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続 開拓者安井新エ門の記録

安井 敏雄 (六十一才)

上富良野原野に入植
明治三十三年二月、新右エ門は友人二人と上川支庁に行き、富良野原野の土地一戸分を出願して帰った。四月再度良い土地があればと下富良野(現在の富良野市)から落合まで調査したが、気に入った土地が見当らず旭川に戻って、松村雄之進上川支庁長に直接嘆願の機会を得たが、もはや旭川周辺には土地がなく、富良野村の土地(現在の中富良野町旭中)十戸分を出願して許可を得ることが出来た。新右エ門はそのうち二戸分を配分され、七月に小屋掛けに来た。今の旭中小学校附近である。
明治三十四年、当別の土地を七百二十円で売却した。新右エ門は三月馬橇で当別を出発、その晩は滝川に泊り、翌日は大吹雪で旨江花で一泊し、三日目には国見峠を越えて坂下呆宅に泊めてもらい、四日目にようやく我が小屋に到着した。
旭中の土地には大木は全くなく、雑木を切り倒してそれを焼き払って開墾し、田六反を造田した。他に畑六反を借りて蒔付けしたが、秋にはこの新田から玄米三十俵の収穫があって家族一同たいへん喜んだ。
翌三十五年、近くの土地一戸分を二百円で買い、三間に六間それに四尺の下屋付の納屋を建てた。この年は稀有の大凶作で、秋になってまた炭がまを設置して、炭焼きで収入を得ることにした。この年九線簡易教育所(旭中小学校の前身)が開設されたが、新右エ門は推されて学務委員となる。この年、祖父八十六才の長命にて死去した。
明治三十六年、教育所が焼失したため、新右エ門の納屋を仮校舎に提供して授業が再開された。この年水稲は反当僅かに一俵余りの収慢で、二年続きの凶作となり生活は非常に困窮した。
翌三十七年は洪水があったが豊作であった。
この年小川から飲用水兼水田の灌漑用水路を掘った。これは数人の共同利用で組合長も勤めたが、翌年正式に水利権の許釘を受けた。
明治三十九年十一月二日に初雪が降ったが、そのまま根雪となった。
人を雇い木の伐採に出かけた父が木の下敷になって怪我をしたが、危うく命拾いをした。
翌年にも父が寒さのあまり炬燵で、夜具を頭から被ってガス中毒で人事不省に陥り、急拠医師を迎え一命をとり止めた。
第二安井牧場の開設
明治四十一年九月、桜坂源三郎氏と共同にて上富良野で牧場の払下げを出願したが、国税納額が足りず、総本家安井新兵衛の世話で、四方勇吉氏の名儀を借りて追願した。間もなく桜坂氏の持ら分も譲り受けた。
明治四十二年、牧場が許可になり代金一千円余りを払込む。この年農会評議員、第三部長にも任命された。翌年牧場に事彷所を建てる。(倍本の山森氏より購入)
明治四十四年、新しく住宅を建てて移転し牧場開設に取りかかった。二・三頭曳きのプラウでの荒地の開墾は想像以上の重労働で、血気盛りの男でも人馬とも共、骨と皮に痩せてしまった。この頃の安井家は弟達が成人して結婚しても分家せず、大家族で開墾に全力を尽くすことにしていた。
牧場は三十町余り開墾し、牧柵三千六百間(約六千五百米)を設け、畜舎二棟七十四坪も建て、この年牧場全部の成功検査に合格した。この合格の陰には馬の頭数を確保するために、親戚、知人等多くの方々の協力があったことを感謝した。
大正二年は大凶作で種籾も穫れず、小作地の水田からの年貢も一銭も入らず、畑作の方も秋作は収穫皆無であった。
大正四年、牧場を全部小作にし旭中に引き上げ、弟も分家させた。小作人は全部で十一戸であった。
八月小作人某の小屋が焼け、中で遊んでいた子供三人が焼死するという傷ましい事故が起きた。
大正五年九月、牧場を小作人付きで久保幸太郎氏に一万二千七百五十円で売却した。この牧場は五万分の地図にも残り、今の旭野一、二下の高台に位置していた。
大正六年、東六線北十九写で八町三反を四千八百円で買い求め、東八線北十七号でも二戸分をそれぞれ三千円と、千二百円で買った。
大正七年、旭中の土地三戸分を建物付きで、一万円で売却した。この年かねて下見分してあった北見の女満別村の土地十一戸分を三万円で買い、新右エ門が六分、弟の福蔵と岡田七蔵がそれぞれ二分の割合で配分した。
水田専営を目指す
前年買った東六線の小作地を解約して三月に家族一同旭中から移転した。この年一町を造田し直播と水苗移植を行ったが、いずれも豊作であった。この時の稲扱き、籾摺作業は傘型の馬廻しを使明した。
大正八年三月、新右エ門夫婦らが一ヶ月の予定で内地見物に出かけた。汽車も二等車(今のグリーン車に相当)に乗り込み福井にも立寄ったが、故郷に錦を飾った新右エ門は、生涯で最も得意の絶頂の時代であったようである。この年全部の土地の造田を完了し、九月にはまた土地二戸分を買い求めた。農産物価格が大暴落して農家経済は急迫し、十勝、北見方面に新天地を求めて移動する人も多かった。
大正九年第十一部長に任命される。翌年稲の脱穀、籾摺作業は天掛け小型水車にしたが、その能率の良さは驚く程であった。
大正十一年、村会議員に当選、土功組合議員にも選ばれた。この年小作人多数の出入りがあったが、より有利な条件を求めて移動したためである。
大正十三年、住宅改築に千八百円かけたが、当時としては相当立派で広い家であった。この年二男忠和を分家させた。大正十四年、東中住民会長になる。さきに転出した人達も富良野がよいのか舞い戻る人が多い。
大正十五年、十勝岳爆発による大惨事が起ったが、加えて同じ日に糸屋銀行が突然閉鎖する事態になり、結局頭金百円に村し四十八円九銭が払い戻しされることで解決したが、新右エ門はこれで五百三十六円六銭の損害を蒙った。この年は冷害凶作でもあり加えて農産物の価格も安く困窮者が続出した。
昭和二、三年にかけて小作人二戸が夜逃げし二百円以上の損害を受けた。昭和六年七月父兵蔵八十八才の長命にて死去する。この年も大冷害に見舞われる。
昭和七年に新右エ門は公職のすべてを辞し、家督を長男の正治に譲り隠居届をして一線から退く。新右エ門の記録はここで終っている。
筆者追記
筆者の知る範囲で若干追記すると、北見で買った土地は凶作続きと管理人の使い込みで、結局不成功に終った。昭和十七年経営主である長男正治病弱のため、止むを得ず離農し市街地に転居した。この年新右エ門の妻カミ死去する。
太平洋戦争中小作料収入で生活しながら、出征した孫達の帰るのを期待したが、終戦と共に占領軍総司令官マッカーサー指令による農地改革が行われて不耕作農民ということで全所有地を開放させられてまたしても無一文の状態になったわけである。
新右エ門にしてみれば営々七十有余年、酒煙草は勿論、何一つ道楽のない質素な生活をして自分一代で汗と涙で築き上げた財産を、根こそぎ取り上げられたのであるから、残念無念さは察してもあまりあるものがあった。
失意の新右エ門は急に老け込み、昭和二十五年二月十九日未だ戦後の物資不足な時代に、寂しく八十一才の生涯を閉じた。安井家は代々日蓮宗の信者で朝晩仏前で読経したし、新右エ門は永年に亘りお寺の総代としても尽瘁したため、「信行院成就日保大居士」という戒名を授けられた。
なお余談になるが安井家には代々伝わる日蓮聖人の、二十五糎ほどの坐像があるが、最近になってこの仏像が天正十七年のものであることを発見し驚いている。今から三百九十三年前といえば豊臣秀吉の全盛時代である。このことは新右エ門も知らなかったとみえて、生前その話をきいたことがなかった。
私はこの仏像こそ今の安井家にとっては、巨万の富にも勝る祖先からの唯一の貴重な遺産として受け継ぎ、子孫に伝えねばと思っている次第である。

機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷   1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一