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上富良野における地神

上富良野高等学校 郷土史研究会

◇はじめに
私達の郷土史研究会は、今年で発足六年目を迎えました。その間一貫して、仏教寺院を除く神社、馬頭観音、山の神、地神などの民間信仰を研究調査してきました。調査方法も、ゴールデンウィークや夏休みを利用して、自転車で富良野盆地を回り、個々の碑について、農家の人達に直接聞き取り調査をするという地道な方法で行いました。このようにして集めた六年間の調査結果を報告したいと思います。
◇開拓と信仰
上富良野町における地神碑は、自然石に「地神」とのみ刻んだものや、五角の石碑に「五神名(天照皇大神・大已貴命・忍穂耳命・々杵命・彦火火出見命の五つが多く、場所によって二〜三神名が違う)」を刻んだものなど様々です。
祭日は、ほぼ春秋の社日(春分、秋分に最も近い戊(つちのえ)の日、注1)です。この日は過酷な労働を強いられた開拓当時の農民にとって、数少ない農休日であったようです。人々は、地押碑の前に、米・御神酒・魚・餅・野菜などを供えます。そして準備が整うと、祝詞(のりと)をあげ、その後、直会 (なおらい)と称する酒宴を行います。当時は地神祭の行事として、浪花節・芝居・子供相撲などが行なわれていました。
それでは、草創期の人々は、どのような気持ちで地押を祀っていたのでしょうか。北海道に入植し開拓に入った人々は、遠い故郷を思い、何か故郷とのつながりを持ちたいと願ったはずです。そこで故郷で祀っていた地神を、心のよりどころとしたものと思われます。
当時、地神が果たした役割は大きなものでした。まず第一に、農業生産基盤も安定せず、農業技術も発達していない中で、少しでも多くの作物が収穫できるよう豊作を祈願し、一日も早く安定した生活が送れるよう真剣に祈っていたのでしょう。第二に、地神祭は、先にも述べたように、開拓当時の農民にとって唯一の農休日でもあり、又部落全員で楽しむことによって部落内の和を計り、結束を深めていったのだと思われます。
◇信仰と祭り
次に地神祭の意義を考えると、草創期と現在ではどのように変わったか比較してみます。まず豊作を祈願するという点は、形態としては残っていますが、農業技術が発達し農業基盤の安定化した現在では、草創期のような心からの祈願という面では段々薄れてきているように思われます。又神事や行事を部落全員で行うことによって、部落内円満や結束を計るという点では、地神にお参りするのも一部の人に限られ、形式的なものになっているように見受けられます。
更に祭日を農休日として、部落内でレクリェーションを行うという点も、現在ではおおかたの部落が農休日としていないし、レクリェーション的行事もほとんど行われていません。これは、開拓当時の農民にとって、地神祭は数少ない楽しみであったのに比べ、今日ではテレビや車の普及によって様々なレジャーを楽しむことができるからです。すなわち地神祭の持つレクリェーションの意義は薄れてしまったのではないでしょうか。
◇地神のふるさと
さてこの地神祭は、いつ頃、誰の手によってどこからもたされたのでしょうか。
上富良野町にある十七の地神の中で最古のものは富原三地神です。これは、明治二十三年に屯田兵として永山の屯田兵村に入村した八名の四国出身者が、明治三十二年に上富良野町富原地区に入植し、永山農場を開き、翌三十三年に建立したものです。
建立に携わった八名の出身地を戸籍等で調べてみてみますと、徳島県全域・香川県東部・淡路島三原郡のいずれかの出身なのです。この地域は『阿波の民俗手帖』によると、地押信仰地域でもあります。
それに四国においては、これ以外の県で、地神信仰は行なわれていないとのことでした。又この地の地神祭と上富良野の地神祭とでは、神名・祭日・様式などの主立った点が共通していることがわかりました。
以上のことから、上富良野には、四国出身の入植者によって、四国地方独自の地神信仰がもたらされたと言うことができます。
そこで私達は、上富良野町の地神の故郷と思われる兵庫県淡路島三原郡三原町まで赴き、地神の歴史や、上富良野町の地神との比較など調査することにしました。
江戸時代中期の寛政元年(一七八九年)に、四国阿波藩(現徳島県)藩主は、各部落に地神を祀るよう命令を出しました。こうして始められた地神の.信仰は、命令によるものであるため農民がそれまで信じていた土着の神とは異質であり、区別して考える必要がありそうです。
この頃、全国の諸大名・諸藩の財政は窮迫しておりましたが、阿波藩は、特産物である藍の専売制によって財政を保っていました。
しかし、染料の藍を農民に強制的に作らせ、安く買い上げ、高く売るという専売制は、農民の利益と常に対立しました。そこで、阿波藩内で大規模な一揆が起ったり、「藍騒動」と呼ばれる藩と農民の対立紛争が、度々起きています。この農民の動きを警戒した藩主が、力の下に、農民達を結合させようとしたのが地神信仰だと思われます。こうして、八幡信仰を始めとする多くの神の中に、地神も加えられました。
さて淡路島三原町では地神祭のことを「シャニッツァン」と言い、これは社日に祭りを行うためだと思われます。町内には二十六個の地神碑がありますが、現在祭りが行われていろのはそのうち半分でした。これらのすべての石碑には、天照皇大神を中心に埴安媛命・倉稲魂命・大已貴命・少彦名命の神名が刻まれています。
祭日は春秋の社日で、碑の前には米・御神酒・餅・魚・小豆飯などが供えられます。祭りの日は、当番に当っている人「頭人」が、石碑の正面に、地神さんのための木箱(注2)を据付けます。この中には、御神酒錫・かわらけ(土器)・頭帳が入れられており、当番の人に回されるようになっています。
三原町には、地神の他にも、鎌倉時代から大きな勢力を持つ八幡様や恵比須様・荒神様・お稲荷さんなど、かって七十五祭りといわれた程一年間に多種多様の祭りがあります。そのため地神様が担っているはずの豊作や家内安全などの祈願は、八幡様やその他の神々が満たしてしまっています。それで三原町では、地神自体がもともと農民から支持されにくい一面を持っていたわけです。
それに対して上富良野町では、開拓当時には唯一の守り神である地神に、いろいろな祈願や期待をかけていたと考えられます。
次に祭りを行う組織について見ると、三原町には村の行政全般を総括する「総代」、一年間に行なわれる数多くの祭りのすべてを取り仕切る「宮総代」、部落が共同で使用する用水溜池を管理する「水利総代」の「三総代」と呼ばれる組織があります。
地神祭を行なう組織としては、宮総代とその下に「三頭人」と呼ばれる頭人制があります。三原町には、年ごとの頭人を記した「頭帳」が、江戸時代から伝わっています。一方上富良野町には、このような組織はなく、部落会長が、これに代わる役割を務めています。
以上の事柄をまとめてみますと、淡路島における地魂祭は、藩主の命令により始められたため信仰が希薄であったとはいえ、当初から祭りに必要な箱や頭帳があったし、宮総代などの組織によって運営が堅実であることから、これからもしばらくは続くであろうと考えられます。
これに対して上富良野町では、農業の機械化や合理化に伴う生産の安定・労働の省力化などによって、部落共同体としての結束が弱まっており、又祭りを支える組織の弱さもあって地神祭は、次第に衰えてゆくように思われます。
それでは、開拓当時農民の願いを一身に集めていた上富良野町の地神は、本当に衰えていってしまうのでしょうか。私達は、更に富良野盆地へと範囲を広げ、調査を進めてみました。
◇地神信仰の行く方
当盆地における地神の数は、上富良野町十七、中富良野町二十二、富良野市五十二で合計九十一にものぼっています。これに地神以外の神(山の神、馬頭、稲荷など)を加えると、二十七の碑の祭りが行なわれていることになります。現在、布礼別・麓郷・平沢などでは、過疎化のため、部落合併と同時に地神も合祀されるようになり、祭祀範囲が拡大すると共に、地神信仰の意識が薄れてくる傾向があります。又碑においても五角柱のものを、自然石に「地神」とのみ刻んだものに変えるなど、簡素化が見られます。その他にも、聞き取り調査によれば、農家の人達の中で「他の農事組合にもあるから、私達にも地神が必要だ」という考えが多かったのです。
このように、地神への意識、信仰の面が薄くなってきているのにもかかわらず、祭祀されなくなった地神が少ないのは、画一化された農事組合が祀るようになったためです。
つまり、地神祭は、部落の一年の行事の中に組み込まれており、結束の中心である部落会館の敷地内に、結束のシンボルとして祀られているわけです。
調べてみると、上富良野町、中富良野町、富良野市の各農協傘下の農事組合のうち、地域により格差はありますが、五十〜九十パーセントの部落が、地神を結束のシンボルとして祀っていることがわかります。
地神祭の行事も、一時は衰退しましたが、このように、農事組合と結びついた結果、その地位は安定の方向へ向かっていると思われます。最近、中富良野町報徳、宇文で、祭りの行事としてバレーボール、ソフトポール大会が行なわれるようになりましたが、これは農事組合対抗であるもの程、盛んなようです。
それでは、なぜ部落の中で神を必要とするのかを意識の面から考えてみました。
まず農家の人達が、祭りをどのように考えているかを分類してみますと、五穀豊壊を願い感謝する、部落内円満団結を計る、伝統的な慣習から農民の神として祀る、レクリェーションの場とする、この四つに分けられると思います。
この中で特に大きな位置を占めているのは、〃部落内円満団結を計る〃ということだと思われます。その原因として二つ上げますと、第一に、稲の転作や用水利用の転換・スプリンクラーの導入など、国の政策を乗り切るために部落内の団結が必要なこと。そして第二に、聞き取りの中から知ったのですが、転作のために農業外収入を求める人が増え、部落内に専業農家と兼業農家の間で分裂の恐れが出てきたことです。
つまり、現在祭りは、伝統的な部分、レクリェーションの部分、そして現在の部落が直面している問題、と三つの要素が複雑に絡み合って行なわれているのです。
開拓当時から現在に至る迄、地神や他の神々は、その性格を様々に変化させながら、今も尚農民の神として生き続け、大きな役割を果たしています。そしてこれからも、時代に即して変化しながら、農民の心の支えとなり続けることと思います。
文中注1
春は春社、秋は秋社と呼んで区別します。これはもともと中国の考えで、社というのは、土地ないしは部族の主護神、又その祭祀をいいます。従って社日とは、中国の考え方の影響を受けたもので、社日の祭つまり地神祭は、中国の農民の祭につながりを持つものと考えられます。
文中注2
淡路島の祭典を納める箱とほぼ同じものが、富良野市北扇山にも現存しています。

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一