郷土をさぐる会トップページ     第02号目次

上富良野青年学校物語

上村 重雄(五十四才)

○開 校
それまであった各小学校単位の青年学校が、全村一校に統合開校されたのは、大東亜戦争のさなかの昭和十八年六月二十二日でした。
初代学校長には、当時富良野国民学校教官であった東明武雄先生が就任されました。教官は、学科(青年のあり方)と術科(銃剣術・体操・手旗など)に分かれ、各々四、五名の先生方でした。
今、筆者の記憶にあるのは、遠藤憲司先生、末広宗一先生、若林武雄先生、北原高義先生、術科教官として、山崎高造教官、村上富士男教官、川口教官、横山教官の方々で、昭和二十年八月十五日の終戦まで、その指導の任に当っておられました。
終戦後、学校はそのまま運営され、内容のみ大改革されました。通信教育と各小学校単位の分校活動に重点が置かれたので、各分校毎に、自主的に校友会組織が作られ、活発な活動が展開されました。また、各分校の校友会では、機関紙が発行されて、文化面の活動も活発に行われました。全村的な校友会組織では、模擬国会や卓球大会、弁論大会、相撲大会、産業研究発表会などが、年一回は開催され、また他校との連絡、共催、合同で実施されていました。
戦時中で特記すべきことは、昭和二十年八月に入り、国土防衛の使命を担って結成された「上富良野村国民義勇戦闘隊青年学徒隊」の大編成です。
隊本部長に、当時の青年学校長東明武雄教官、副本部長に、遠藤教官、その他本部付幕僚若干名、各地区毎に小隊を置いていました。但し、上富良野市街地区と東中地区は中隊を置き、軍隊組織そのままを適用して、終戦まで郷土防衛の任に当っていました。
青年学校の本旨・目的は『男女青年に対し、その心身を鍛練し徳性を涵養するとともに、職業及び軍隊生活に枢要なる知識技能を授け以って国民たるの資質を向上せしむるを目的とする』と規定されています。
その課程は普通科二年、本科は男子五年、女子三年でした。研究科は一年以上、専修科には期間の規定がありませんでした。義務制公布は昭和十四年四月二十六日で、小学校高等科終了後は、全員が青年学校に入らなければならないことになりました。
○思い出の行事
特に印象に残った行事として、昭和二十二年二月開催された模擬青年国会があります。内閣総理大臣に学校長、大臣としては、遠藤先生が畜産肥料大臣に、伊藤先生が農村経済大臣に、成田先生が衣料大臣に就任され、議会構成として議長に海江田先生、副議長と書記官長を兼ねて生徒より、私、上村重雄が当たりました。また政党として隆進党総裁に床鍋昭夫君、革進党総裁として近藤康夫君が推され、代議士も両方に分かれて真剣に論議が戦わされ、今後の農村のあり方の指針となったものです。
当日の教科担当は、末広先生、杉山先生、海江田先生、安藤先生、北向茂先生、遠藤郁郎先生、伊藤養市先生、鈴木先生の諸先生方でありました。これらの先生方は、終戦後の若人がどうあるべきかについて、常に御指導、助言に当たられました。
二十一年八月二十七日には、富良野方面相撲大会が開催されました。上富良野代表として、田村、元由、山中の三氏が出場。元由君、山中君は惜しくも敗れましたが、田村君が一位となり、上川大会出場権を得たことは、特筆すべき事であります。
また卓球大会は三月十日開催され、各地区校友会単位とし、トーナメント方式で、華々しくにぎやかに且つすさまじく、手に汗握る熱戦が展開されました。
弁論大会も盛大に開催され、若さを大いに発散させて健闘したものです。
文化活動では、文芸誌として、旭野地区「噴煙」江幌地区「くさぶえ」、里仁地区「鈴蘭」などがそれぞれ発行され、文化の灯びを高く掲げました。
また生徒組織として連合校友会が結成され、会長に青地覚君、副会長に谷本和市君が就任されました。その後青地会長が就職で退任され、後任は谷本副会長が代行しました。
その他各部があり、機関誌が発行されています。 産業研究発表会には十一名が出場し、一人一研究で農業振興、畑作、草木などの発表をして、多大なる評価を得ました。
その他雪中行事、教練、雪中相撲、夜間演習、手旗訓練などが、当時の上富良野小校庭や馬市場鍛練場(現在の島津公園)や丸一山公園で、厳しく練成されました。当時は、一学年を単位中隊として三個分隊制がとられ、軍隊制度そのままの編成でした。
今、当時を回顧すれば感慨無量、万感胸に迫るものがあります。厳しき中にも楽しかった青春のひとこまひとこまが、走馬灯のように思い出されます。
当時の先生方も、今いずこの地におられるだろう、御健在だろうか。懐かしさひとしおなものがあります。
梅田鉄次郎先生、金子淳先生、磯前先生、北川博 先生、中尾之弘先生、北川先生、林先生、斉藤先 生、奥西先生、中津川先生、中尾栄子先生
忘れもしない昭和二十年八月十五日、玉音放送により戦いに敗れたことを知り、ポツダム宣言が受諾されて、永かった大戦は遂に終りを告げたのです。
戦後青年学校に於ては、軍事教練のみ廃止となり、学科はそのまま継続されたのですが、退学する者が続出し、学校は混乱に陥りました。しかし、心ある生徒は自ら向学心を燃やし、通信教育や分校授業によって修養に励みました。再び帰らぬ青春を悔いなきものとして……。
○閉 校
昭和二十三年三月、六・三・三制を迎えて、遂に戦時下の忘れがたみとも、又、若さ日のゆりかごでもあった学び舎、青年学校は廃校になりました。
当時筆者は、本科五年、最終学年でした。校長先生は、第二代梅田鉄次郎先生で、上富良野中学校初代校長をしておられました。感慨無量人生また寂しの感ひとしおでした。
今、青年時代を顧みると、本当に充実した年月でした。苦しい時もありましたが、私の生涯にとって最大と言って良い位、非常に勉強になった時代です。
しかし乍ら、今になってみると、むしろ苦しさより楽しさが、ほのぼのとした懐しい思い出になっています。私はこの際、良い思い出にもなり勉強にもなった青年学校時代を振り返り、今一度反省し、今後の向上のための糧として、この稿を記したものです。

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一