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開拓と十勝岳爆発

故 立松 石次郎(当時八十四才)

入植当時
私は三重県一志郡久居町畠戸木の貧農で、父は為次郎、母はきしの二男として明治三十年一月二十四日に生れ、同年四月、生後間もなく両親とともに板垣贇夫団長、田中常次郎代表の世話で三重団体の一員として上富良野に入植することになりましたが、祖父藤平の姉が先に赤平に来ていたので其処で一年暮し、一般の団体入植者より一年遅れて上富良野に到着、西一線北二十七号、現在の二門さんの処に住むことになりました。
父母に聞いた当時の模様では、入植して一番困った事は三年間くらいは食物の生産がなく、旭川迄行かなければ入手できないため、深い笹を刈り分けた細い道を徒歩で往来したそうです。途中美瑛川を渡るには橋もなく、倒木を探し、廻り道をしてやっと渡ることができましたが、雨で増水した時などは川岸で水の引くのをじっと待つことになり、時間もかかり家族達が帰りの遅いのを心配しながら待っていたそうです。
当時旭川の町は、商店らしきものが三〜四十戸しかなく、品物も少なく金物や日用品等は欲しい物を入手するのに大変な苦労をしたと聞いています。
当時は大木がうっそうと茂り、青空もなかなか見ることができず、笹を刈り、木を倒し、切り株の間を島田鍬で耕しイナキビなどを蒔き食糧としたようです。
毎日の食事も野草のフキ、ワラビ、ゼンマイ、タランポの芽等が多く、お米はほんの少々しか入っておらず、私たちはよく病気もせず育ったものだと思います。白いご飯はお正月かお祭りに炊くぐらいでした。
学校は町の小学校迄下駄や草履で通い、途中夕立にあうとはだしで走って帰ったことを思い出します。家に帰るとすぐ畑仕事の手伝いをしたものです。
最初の開墾のときは大木を切り倒し、今考えると大変もったいないことですが倒した木は六尺位の長さに切って一ケ所に集めて火をつけて焼いたので、夜はあららこちらで火が燃え上り山の中でも淋しくはなかったようです。
開拓間もない頃の住居はおがみ小屋といい、床板や壁板にはヤチダモの割板を使用したもので、入口の戸はむしろをつるしただけだったので、キツネや熊がのぞいたこともあったそうです。
このような生活に辛抱できずに、国へ引き返した人もいたようですが、それでもお金をたくさん持って入植した人はその後馬を買い求めてダグラを乗せ、お米六斗ぐらいの運搬賃が三円あまりで、それでもうけた人もありました。
私達の小学校時代は、畑に木の根株が多くあり、馬耕には難儀したようでした。木の株の少ない原野に入植した人々は比較的開墾は楽にできましたが、地力が長続きせず、樹林地の入植者は開拓に苦労しましたが、その反面土地が肥沃なためだんだん収穫がふえました。
当時は電気等はもちろんなく、ローソクはあっても提灯がなく、ガンビの皮を生の棒につけてタイマツを作って明りにしたとのことです。
分家により独立
大正七年二十三才の時田中すえと結婚、その年の秋現在地の報徳に分家、掘立小屋を建て引越したわけで、壁の塗っていない家でその冬は寒くて閉口しました。土地は、旭川の人で中谷国男という人のものを買い受けたのですが、小作人が転々と変り大変荒れていました。
此処に入地して間もなく広川由蔵さん、岩沢さん等が入地し心強くなりました。岩沢さんは私より年が一廻り上の人で、この人を見習いながら頑張ったものでした。私がやんちゃに稼ぐものだから、田中の母親がきて無理に働いて体をこわしては駄目だとしょっ中注意されました。
田中の二男常男はきかない男で、継母と折合が悪く、喧嘩をすると私の家にとんできたものです。暫くすると母親が心配して迎えにくる。常男は何処へ行ったかと探すと、川にいってドジョウをすくっていて、俺は帰らんといって頑張り母親を困らせていました。
常男は随分やんちゃな男で、軍隊でも鶏を押えるのが上手で、キュッともカーとも鳴かさないで押えるので中隊長にほめられたという笑い話も聞いています。旭川の岡田洋服店の婿養子となり静子さんと結婚し、商工青年会で活躍して相当幅をきかせていました。
私は馬が好きだったものですから分家した時から馬を使い、その後トラクターを入れ機械化が進むに従って馬を使わなくなってからも、この組では最後まで馬を飼っていました。
私は若い時から日記をつけており、もう四、五十年になります。昔のことを読んでいるとなかなか面白いものです。今でも習慣になって日記をつけないと寝ないことにしています。最近では相撲の勝負を初日から記録して楽しんでいます。同僚の堀川さん、阿部さん、池田さん、山田さんも亡くなられ、だんだん淋しくなりました。
十勝岳爆発
大正十五年五月二十四日は朝雨で、私は本家から借りた、人が乗って馬に曳かせる代掻機を返しに行き、帰りに三重団体の真中頃で爆発を知りました。びっくりして、馬にむち打って急いで帰ったので、一足違いで災害をまぬがれました。
途中鉄道官舎の附近で好奇心にかられて戻って三重団体の方を見ると、一面が泥の海と化しどんどん流れ拡ってくるので、一目散に馬を走らせ家に帰ったわけです。家に着くと作業していた若い衆が「おっさんもう駄目だ。早く逃げなきゃいかん」といって美瑛の方に走って逃げてしまいました。私のほうはすぐ家に入り仏様を抱え、子供がいるので食糧に困ると思いおひつのごはんを鍋に移し肩に掛け、二頭の馬をひっぱり出し、難儀しながら裏の山に逃げ登りました。上に登ると三区の方から応援者が大勢きていたので大変力強く感じ、原野の方を眺めますと、すぐ前に金子さんの奥さん始め避難された十人余りの人がいて、その日は私の家に泊りました。私が高台に登った時には流木の上で手を上げて助けを求める人や、流れる屋根の上から呼ぶ人やら、此の世の生き地獄でした。
私共は手のほどこしようもなく、只呆然と見ていました。その晩消防の方がこられ、災害の模様を聞かされ驚くばかりでした。若林さんでは長男の方が「皆死んでしまった」と私の家に泣いてきました。慰める言葉もなく、悲惨な限りでした。
若林末吉さんは二十八号の橋の処迄流され、捜索の人が黒い物が動くと思って引張ってみると人で洗っているうらに息を吹き返し、奇跡的に助かりました。
私はその晩、北川さんのいた処の倉庫で、上った死人を安置し、ニ、三人で焚火をして番をしました。
次の日、田中の婆さん(元町長田中勝次郎氏の母堂)、吉田の婆さん(元村長吉田貞次郎氏の母堂)、若林の婆さんの死を知りました。
田中の婆さんは、初め納屋の屋根に梯子をかけて登って見ているうらに木村や泥土が山の様に押し寄せてくるので、危険を感じて飛び降りた時足をくじいて何程もいかない中に泥流に捲さ込まれ流されたそうです。
田中の兄と私が見にゆくと、田中さんの処の鉄道線路がねじまくられ凄惨な姿になっていました。応援隊の人々が旭川方面から鉄道の無蓋革で乗りつけ遠藤さんの処から駈けつけてくれていました。
田中さんでは馬が二頭いて、一頭のペルシャ系のは立派な馬でしたが梁にレールがひっかかり、その時頭を打たれたのでしょうか目の玉が飛び出して死んでいました。もう一頭の中間種の方は納屋の裏でウーウーうなっているので見ると、流木に挟まれ動けなくなっていました。応援隊の方々が筏を組み、その上に馬を横に伏せ、流木を取り除き家迄運び助かりました。この馬は暫く私の家で飼っていました。
田中さんの家に入ると、助かった若林仲次郎さんが、寒いので奥さんの都腰巻を巻きつけ、田中さんの礼服を着て偉張っているのでびっくりしました。何もかも只夢中でやっていた様でした。
大分日が経ってから本家に連絡に行っての帰りに夜遅くなり、泥土の上に並べてある板の上を歩くとパッタンパッタンと音がし気味が悪くなって走って帰ったものです。
山田さんは「爆発の時、地響がするので何事かと遠藤さんの方を眺めると、庭の立木がゆさぶる様に動いていて、何を思ったかとっさに米一俵を軽く持って運んだが、納まってから動かそうと思って持ってみたが動かなかった。人間一心になると大きな力が出るもんです、こわいもんですね」といわれていたのを憶えています。
客土とジャメ馬
災害地も復興することに決まってからは、部落の人が大勢出て毎日客土用の土を運搬しました。馬を使ってのことでしたが、その中で吉田常七さんの馬はジャメ馬で怒っても、打っても、叩いても、動かないとなると下り坂でも動こうとしない。皆に耶魔するし、気をもんで焼を入れてやろうとガンビの皮を生木に巻いて火をつけて馬の金玉をあぶったら、馬植をけり、飛び上り引き始め、その後棒を持って行くと又あぶられると思い動き出したといって大笑いしたもんです。この馬は仕事をしないが乗っては良く走り、乗馬としては良い馬でした。
今日、上富良野町も開拓以来八十有余年を経て随分変りました。開拓当時から苦労を共にした友人も此の世を去り、私は幸に健康に恵まれ本日迄生き長らえ喜んでいます。
思い出の中で特に十勝岳爆発の災害について私の体験を述べましたが、その後皆様のご努力に依り災害地も以前と変りなく復旧し、その上日新ダムも完成し生産も上り世の人々の情を感謝し楽しい毎日をおくっています。月日のたつのは早いもので、大惨事を受けてから五十六年になりました。次の拙い歌を捧げ横死者の霊を慰めたいと思います。
ありし世の 有為転変の あわれさよ
昨日見し人 今日は居まさず

生き死にと 峠をさまよう 此の我に
助けさせよの 弥陀の呼び声

有難や 真宗の家に 生れれば
罪ふかき身も 弥陀におまかせ
註 本原稿を載いてからお元気で楽しい余生をおくっておられた処、昭和五十六年三月十二日天気がよかったので、朝七時頃いつもの決った時間に起床、外に出て御来光を拝んだ後、眩暈がすると言って茶の間の椅子で休みました。その日は零下二十一度に下った寒い日で、薄着で外に出たのが悪かったのか、何時もと変りなく話しをしている中に、様子が変なので立松さんのかゝりつけの渋江病院に連絡した処回診中とのことで、八時頃救急車で病院に運び手当を受けましたがその甲斐もなく午前十一時、脳卒中の為亡くなりました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
編集員 加藤  清

機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷   1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一