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岡山団体(静修)のゆくえ

故 春名 金太郎(当時 九十四才)

岡山県から移住し自作農になるまで
私は明治二十年九月十五日、岡山県英田郡大原町で生まれ、同四十一年二十二才の時結婚し郵便局に勤める傍ら農業の手伝いをして生計を立てていました。その頃岡山県では、北海道移住者を募集していましたので、応募することにしました。県庁の説明では、開拓移住の証明書があれば、どこの土地でも一戸分貰えると言うことでした。
移住を希望した五十三戸のうち私等二十八戸は、明治四十五年四月、旭川か富良野を目途に出発し、ひとまず旭川に腰を下ろしました。
旭川では空家に仮住いし、家族は出面仕事に出て収入を得、我々は方々の土地を見て歩きました。
美深ニウプ迄行ってみましたが、駅迄二十里もある不便な所なので諦めました。
また下富良野では、一戸分五十円で買わないかとも言われましたが、谷地ばかりで見込みがなくやめました。
そうしているうちに旭川の神楽町にある御料局で美瑛町の俵真布とルベシベに夫々百七十戸の払い下げ予定地があるので、好きな方に行くように言われました。それで我々二十八戸全部は直ぐルベシベ地区に入地することにしました。
移住民五十三戸の残り二十五戸は、私共より二週間程遅れて渡道、北見の国・滝の上村に入植したと聞きました。その頃のルベシベは、鬱蒼たる丘稜地帯で、開墾は全部手耕しでやりました。
そこで開拓に励み、しばらくたってから、上富良野の吉田村長に、上富良野に出るよう勧められたのです。支部から来ている金もあるので道路をつけてやろうと言われ、ルベシベの四番道路を開削してくれました。
その頃丁度、静修地区で農場が売りに出されたという話を耳にしました。仙台出身の七条善吉という人が、大正元年に三十二戸の付与検査が受からなかった為、自分の持つ七条農場を売りに出したのでした。
私達は早速、農場を解放してもらうように話を進め、橋本実・吉田卯之助・西条兵次郎さん等全戸がここに移り住むことになったのです。割当は、一戸当り八町から十町でした。
入地した当初は全くの荒地でしたが、労務者を雇ったので、割と早く拓くことができ、二、三年後には自作農になりました。金さえ払えば雇える労務者ですが、満州帰りの人、漁場の夫婦者等が居て、皆働き者ばかりでした。
この頃から馬も使い始めましたが、土地が一戸分二千円位の時、馬は七十円から百円位、高いものでした。
私も、渡道以来種々世話をしていた関係で、移民団体の代表者として馬の購入をお世話することになりました。
当時は欧州大戦後の豆景気で、ロンドンあたりにどんどん輸出される為、皆豆ばかり作ったものです。私も青豌豆と手なしばかり作りましたが、米が一俵四円二十銭の時、青魂豆一俵が二十七円という値が三年も続いたのです。相当儲けさせて貰いましたが、金使いも荒く、豆成金としての生活も大正六、七年迄でした。
大正八年から十一年にかけて不作が続き、借金が嵩んで、土地を売る者、夜逃げする者が相次ぎました。何時の時代でも言える事ですが、節約に努め貯蓄を心掛けた人と、そうでない人の差が大変大きかったのです。折角自作農になりながら、小作農に逆戻りした人もありました。
私共米食地帯で育った者は、米の味が忘れられず一町余り造田しましたが、米は収穫できなかったので、それからは畑作ばかりです。
特用作物の栽培
豆景気も長く続かなかったので、何か収入のあるものを作ろうと思い、ハッカ、ミブヨモギや朝鮮人参等を作り始めました。
 ○ハッカ
大学を出てハッカ作りを専門にやっている人が中愛別にいて、北海道のハッカの生産を一手に引受け販売もする大きな会社を経営していました。そこの取次店が旭川にあって、持って行くとハッカでも何でも買ってくれました。
ハッカは、はさに掛けて乾燥させる手間はかかりますが、それも雪の上の仕事ですから労働力の調整もできます。検査もないし、雑穀より高く売れるので有利な作物でした。
ところが時の農会長の吉田貞次郎さんが「ハッカは上富良野の土地には合わないから、北見地方に委せておけば良い」と言われたので、昭和十年以降はハッカの耕作は止めました。
 ○ミブヨモギ
ミブヨモギはサントニンの原料として値段もよかったので、相当作りました。盛りの時には検査員から「珍しいものだから、市街の人に見せてほしい」と言われたこともありました。
耕作者も増えましたが、病虫害が発生し、適した防除薬もなかったので自然に絶えてしまい惜しい事をしました。
 ○除虫菊
昭和に入ってから除虫菊の耕作も手広くやり六町歩程作りました。
 ○亜麻

静修地区は地味が良く亜麻に適している為、草丈の伸びも良く、年々耕作面積も増え、静修地区が主産地になった時代もありました。

 ○トーキビ
支那事変が始まってからは、航空燃料確保の為、国策に添って奨励され、私の家でも多い時は十町歩程作りました。収博は学校の生徒に頼んだものです。
 ○朝鮮人参
専門に商売をやる人がいて、価格も悪くなかったのですが、生産仲間ができず後継者もいなかったので絶えてしまいました。
 ○センキュー(当帰)
短い期間作ったことがありますが、試作程度で終りました。
美英川の支流二股の川にマスの遡上
中山さんと云う漁師がいて、毎年時期になるとマスを専門に獲りに来ました。二日に二十四、五匹も獲り、川から何度も往復して私の家に預けたものです。
あの頃は川でヤマベやマスが沢山獲れたので魚も十分食べることができました。
学校の建設
最初の入植地ルベンベでは、土地の開拓に伴いまず子供の教育を考え、移住民二十八戸こぞって学校建設を地域に呼びかけ、協力を求め、開校の運びとなりました。そして上富良野に移ってからも、江幌、静修各地区に学校を建設するべくお世話をしたわけです。
岡山団体のゆくえ
静修地区の七条農場に、第一陣、第二陣と併せて三十二戸が入地、その後も他地区から入地する人が続いて、多い時は五十戸位にもなり、当時は岡山団体としてまとまっていました。
ところが、豆景気が下り坂になった頃から転出者が相次ぎ、今残っているのは私一軒になりました。現在、長男の健一と共に、孫の義高が三代目として家を継いでおり、養豚を取り入れ経営しています。
岡山団体の名は、今は幻となり消えたわけです。
編集員注
◎ 町史に依ると、もともと岡山団体として神社があったが、いつまでも他県人独自の神社があるのは郷土全体の為に良くないということで合併し、団体の昔を忘れるように努めたと言うから、岡山団体が今日消えているのも無理からぬことと記されている。
◎ 春名金太郎翁は、昭和五十五年春から町立病院に入院加療中の処、小康を得た同年五月二十八日、病院で入植当時のことをお聞かせいただいた時の記録です。九十四才と言うご高齢でありながら記憶力も旺盛で、岡山団体の唯一人の生存者として町史に載っていない面で尊い記録を得ることが出来ました。しかし、七月初旬病状が悪化して七月十二日ご逝去なされた事は痛恨の極みです。翁の口述された事柄は長く本町の歴史として残ることでしょう。謹んでご冥福をお祈りいたします。
編集員  加藤  清

機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷   1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一