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石碑が語る上富の歴史

中村 有秀

その(ニ)日露戦争で戦死された『高松高次郎氏の戦死紀念碑』
   建立年月 大正五年七月
   建立場所 住吉区 明意寺境内

上富良野の地に開拓の斧が入れられて、初めての戦死者は、上富良野村東四線北二十二号から出征し、日露戦争で戦傷死された、『高松 高次郎氏』でした。
日露戦争……明治三十七年二月四日の御前会議は対露開戦、国交断絶を決定し、八日には陸軍先遣隊が朝鮮の仁川に上陸し京城に向った。海軍は旅順のロシア艦隊を攻撃して戦端が開かれ、二月十日に日露双方から宣戦が布告された。

『天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇称ヲ践メル大日本皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス』によって開戦した。日露戦争に動員した兵力は、総計百八万八千九百九十六名、死傷者は準士官以上が六千三百名、兵卒が二十万名、このうち戦死は四万六千四百二十三名。さらに病気になったもの十七万名、不具廃疾のため兵役を免除されたもの十一万八千名、浮虜二千名、というぼう大な数字が残っている。
『旅順口』、『二〇三高地』の戦いについては、テレビ、映画等で周知のことと思われるが、我が郷土から出征された『高松高次郎氏』は日露戦争で 負傷され、野戦病院より大阪陸軍予備病院に転院、戦況を心配し、そして遠く故郷を偲び、父母兄を思いつつ療養に専心、再び出征し皇軍の兵として一身を犠牲にせんと期していた。明治三十七年十二月六日、日本軍は『二〇三高地」を完全に占領し、高松高次郎氏の無念の気持を大きく晴らしてくれ、また、旅順開城も間近いという情報があるなどして、負傷した体も快方に向うかと思われたが、明治三十七年十二月二十八日午前七時大阪陸軍予備病院にて、陸軍歩兵二等卒の二十二才の若さで、無念を心に秘めてこの世を去られた。
皇軍の忠実勇武な兵士として、異郷の地での壮絶な戦に傷つき、故郷を遠く離れての療養生活は、いつも、父母そして兄、友人を思い、又故郷の四季の変化に思いをめぐらしていたことであろう。
高松高次郎氏の『戦死紀念碑』はとなっているが、裏面は字が小さく永年の風雪で判読しにくく、筆者は三月の湿った雪を碑面にこすりつけながら記録した。
『戦死紀念碑』について、建立者の高松礼次郎氏(高松高次郎氏の次兄)の二男で現在、上富良野町日の出一下に健在の高松森之助氏と明憲寺住職、近藤信行師に、高松家の家系、建立理由、明憲寺と高松家の関係等について聴取したので記してみる。
高松森之助氏の先々代、高松良助氏は岐阜県大野郡荘川村にて高松長九郎、チノの長男として天保十一年七月十四日に生れ、その地で、モトさんと結婚し三人の男の子(荘次郎、礼次郎、高次郎)に恵まれたが、三人の息子達の将来を考えて、明治三十年四月に北海道開拓に大きな夢を託して渡道した。最初は現在の長沼町に入植したが、毎年の水害に苦しまされ、次いで空知郡幌向村に行くがここもだめで、明治三十三年四月に当時の富良野村字中富良野東三線北二十三号(現在の富原地区)に入植した。
良助さんは温厚で信仰心が厚く、明治三十五年創立の真宗大谷派説教場(現在の警部派出所と長谷商店の附近)の頃から世話役をされ、説教場の移転(現在の西富区荻野電気商会の裏附近)にも止檀徒の中心として奔走された。
明治三十八年七月五日、近藤義憲師が勇払郡安平説教場から、真宗大谷派上富良野説教場に着任された。
移住戸数も増加し、信徒も百三戸に達したので、高松良助、中原茂七、寺前千代松の三氏が発起人となって『寺号公称』を明治四十年五月三日出願した。
明治四十年九月十一日『真宗大谷派光暁山明憲専』として許可され、近藤義憲師が開基住職として任命された。
『寺号公称』によって、本堂、庫裡を建設することになったが、その建設用地について二、三の予定地があった。しかし、予算的な制約もあって用地決定が難行していたおり、高松良助さんと同じ岐阜県人である、和田兵九郎氏(現町長 和田松ヱ門氏の祖父)が『和田家は真宗本願寺派であるが、私の生家は真宗大谷派です。同じ真宗であり私の祖先もお世話になっておりますので、明憲寺建設用地として三反歩を寄附いたします』と言われて、現在地に明治四十二年十一月、木造柾葺、七間×八間で五十六坪の本堂、庫裡が完成したのである。
これらの、説教所の設置、寺号公称、移転と本堂と庫裡の建設等の大変な仕事を、明憲寺の設立総代として『高松良之助さん』は献身的に尽力された人であった。
なぜ、明憲寺境内に、高松良助さんの三男、高松高次郎さんの『戦死紀念碑』が建立されているのかと、筆者も疑問に考えたが、前記の信仰心に溢れ、多大なご苦労をされ、そして、日露戦争の壮絶な戦いで、上富良野開拓以来の初めての戦死者であり、その英霊のおかげで私達の今日の繁栄があると言うことが、開基住職、近藤義憲師の考えであったと思われる。
そのことは、『戦死紀念碑』の揮毫はどなたでしょうかと、現住職近藤信行師にお聞きしたところ、『これは私の父の書体です』と明言されたことにも表れている。高松家の家族と開基住職、近藤義憲師が信仰と共に、いかに人間的にも深いつながりがあったかが推察される。
『戦死紀念碑』は何年頃に建立されたかについて関係者に尋ねたが、正確な年月日は不明だった。石碑に刻まれている『釈西乗 俗名 礼次郎建』となっている。父高松良助さんは、三男高次郎の戦死はいつも頭にあって、いつかは紀念碑をと考えて開基住職近藤義憲師と何回となく相談をされていた。その矢先に、高松良助は病に倒れてしまった。渡道し開拓者として苦労しながら、一家の基礎をつくり、明憲寺の開教時から厚い信仰心のもとに献身的に尽力されたが、大正二年四月二日に永眠された。ときに七十二才であった。
父が亡きあと、礼次郎さんは父の遺志を継いで、何んとか弟の戦死紀念碑と考えて建立したのが、大正五年のお盆の頃と思われる。それは戦死された高次郎の十三回忌になり、現住職近藤信行師(大正二年一月十九日生)が物心がついた頃には既にあったと語られ、礼次郎さんの長男森之助さん(当時十三才)も碑の建立の手伝いをさせられたと記憶を語っている。
建立当時の『戦死紀念碑』は大きな自然石を台座に置かれてあったのが、現在の三段積みの台座になって、碑が大きく見える。静寂な明憲寺境内の松の老木や樹々、鐘楼堂、十勝岳遭難記念碑、そして遠くを仰げば、十勝岳連峰の大パノラマが映し出される。台座を三段積みにしたのは、建立した礼次郎氏の長男森之助さんであった。なぜ三段積みの台座にしたのであろうか……。これには 高松家一族のドラマが秘められていた。
以下は礼次郎氏の長男森之助さん、四男光輝さんからの話しを記したものである。
祖母モト(昭和三年四月二十九日没)、父礼次郎(昭和三年九月二十五日没)と同じ年に肉親を続けて亡した長男森之助さんは、弟妹が多く、特に男子が七人いるので分家させるのも大変と考えて、南米のブラジルへ移民して牧場経営することを決意した。
昭和四年、高松家一族のブラジル移民の第一陣として、二男高市さん夫婦(元上富良野中学校で公務補として勤務)、四男光輝さん(現在の道央信用組合の所で高松鉄工場を経営していた)、六男行雄さんの四名が神戸港を出航した。長男森之助さん、母たかさんの残った家族は翌年に出発することにしていた。
森之助さんは高松家の一切の財産を処分し、異国の地ブラジルへの渡航準備を着々と進めていた。
移民の準備をするなかで一番の気がかりなことは先祖のお墓と、父が建立した『戦死紀念碑』であった。ブラジルへ行ったら、故国、日本には帰ることはないだろうと考え、お墓の整備をし、そして『戦死紀念碑』の台座を三殴に積み上げ、永年の風雪にも耐えるようにしようとした。
昭和五年、森之助さんは本間牧場所有の原野から出た石を貰い、石工を頼んで台座を三段に積み上げその上に碑銘を上げたのであった。
その工事のおり、森之助さんは建立した父礼次郎の名を碑銘に刻んで父の労を残すことにし、碑の裏面に『釈西乗 俗名 礼次郎建』と新たに刻んだのが現在の『戦死紀念碑』の姿になったのである。
祖先の墓、戦死紀念碑の整備を終え、これらの維持管理について親戚やお寺さんにお願いして、高松家の最後として、長男 森之助さん他八名が神戸港よりブラジル移民船『さんとす丸』に乗船し、故国との別れに涙を流した。ときに、森之助さんは二十九才、七男の正彦さんは五才、母親たかさんは四十四才であった。
前年にブラジルに渡った第一陣はどうしていたのであろう……。
第一陣の高市さん夫婦、光輝さん、行雄さんの四人はブラジル、サントス港に着き、そこから馬八頭挽きの大きな幌馬車に二日間揺られて、ブラジルの奥地、モジアナに着いていた。
モジアナではコーヒー農薗で働きながら、翌年に来る兄、母を待ったが、気侯、風土、食物等に馴れず、又、非常に治安が悪く、いつも短銃か短剣を持っていないと危険な奥地の状況であった。
昭和五年、兄や母が『さんとす丸』にて太平洋を航行中に悲しいことがあった。モジアナで幼少ながら兄らと共に頑張っていた六男行雄君が、現地特有の『アメーバー赤痢』にかかり、高市夫婦、光輝兄の懸命の看護にもかかわらず、十一才の短い生涯を異国の地ブラジル、モジアナで閉じたのだった。
森之助さん、母達の船旅は、太平洋からインド洋、そしてアフリカの南端ケープタウンに寄港しながら大西洋に入って、六〇日間を要してようやくブラジルのサントスに到着するものであった。前年に来ていた家族とは僅か一年振りであったが、異国の地での肉親との再会と行雄君の死亡、気侯風土や食物の違いでの苦労等が積って、母親たかさんと森之助兄を囲んで、泣きながらの再会であった。
南米ブラジルの広野の中で、牧場経営を日ざして着々と準備を進めながら、コーヒー農園で兄弟は懸命に働いたのであった。その折、二男の高市さん夫婦が気侯風土に馴れず病気がちになり、遂に日本へ帰国された。
行雄君の死亡、高市さん夫婦の帰国があって、このブラジルの奥地での牧場づくりは当分は難しいと判断し、森之助兄は母、弟妹と相談し、サンパウロに出て花園を行うことにした。
サンバロウの生活も同じで、病人が多くなり、このままでは家族が全滅してしまうのではないかと、不安が出はじめた。家族全員で今後どうしようかと相談したところ、いろいろ意見があったが、故国日本へ帰ることになった。
昭和六年九月、サントス港よりアメリカ合衆国のニューヨーク港に寄港し、パナマ運河を通って太平洋へ出て、そこから北上しアラスカを経て日本へ帰って来たのであった。このブラジルへの往復は、まさしく西回りの世界一周の旅であったのである。時に、昭和六年十一月であった。
帰国後、上川郡中愛別で農業を営んでいたが、故郷上富良野が忘れられず、昭和十二年に上富良野村三町内(現在の西富区五、松井薬局のところ)に転居した。
そこで雑貨店を三年程行い、そして養豚業をはじめたのである。上富良野中学校前に豚舎を設けて長男克富さんと共に養豚規模を拡大していったのだが、公害等の関係もあって、後に住宅豚舎ともに日の出一下の現在地に移ったのである。
しかし昭和四十年の後半から、飼料の値上りと豚肉の値下りが続き、昭和五三年に養豚業をやめた。
現在、森之助さん夫婦は、長男の克富さん夫婦と孫の康則さん夫婦の三代夫婦と共に、毎日朝夕に十勝岳を仰ぎ見ながらの、悠々自適の生活を送っておられる。
『高松高次郎 戦死紀念碑』を整備し、南米ブラジルに永住しようとした高松家の兄弟は、五十年を経た今日、お孫さんに囲まれながら住時を懐しく思っておられます。

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一