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入植以来の燃料とストーブの推移

岩崎 与一(七十三才)

まず、ストーブが北海道で最初に使用され始めたのは、いつ頃であったか。安政三年二月(一八五七年)函館に入港した英国船で、使用していたのを見習って、時の函館奉行、竹内下野安保徳が、函館の職人に命じて二十二個作らせた。これを宗谷、北見、根室、千島等に派遣されて、越冬する役人に使用させたのが、安政三年の冬からであったという。(註アイヌ実話集による)
当地方では官公庁や鉄道、学校から使用が始まった。明治三十二年十一月、旭川から上富良野まで鉄道が開通した時には、駅ではすでに丸形(たこの頭に似た)の鋳物ストーブが使用されていたようだ。
また東中小学校が明治三十三年に簡易教育所として認可になり、数年を経ずして大きなストーブが据えつけられたと聞く。
東中地帯で一般農家に薪ストーブが普及され始めたのは大正六、七年頃で、大正八年石田清作氏が東七線北十九写でブリキ屋(板金加工業)を開業してから、急速に普及することになった。この頃になると平坦地はすべて開墾しつくされて、薪の自給は出来なくなっていたからでもある。
それでも、畑には木の伐り株が沢山あって、難儀しながらこれを揺り起して、切ったり割ったりして燃料にし、薪の購入代を節約した。ただし山間部に住む農家には昭和の初期まで囲炉裏の名残りはあった。
この頃の薪ストーブは鉄板製、円形で学校などでは特大のものを使ったが、一般農家では「一番ストーブ」が普通で、薪を二つに切って三、四ツ割りにしたものが、五、六本入った。一日当りの薪の消費量は十本内外であったから、一冬の必要量十乃至十五敷を山から運搬するだけでも、相当の労働量になってきたのであった。
(註…一本の薪は長さ二尺四寸、太さは三方六寸といって、断面の一辺が六寸の三角形を標準とし、これを百本で一敷といい、また幅六尺、高さ六尺に積んだものを一棚とし、薪の取引の単位とした。それが薪材が少なくなるにつれて規格も二尺二寸に三方五寸と小形化していった)
また薪が値上りするに伴って、ストーブも小形の「二番ストーブ」が多く使われるようになったし、更に薪の需給事情が悪くなって行く中で、燃焼効率のよい二重ストーブが考案されてからは、薪の消費量は最初の一番ストーブに較べると半分以下で済むようになった。
(註、ここで薪の樹種について、ちょっと触れておきたい。薪は樹種によって燃焼効果に大差があり、取引単価もそれに応じて、三割〜五割の相異があった。イタヤ、アサダは最上樹種、ナラも材質が堅く火力が強い方であった。ガンビは中位、シナは最下位で、アカダモ、ドロ、シコロ、ハンノキなども火力が弱く、雑薪として扱われた)
昭和時代に入ってからは、薪資源は急速に枯渇して行き、小学校の薪、百数十敷の準備は次第に困難になったようで、昔から学校の薪の山からの搬出は青年団員が引き受ける慣例であったが、今では遠い昔物語りになってしまった。
東中周辺の山に薪が少なくなって、石炭に移行する過程で、遠く富良野の演習林(現在の麓郷の開拓時代)の奥地まで往復九里の道を、馬橇で朝三、四時に出発し、雪道の道中が順調であっても、帰宅は夕方の四時。思わぬ吹雪に遇って悪戦苦闘の揚句、薪を放置して帰っても午後七時ともなれば、安否を気遣う家族も大変であった。そんな苦労をして自家用薪の購入運搬した者も少くはなかった。
このように、その頃の農家の冬期間の労働は、農産物の包装用俵編み、縄ない作業などに加え、薪の入手先が奥地に伸びるに従って、労働は強化されていった。冬期間現金収入を得るために、造材山稼ぎに出かけなければならないなどの条件の下で、石炭ストーブが本格的に普及することになって行く。
尤も石炭ストーブが最初に登場したのは、大正十二、三年頃と思うが、一般農家では急速に普及することもなく過ぎていった。初めの石炭ストーブは円形の投込式のものであった。
(註、初めて石炭を手にとって、これが燃える石かと興妹深く見詰めたのは、小学二年生の時、学友と鉄道線路を見に出かけ、機関車の炭水車から転げ落ちた一かけらの石炭を拾って家に持ち帰り、囲炉裏で燃えることを確めた記憶がある)
昭和五年頃から世界的に経済恐慌時代が到来し、日本でも緊縮政策がとられたが、農村では四年続きの凶作と相俟って、今日では想像も出来ない苦境の時代があった。社会的にも失業者が続出し、各地の駅の待合室にルンペン(浮浪者)がたむろする時世であった。この不景気時代を象徴するかのように出廻ったのがルンペンストーブ。このストーブには石炭の投入口がなく、一度火をつければ、半日は燃え続けるし、カロリーの低い低品位炭でも、よく燃えるので急速に普及していった。
それでも完全に石炭ストーブ時代に切り代ったわけではなく、不況にあえぎながら唯一の現金収入の途であった造材山の仕事も、手近かに得られなくなったこともあって、目をつけたのが雑木山(柴山)であった。荒された畑や原生林伐採あとの二次生林を割り安な価格で買い取り、これを小切りして燃料にすることが行われたりした。しかしこれも意外に手間のかかり過ぎる仕事であった。
また籾穀を燃料に利用するために、薪と兼用或は籾殻専用のストーブが発案されたのも、この頃のことである。
或は木工場からオガクズを特約して買取り、燃料に供したのも同じ頃のことであった。そしてオガクズ用のストーブは二種類のタイプが考案されて販売されていた。
日中戦争が始まると軍備が優先し、太平洋戦争に突入してからは、緒戦の戦果とは裏腹に、膨大な戦場を拡げたまま、極度の窮乏生活に耐えながらも遂に歴史的敗戦となり、終戦の年には農家に対する石炭の配給は殆ど停止した。たまに僅かに配給になったものは何と「無煙炭」ならぬ「燃えん炭」であった。炭鉱で採炭する際に放棄したズリ炭で、程度のよい石炭と混ぜて燃やしても、どうにか赤くなるだけで、そのまま炭殻になる煙も出ない代物に、敗戦の情けなさをしみじみと感じたものであった。
そこで石炭という燃料を求めて山越えをして、芦別炭鉱まで自家用炭の闇買いに出かけたこともあった。富良野を通れば警察に聞物資として取り上げられるので、朝、夜明け前から出発し一泊して二日がかりで僅か一トン内外を運搬するのも大変なことであった。こんなことも今ではみんな音物語になってしまった。
昭和二十二年頃から営林署では、希望者に国有林から用材や薪村の立木の払下げが行われるようになった。十勝岳山麓深く入り込んでの伐採作業は、昔の伐木や馬搬の経験者を交えての共同作業で行ったが山の雪は深く雪割りをしてもなお馬の腹までぬかって、泳ぐようにして進む苦闘であったし、馴れない作業に早朝から日没まで汗だくだったことが思い出される。
また小学校では、生徒が石炭ストーブの焚きつけ用に、村有林や学校林から落葉松の間伐や枝払いしたものを拾い集めて学校まで背負って来たものであった。当時の先生方や生徒が苦労を味わったことも、今は懐しい思い出になっている。
昭和二十五、六年頃になると石炭の配給も円滑になり、大半の家庭で石炭ストーブが復活した。そして石炭も特塊炭から微粉炭、或は粘結の程度の異なるものなど多くの銘柄のものが出廻り、ストーブも円型、角型と外形も様々であれば構造も多種多様なものが考案発売されるようになった。
朝鮮戦争を契機に日本経済は立直りをみせ、神武景気が出現し、昭和三十五年政府は所得倍増のスローガンのもとに、経済の成長政策をとった。農村でも米価も物価も労働賃金も上昇して、好景気が到来し、昭和三十八年頃から商店街に石油ストーブが広く使われるようになった。
その頃からの日本経済は、日銀券の発行高が十ヶ年に三十倍にも膨張する過熱振りで、「消費は美徳なり」とか「消費者は王様」といわれるよき時代で、一般家庭にも手軽で清潔、そして調節自在という便利な石油ストーブが爆発的に普及され、ストーブの種類も数多く開発されて市場に氾濫し始めたのである。
しかし、一部には石炭や薪を愛用する人々があったし、傍々電気ストーブ、プロパンストーブも補助的暖房として利用されるなど、燃料やストーブの多様化時代を迎えたのである。
昭和四十七年、この頃から家屋の建築様式の急激な変革に伴って、従来のストーブという暖房の形式から、建物の構造の一部として、温風、温湯、蒸気暖房の登場となり、石油の大量消費時代を迎えつつあった矢先き、産油国の値上げ攻勢で世界的に石油危機が叫ばれ始めた。
以上のように開拓当時の囲炉裏暖房から、薪ストープの開発によって、農村生活は画期的向上をもたらしたのであった。薪資源が乏しくなると石炭ストーブが登場し、石炭資源も底が見え始めると、石油ストーブが台頭した。過去八十年の燃料とストーブの変遷は、その過程に戦争という異状事態もあったが、およそ私どもの住生活の歴史を物語っている。
そして今日省資源が叫ばれる中にあって、暖房を中心的課題とした寒地における住生活は、単なる節約精神だけでなく、新たなエネルギー源(手近な小水力発電なども含め)の開発に積極的な創意と努力が期待されるところである。

機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷   1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一