郷土をさぐる会トップページ     第03号目次

開拓当時の生活

松藤 光太郎 (八十九才)

私は、富山県東礪渡郡北山田村に生れました。父は、明治三十二年三月二十七日北海道入植準備と下調べのため、長沼村に落ち着き、一作収穫して、翌三十三年私が六才の時家族が渡道、当時の富良野村東二線北十八号に住むことになり、其処で成人しました。
明治三十三年四月二日西中富良野簡易教育所が認可になり、校舎はお寺の建物を利用して開校され、翌三十四年一年生として入学しました。
生徒は皆で十五人余りで、十才位の一年生もいました。通学には道路らしい道もなく、木の倒れた処が道路になっているという状態で、途中防風林が二ヶ所もあり昼も薄暗く、気味の悪い処でした。フラノ川に橋がかかってなく、倒れた丸太を渡って通ったので、低学年には全く危険でした。先生は石田幸太郎といい、そのお兄さんが陸軍の大佐とか少佐とか聞いていました。ちょっと身体の不自由な方でした。
学校にはストーブが無くて囲炉裏に丸太をたいていました。窓も紙を貼ってあって、破れた処から風が入り、煙が一方に流れ、煙い処には誰も行きたがらず、年上の者から「お前そっちに行け」といって風下の方に追いやられたものです。私共年少者は怖いのでいつも煙たい方に居ました。
明治三十七年四月から新しい校舎が建築され移りました。その頃の学校建設の費用は全額が部落住民の寄付金で賄っていたと聞かされています。四年生の時、清水先生が担任となりました。相撲をとれる位の大きな身体の生徒がいて先生とよく相撲をとっていました。先生がよくあんなことをするものだなと思って見ていました。
西中で尋常科四年生を終り、高等科は上富良野小学校に通いました。毎日鉄道線路を歩いて通学したものです。教室も四室か五室あり、廊下が長いので「何と大きな校舎だなあ」と思いました。生徒は百人近くいたと記憶しています。和田先生に一年習いました。そのうちに家の仕事が忙しくなり学校を止めて二、三年家で子守りをしました。
その後兄夫婦が都合により家を出ることになり、十五才の時から私が農業をやるようになりました。
私の家が入った土地は大半拓けていました。全部で二戸分で隣には山崎さん、小池さん、松田さん等が住んでいました。
谷口さんという人が旭川に用たしに行き、帰りは夜になり木がうっそうとしているので、家がわからず、しかたなく木の上に上がって一夜を明かしたということもありました。朝起きて、此処等辺りに家があった筈だと見廻すと、木の下に自分の家の屋根があったというエピソードです。
山崎さんのお父さんはとてもハイカラな人で子供達が皆着物を着て通学している頃、何かの儀式の時詰襟の学生服を着せてよこした事がありました。洋服を着た子は一人なので、恥ずかしくて教室のすみで小さくなっていたことを思いだします。
学校のお弁当のおかずは塩マスを入れてあることがありましたが私は臭が悪く塩辛くて嫌いでした。
友達で食べている人もいましたが、よくあんなもの食べるなあ、魚ってこんなに不味いものかと思っていました。
作物も食糧としては麦、アワ等を食べ大変おいしかったと思っています。稲キビ餅もよく食べました。四、五年経ってから稲を二反余り作って初めて三俵余り収穫しました。
現在地に移ったのが十勝岳爆発前で畑が八町、水田が七反でした。
十勝岳爆発
爆発の日は田植も済んで、崩れた用水路のところに行って見ていると、突然ドーンという音がして、何だろうと思っていると、乗馬で「オーイ、今十勝岳が爆発して市街に水が流れてくるぞ」と叫びながら来る人がいました。「馬鹿な事を言ってるな」と思いながら近くのフラヌイ川に行って見ると泥水となり、見ているうちに水嵩がドンドン増して農道具も一緒に流れてきました。
市街の人は明憲寺の方に向って走って逃げましたが、幸い私の家は西側の高い処だったので、川のそばで流水を見ていると、お寺の方に避難した人達が心配して「オーイ、危ないぞ、バカヤロー」とどなっていました。
夜になって水はそれ以上増えず、避難した人達が私の家に集ってきました。夜が更けると静かになり「ホオ、夜はこんなに静かなものかな」と皆で見ていました。
翌朝三重団体の全滅を知り、私の姪も流されて、行方不明と聞き三日も四日も捜し廻った処、始めにタンスが見つかりましたが、中には着物がいっぱいつまっていました。タンスどころではなく一日二日と捜し廻っているうらに、タンスの中の着物は誰かに持ち去られ、「カラッポ」になっていました。
あの爆発で吉田貞次郎村長さんはお母さんを亡くしながら役場の災害対策本部に詰め、お葬式にチョットお参りしただけで市街地の臨時救護事務所に引返し指揮をとっておられたと聞き、只々敬服の外はご座居ません。
未曽有の大災害のため、復興か!放棄か!と二論に分かれ、村は大騒ぎとなりましたが、吉田村長の復興に対する熱意は堅く、道庁を動かし復興に踏み切ったわけです。道庁に行った時も「あれはどうしようもない」と係官に言われたが、三十余年にわたってつくりあげた血と汗の結晶であるこの土地を、ここで見すてる気持ちは毛頭ありません。人事をつくして、石にかじりついても復旧したい」と母の死に涙を見せなかった吉田さんが血涙をしぼっての陳情、吉田村長の悲痛なさけびは官僚、政治家を感動させたと聞いています。
その時昼食にご馳走が出たが、吉田さんは、私はそんなご馳走はいりません、皆さんと一緒のもので結構ですと言われたとか、吉田さんのお人柄がしのばれます。
吉田さんが村長と産業組合長を兼ねていた頃、多忙な身でありながら、私の父三治が西中の産業組合長をしていたので、泊りがけで指導して下さった事を父から聞かされ陰ながら尊敬していました。
石川団体という処はよく酒を飲む処で、酒の酔が回るとしばしば喧嘩が始まったもので、また始まったわいと思って見ていたものです。全く他愛無いものであっさりしていて、兄弟けんかをしているようなものでした。
大本教について
昭和十八年山部の親類の者が今度山部で、おもしろいお祭りをやるんだが見にこないかと誘われて行ったことが信者になるきっかけとなったわけです。
私の家は浄土真宗のカンカンで兄弟共はそんなものに入ったら、娘を嫁に貰う人もいなくなるといって意見されたものです。
大本教は神道系の新宗教ですが、出口王仁三郎さんの話を聞いて万教同根であるという教えに共鳴しています。大正以前の本に書いてあること等、第二次世界大戦の終末等一致する事柄が多いので、数回の弾圧を受けながら、信者が増えていることは真に平和を願う人が多いからだと思います。咋年六月正宣伝仕の辞令を貰い、引き続き活動を続けています。
全国の市町村の中で世界連邦に加入宣言した市町村も相当あります。私は世界連邦という新聞を毎月二十部とって学校の先生や関係の人に配布して読んでもらっています。

機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷   1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一