。習字の時、半紙を持って来ない生徒が居ると新聞紙をくれた。清書の時は半紙二枚宛を住宅から持って来てくれた。練習の時は紙が黒くなるまで一枚の紙を使わされたものである。
先生はお酒が好きで、部落の結婚式やお祝い事には、欠かさず出掛けて居られた。いま考えると、父兄と交わることが地域教育の為と考えての、努力ではなかったかと思われる。
私は大正十三年に市街の高等科を卒業すると、すぐ青年団に入った。団長は菊池先生だった。先生は当校の卒業生で尋常科だけだったが、独学で正教員の資格を取った。大変教育に熱心な方で、青年団に入った時「学校を卒業後二・三年続けて勉強せよ。人生一代其の頃の努力が左右する」と言われたことを今でも忘れない。上級の学校に行かなくても講義録もあるからと言われ、早稲田中学講義録をお世話して貰った。第三十三回生で、一ヶ月一円二十銭で月二回配本だった。楽しみだったが三ケ月で割引き三円の学費を作る為には苦労した。その頃家の生活は苦しく、滅多に親から小使銭は貰えないので、お祭りや運動会に貰ったのは全部学費にした。街へ雑穀を運搬して出るが、お昼に友達はキンツバ焼を食べていたが、私はほとんど食べなかった。古川雑穀店の小運搬(駅出し)は一俵五銭だったので、学費欲しさに馬には気の毒だったが荷物があれば出させて貰った。小学校のとき、私はいつも算術の域績が悪くて甲など貰った事が無かったが、ローマ字も読める様になり、代数の一次方程式ぐらいは解ける様になった。その頃役に立たない勉強だと思っていたが、今度の戦争で、三十六才で召集になり、海軍で砲術教育を受けた時、測距学や弾道学の講義で、横文字の難かしい幾何学等の話を聞く度に昔の事を思い出した。若い時の勉強はいつかは役に立つものだとつくづく感じたものである。

機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷   1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一