郷土をさぐる会トップページ     第03号目次

開拓の母

広瀬 ハルエ(八十四才)

私の両親は、明治三十一年五月、三重県から団体長坂垣贇夫氏と共に、空知都幌向村に入植しました。
私は幌向で生れ、大正元年二月、十三才の時に東中に移住しました。
私の旧姓は中西と言いますが、中西のお爺さんと東中の西谷元右ヱ門さんの奥さんは、従姉妹にあたり、幌向では移住の二、三年前迄隣に住んでいました。
西谷さんは、幌向で二戸分の土地の払い下げを受け、自作農を営んでいました。元右ヱ門さんの父親は大工で、弟が四人おり、幌向では丁度東中市街の様な所に出て雑穀買いをやっていました。
しかし、価格の値下りで大きな損をし、又その後奥さんのお重さんが亡くなってから、五人の子供を連れて上富良野に移ったのでした。
註…町史に依ると、西谷家は明治四十一年二月(土地を求めた年)に入地、未開地三百三十町歩は、同四十三年十月付与を受けたとあり、西谷牧場となっている。中西家は大正元年、西谷さんを頼って上富良野村東中に移住したが、そこは防風林用地として存置した未開の土地であった。…
私の土地は造材事業を行った跡地で、大木の切り株と、角材を伐った後の残材等がそのまま散らばっていて、全くの荒地でした。
男仕事として立木を伐採した後は、小枝や雑把を集めるのが女手の仕事でした。連日同じ作業で、辛い思いをしました。出面さんを頼み、畑は手耕しで拓きました。馬が入るようになったのは、二年目からです。湿地がかなりあったので、高く乾いた処には芋や稲キビ等食糧を作り、湿地はそのまま放置していました。
大きな木の株が沢山あって、株の始末には苦労したものです。夫婦者の出面さんが二人で切り株の上に座り、真ん中におかずを並べて弁当を広げていた、と弟の覚蔵がよく話していましたが、相当太い切り株もあったのでしょう。 切り株はハンの木が多く、そのうち腐ってきたのでそのままにして、夕方風の無い日に、根元に小枝や雑把を集めて燃やしたものです。山の方に住んでいた重綱さんが、その様子を見て「提灯行列のようだ」と話しておりました。
広瀬家に嫁ぐ
私は大正七年二十一才の時に、広瀬常次郎と結婚しました。
広瀬の生家については詳しく聞いていませんが、義父七之丞は長男で、十三才の時父親が死亡、妹が二人いました。北海道に渡るため、土地や家財道具類を整理したら、残ったものは仏さんだけだったと聞かせてくれ、岐阜県では所有地も狭い方だったようです。
義父は明治二十八年二十五才の時、岐阜県捐斐郡坂内村から、岐阜団体の一員として渡道、空知郡栗沢村に落ち着き、此処で土地を貰い開拓を始めたと言っていました。
広瀬七之丞の上富良野移住
清真布で、義父は妹一人を隣りに嫁がせ、四年程そこで暮していましたが、明治三十一年の夕張川の氾濫により、折角拓いた土地もすべて流されてしまいました。
途方に暮れている時、上富良野の倍本農場に行って土地を拓けば、拓いただけ売ってくれると言う札幌の人の話を耳にし、奥田亀成さんと一緒に早速土地を見に出かけました。
東中では五十嵐農場や中島農場等も見て回りましたが、水害に懲りているので水のつかない土地ということで、此処倍本農場に決めたようです。
明治三十三年に富良野迄汽車で来て、富良野から倍本迄、子供と布団を背負って歩いたそうです。そして広瀬は森田喜八郎さん宅に、奥田さんは松原さん宅に厄介になったのです。松原さんには、ユキちゃんという私と同じ位の娘さんがいてお婿さんを迎え、大勢の若衆を雇って手広く馬喰の仕事をしている家でした。
此処に来て二、三年開墾してから、この土地を売って貰おうと、奥田さんと共に札幌にお願いに行き譲って貰いました。
倍本信用組合等も組織され、肥料の共同購入等をしていました。この組合は大正十年頃迄続いていたようです。
第一次世界大戦当時の大正四、五年、豆の成金時代も終った頃、中西では手亡を作っていましたが、長雨のため売りものになりませんでした。
一方広瀬では上手に収穫、そのお金で私達の結婚式が出来たんだと言っていました。
義父七之丞は、大きなことが好きだったから、お金が無くても土地を買い増していました。
今の西木さんの居る土地も、息子に一戸分ずつ持たせ分家させるんだといって買いました。また、森崎さんの土地も、景気の良い時期で随分高いのを無理して買ったようです。
私が広瀬に嫁いで来た時は、全部で五戸分の土地がありました。丸山さんには借金をしていて、年末になると請求を受けるが、何とか言訳をして待ってもらっていました。
大正十年には、六線の美濃さんから澱粉製造の機械を買い、今、見附さんの土地になっている所の角に工場を建て、製造を始めました。
灌漑溝から水を引き、中川さんに大きな水車を作って貰いました。
澱粉の原料は、自家生産の馬鈴薯が主体でしたが、一部他人の余ったものを買っていた様です。他人と契約栽培をすれば良かったのでしょうが、それ程力もなかったようで、四、五年で製造は止めました。
十勝岳爆発の年には、澱粉は止めてビート作りを始めていました。多い年は、十町歩から十二町歩程作ったことがありました。
出荷時期になると、馬二頭で出し切れず、雪も降ってくるので、近所の人を頼んで運搬してもらいました。出面さんも頼み作っていましたが、ビートは土地に合わず、三年程で止めました。
何でも人の先々やっていたので、家族の者は苦労したものです。豆が安くなった時でも、宮林から、豆の手にする根曲竹の払い下げを受け、秋に男の子を皆連れて切りに行ったものです。中には、「人の切らんものを切りに行く」と言って嫌がって行きたがらない子もいました。
すると、「男の子が五人もいるんだから、人のやらんことをやって、儲けなかったら駄目だ」と言って聞かせていました。根曲竹は、自家用を残し、他は売っていました。ひ虎豆や白花豆も、五反余り二、三年作りました。兎角大作りしたので、人手が不足になってからも、長野農場迄も子供を背負って、燕麦蒔等に通いました。
「手間のない人は、広瀬さんに頼めばやってくれる」と言われていたものです。久野さんの兄さんが召集されて手間がなくなった時、「若し知らない人に貸して、戻してくれなかったら困るから、広瀬さん作ってくれ」と頼まれた事がありました。
そうしたら、良しと言って引さ受け、亜麻や大豆を大面積作ったのです。でも機械の無い時代ですので、脱穀するのが大変で、天気に恵まれず畑に積んだまま年を越し、春になって落とそうとした時には兎に食べられカラばかりでした。
義父七之丞が馬車に轢かれ、大怪我をしたのが昭和四、五年頃でした。甥子を預っていたので、私は三人の子供を背負って、慌てて病院に駈けつけました。その姿を見て、「いやぁ、いっぱいおぶって行くなあ」と学生に笑われたことを覚えています。
昭和三十三年三月六日、義父は八十五才で亡くなりました。そして奇しくも、その一週間後に私共の息子が結婚したのです。
義父七之丞は、「人と同じことをやっていたのでは儲からん」と言って、何でもやった人なので、波乱に満ちた忙しい毎日を送り、家族の者も苦労の連続でした。が、幸いに健康に恵まれて長生きをし、今はこうして、平穏な日々を過ごしています。

機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷   1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一